第82話 名ぐらい名乗れ! (※私は偽名だけど

 そこは触れ込み通り、森の奥に位置する、洞穴に湧く温泉だった。浸かりながら外の緑が見えるのだが、ユウナギの入浴の際には衝立が置かれているのであまり、といった様子。衝立の向こうにはナツヒと侍女が控えている。


「あ~~いい! 生き返る~~!」

 ばしゃばしゃと羽を伸ばし放題のユウナギである。


「良かったな。はしゃぎすぎてのぼせるなよ」

「うん。もう本当に気持ちいいよ。ナツヒもどう?」

「ん? …………」

「……あっ、一緒にじゃなくて! 後で! 私が出た後でよ!」

「っそんな勘違いしてねえよ」


 こんなことで赤くなっているふたりを、また兵士のみなに見られでもしたら、悶々とさせてしまうだろうに。

 妙な勘違いで恥ずかしくなったユウナギはまたひとり、思いにふけっていたのだが、ここでとうとうあれを感じてしまった。神の気まぐれのあれだ。


 こんなところでどうしよう、と慌てふためく彼女。周遊の途中なのだから、ちょうどよく帰ってこられればいいが、そうでなければ大勢に迷惑がかかる。不在の間、ナツヒが誤魔化すのも難儀だろう。

 しかしそんなことを言っていても仕方ない。まず彼を呼ばなくては。


「ナツ……」

 いったんその声を飲み込んだ。今、自分は全裸なのだ。……とはいってもやはり呼ばなくては。


「ナツヒ来て! ……っ」

 湯に浸かっていても身体が冷えていくのを感じ、思わず自身を抱きしめる。


「だからお前そういう冗談を……。え、まさか」

 彼は急いで衝立の向こうにまわった。だがもうそこには誰一人存在せず、小さく彼女の名を呼んだがもちろん返事はないのだった。





 ユウナギは目を開けた。自身の二の腕を両手で掴んだままの体勢で、変わらず湯に浸かっている。顔を上げても湯気で先がよく見えない。しかし少しの風が吹いてくると、湯気もだんだん飛んでゆき――――。


「…………」

「…………」


 目に入ってきたのは、上半身裸の男。

 短髪で目つきの鋭い大人の男が、泉を囲む岩に肩を広げもたれかかっている。彼の後ろは洞穴の入口のよう。緑が見える。

 そしてその男も表情が固まっている。突然奥に女が現れたのだ、度肝を抜かれたのだろう。


 ところで、男の上半身が裸、というが、湯に浸かっているわけなので、つまり。


「~~~~~~~!!」

 ユウナギの叫びは声にならなかった。


「女……? いつの間に入ってきたんだ?」

 男は後ろを振り向いた。何も変わった様子はない。彼は訝しげに、口を大きく開いたままのユウナギを再度見つめる。


「そ、それ以上近付いたら、舌嚙んで死にます!」

「はぁ?」

 湯気が消えたら突如現れた女が、なにやら怯えていることは分かったが、男は近付くも何もその場からまったく動いていないし、先にいたのは自分だと理解している。


「後から入ってきてそれはないだろ。お前、接待の女じゃないのか?」

「せっ……?」


 ユウナギはなんとか自分が神隠しで飛ばされたことを自覚した。更にその場は元々いた温泉と同じ処だということも。しかし、どうすればいいのか。全裸の男が立ちふさがる。いや“浸かり”ふさがる。


「そういう趣の接待にはあまり興味がない。もう良いから来いよ」


 ユウナギは震えながら首を振った。

 湯の中にも関わらず青くなっている彼女の顔色を、男はまじまじと観察し、どうやら無関係の、ただの迷子らしいと思い至る。相手にするまでもないしもう出るか、と立ち上がった。


「!!!」

 ユウナギは大慌てで顔を湯に突っ込んだ。


「おいお前」

「~~~~!」

 苦しくなった彼女はすぐに顔を上げ、それから奥の方に背ける。


「まさかここまで素っ裸で来たのか? ひとりで?」

「え、ええ……」

「着るものは?」

「……ない」

 男は、ふぅん。と行こうとした。


「あ、あの、布か何か……か、貸し……」

 彼を頼るしかない。


「……少し待ってろ」

 男は外に出て、付きの女に指図した。

 少しの後、その侍女がユウナギの元に持ってきたのは、十分良質な衣服だった。男女の別なく着られそうなものだ。身体を拭く麻布も渡され、ユウナギは温泉から無事出られることに。


 移動前ユウナギがこの温泉に案内されたとき、近くに川が流れているのを見た。付きの女が言うには、彼女の主人は今そこで釣りを始めたとのこと。礼を言うため探しに行く。




「あ、あの……」

 川辺の岩に腰を据えている男は、声を掛けられ振り向いた。


「似合うじゃねえか、その衣服」

「あ、ありがとう。良いものを貸してくれて。あの、礼をしたいのだけど……」

 ユウナギは隣に座った。彼をよく見たら、歳の頃は30半ばといったところか、ユウナギにしてみたら中年だ。しかし先ほども多少見てしまったが、ずいぶん背が高く逞しい身体をしている。


「釣れるの?」

「釣れなさそうだな」

「あなたはこのむらの人?」

「いいや、仕事で来た」

「そうだ、あなたの名前は? 私は、ツバメ」

「ツバメ。お前の情人の名は?」


 ユウナギはきょとんとした。


「夫の名」

「夫いないわ」

「なら、惚れてる男」

「それなら……。ん?? さっきから何?」

「その男の名で呼んでいいぞ」


 赤くなった。


「何言ってるの? そんなのっ……」

 どんどん赤くなる彼女を見つめ男は、獲物を見つけた時のような笑みを浮かべるのだが、それがユウナギに気付けるわけもない。


 彼はさっと立ち上がる。

「さて、行くか」

「釣れてないのに?」

「お前を釣った」

 さっさと行こうとする彼に、同じく立ち上がって尋ねる。


「どこへ?」

「俺はここに来たばかりだから、むらの探索だ。お前はこの辺詳しいのか?」

 ユウナギは首を振る。

「使えないな。まぁいい、付いてこい」


 言い方にトゲはあるが、行く当てもないので彼に付いていく。森を徒歩で抜ける間、ユウナギは考えを巡らせていた。今回、自身の居所は分かるが、ここは“いつ”なのだろうと。

 そんな考え事をしていて黙りこくる彼女に、男は急にこんなことを言い出した。


「その衣服の見返りは倍にして寄越せよ」

「えっ?」

「素っ裸で出るわけにはいかなかっただろう? ただの衣服の何倍も価値のあるものだろうが」

「そんな……。私、今、銅貨も何も持ってない……」

「今晩身体で返してくれてもいいが。それならいらないと脱いでもまぁ同じ結果だな、俺といる限り」

「……そういうのでなくて、普通の下働きとかで……」

「そんなのは間に合っている」


 ユウナギは黙ってしまった。貞操の危機である。こんな調子で手当たり次第、女を食い散らかしていそうな男だ。思えばこの狼のような男と比べたら、周りには羊のような男しかいなかった。しかしともかく、衣服を借りたまま逃げるわけにもいかない。ユウナギはこれでも相当律儀だ。小心者ともいう。

 それにしても、見返りは倍に、というちゃっかり具合、この男は商人ではないかと彼女は踏んだ。業務でむらを移動しているならば、その線が固い。しかもあくどい商法で儲けていそうだ。


 森を出て少し歩いたら、邑の中心地に出た。そこは人通りが多く、確かにユウナギの滞在している邑なのだが、知る風景より建物が多い。ここは未来なのか、と測るには十分な景色だった。


「ずいぶん活気のある邑ね」

「ここのところ、一気に他から人民が移住してきてるのさ。この地は農業や物作りに適した土壌らしい。更に発展していくだろう」


 ユウナギの心は重くなった。ここはもう私の国ではない、そう実感した。ただ周りを見て歩いている時、昨日紹介された家族の暮らす家屋を見つけた。まったく同じ建物があり安心する。問題はそこに住む人々が変わっているか、だが。ここは何年後の世なのだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る