第80話 告白

 そこにはひとりきり、ずいぶんと老けた女性が座っていた。彼女は前回と違い、突然の訪問者に慌てるふうもない。

「……あなたは……? その装いはまさか、女王ですか? ……あら、あなた……以前にお会いしたことがあります……?」


 その風貌をまじまじと見てユウナギは、誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。

「これは蛇じゃない。抜け殻、だわ……」


 かつての美貌はどこへ去っていったのか。疲れ切った、見目はまるで初老の、弱々しい彼女の腕をユウナギは引っ張りあげた。

「な、なにを……」

「いいから来て!」


 ろくに走れそうにもない彼女を無理やりひっぱり連れていく。時間はかかっても彼女は行かなければならない。

「あなたの大切な人が! もうすぐ逝ってしまう。もうこれが最後よ。最後まで会わずに逝かせていいの!?」

「…………」



 彼の寝床に、なんとか辿り着いた。彼女はゆっくりと歩み寄り、彼の傍らに膝を落としその手を取る。しかし彼はもう、目を開けることもない。温もりを感じるだけである。


「ホタル様……」


 ユウナギはそれを戸口で見守る。


 ヒメは彼の手を頬に寄せ、ささやいた。

「それほどお待たせいたしませんので……あの世でもまた、宜しくお願い申し上げます」

 ユウナギとしては、今度はもう突っぱねないでよ、と説教したい気分だ。しかし彼女は今ですら彼に恋をしているようで、そんな相手と番えた人生が羨ましく思えた。



 別れの時を心ゆくまで過ごしたのち、自宅に戻る彼女を、ユウナギは館を出たところまで見送っている。

「長らく会っていないとしても、同じ世にいるというだけでまだ……。これからは寂しくなるわね」

「ええ、寂しいですわ。……あまりに、寂しくて」


 彼女は振り向きざまにこう言った。

「遠い処にいる娘たちに、会いたくなりました……」


 彼女の代わりに、なのだろうか、ユウナギの目から涙がこぼれ落ちる。アヅミをここに連れてこられれば良かった。この気持ちを届ける術があったなら、そう夢みずにはいられなかった。



 翌日の昼頃、病床の彼がふと少しだけ目を開けた。そのまま遠く見つめているだけで、声を発することもなく。それでもユウナギは嬉しかった。兄弟に一応連絡をしてみるが、間に合うかは分からない。

「ホタルさん……」

 彼の手を取り、世話になったと伝える。そして。


「トバリ兄様と、ナツヒと、アヅミと、また他のお子たちを、この世に生んでくれて、ありがとうございました」


 これは本来、母親に伝える言葉なのだろう。それでもユウナギは溢れる感謝の気持ちを、そのような言葉にしたかった。

 その晩、丞相は眠りゆくままに旅立った。男が40ほどまで生きたなら、大往生とも言えるこの時代。いつの時世にもありふれる、仕事に明け暮れた男の、これも新たな出発である。



 しめやかに葬儀が行われ、ユウナギの指令どおり、彼の棺は仕えた女王のいる処の前室に納められた。

 彼は家族を愛していた。とりわけ妻を愛していただろう。それでも死後の世で、その家族ではなく、再び女王の側にあろうとする事実にユウナギは、ふしぎと胸が熱くなったのだった。



 その夜、父も見送った兄弟が、ふたりきりで酒を酌み交わしていた。実はこの兄弟、そろって下戸である。ただふたりで静かに、呑めない酒をちびちびと舐めていた。


 そこに空気をまったく読まずの女王登場だ。

「え~~? ふたりで何やってるの~~? 私も仲間に入れてよお」

 実はこの女王も調理場からくすねひとり酒を煽ってみたのだが、どうやら下戸で楽しくなかった。


 とりあえず女王命令なら逆らえないが、正直トバリですら今は彼女を接待できる気分ではない。

「ユウナギ様、即位記念の周遊が3日後に迫っていますが、準備は整っていますか?」

 それとなくお開きの方向に仕向ける彼だった。


「できてるよ~~! 周遊、兄様一緒に行かないなんてつまらな~~い! そんなことより、私にも思い出話聞かせてよ~~」

 ナツヒはこのような彼女をそこらの酔っぱらいよりめんどくさいと思う。そしてこの面倒な酔っぱらいは、ぞんざいに扱われて悔しくなってきた頃合いだ。


「もう! 私を仲間外れにするんだったら、兄様のちょっとした秘密、ばらしちゃうわよお」

「兄上が自分の秘密をお前にまで知られるような取り扱い、するわけないだろ」

「ちょっとした秘密? なんですかそれは?」

 彼は余裕そうである。


「あれぇ―? 聞いちゃう―? あのねぇ~~」

 ユウナギは人差し指を立てて得意げに言い放った。


「兄様ってね、へその真下にほくろがあるの! 真下よ? ほんとに真下! まん真下!! きゃはははっ」


「…………」

「…………」


 ナツヒは兄を見た。兄は石化していた。そこでユウナギははっとする。


――――あれ? もしかしてもしかするともしかしなくても、実はこれって、なんだか私、“痴女”じゃない……?


 兄がただの石になっているので、ナツヒはまたちびちびと呑み始めた。

 当のユウナギはもう少し考えてみることに。そこに誰一人として「それ外で言わない方がいいよ」と教えてくれる親切な人がいないので、彼女は自分で気付かなくてはならない。


――――これを言うのって、ひょっとしてひょっとするとひょっとしなくても、自分で痴女だって言ってるようなものじゃない!??


「え、えっと……」

 相変わらず兄は石だし、ナツヒは「なんか詩でも詠んでみようかなぁ」なんて月を眺め出したので、ユウナギがちゃんと弁解する気になって良かった。


「あ、あの、違うの! 私、無抵抗の兄様のそれ見たわけじゃなくて! あっ、無抵抗だったけど、見たのも本当だけど、で、でも違うの!」

 彼女は真っ赤になっているが、ようやく酔いから醒めたようだ。


「違うんだってば~~~~!!」


 兄はずっと石のままなので、その弁明が聞き入れられたのは翌朝となった。





 明後日の朝には周遊に出るというこの日の夕方、ナツヒがユウナギを呼び出していた。

「……だからね、今の兄様に対して私が痴女行為に及んだ、というのは誤解であって……」

 ナツヒの案内のままに外を出歩く彼女は、いまだ弁解中だ。


「言い訳はもういいよ」

「言い訳って! やってないってば!」

「ここだ」

 そこは女王の住まいの裏林を、少し奥に行ったところに建つ小屋の前。


「この辺、初めて来たなぁ」

「ここらは基本、進入不可だ」

「えっ? 来ていいの?」

「お前もう女王だろ」

「そっか。そうだった」

 小屋の戸を開けるという時、ナツヒは言った。


「お前に渡したいものがあるんだ」

「?」



 彼がそこを開けたら、目の前にいるは凛々しくも雅な、一頭の黒毛の馬。

「…………」

 ユウナギは前進した。


「この子……」

「先代女王から賜ったんだが……。俺は、馬にそんなこだわりねえし、だから以前の、医師を連れてきてくれた礼ってことでさ……。お前欲しいものいつまでたっても言わないし、もう忘れてんだと思って……だから、この馬を……」


 言葉なくユウナギは、馬をじっと見つめる。


「自分の馬ならよく乗りこなせると思う。女王になったんだから、もう気軽に外へは出られないけどな。……え、あっ……!」


 ナツヒがそう言葉を掛けた瞬間、ユウナギは彼に飛びつき、ふたりして倒れ込んだ。干し草の敷かれた地面とは言え、ナツヒは突然身体を打ち付けられ、まったく災難だ。


「……っあっのなぁ……お前いつも急……」

 起き上がろうとするが、

「!?」

上に乗っかったユウナギに、今度は肩まで押し倒された。


「ありがとう……!!」

 ナツヒの目に映る彼女の顔は、期待していたよりずっとほころんでいる。


「私すっかり失念してた。侍従も侍女も女王の道連れにしてはいけないって、人の話だけで、動物のこと忘れてたの!」

 彼の脇の間に腕を立て、ユウナギは馬を見上げた。

「この子はきっと連れていかれてた。だって御母様の宝だもの。ナツヒの子にしておいてくれてありがとう!!」


「もうお前の子だよ」

 彼の指がとても自然に、彼女の頬を摘まむ。


 ユウナギは心の底から嬉しくて、仰向けの彼の肩で泣き始めた。

「おい、離れないと。こんなとこ誰かに見られたら、また誤解される……」

「誰も来ないって言ったじゃない。馬には見られてるけど……だめ?」

「……さぁ?」


 このところ掻き集めた様々な思いも混ざり込み、それが胸を駆けまだまだ泣き足りないユウナギは、しばらくナツヒの上を陣取ることにする。



 ひとまず涙がおさまった頃、彼女は彼の肩に頭を乗せたまま聞いた。

「御母様がタダでこんな大事なものくれるわけないよね。何か無茶苦茶な要求を、あなたに出したんじゃないの?」

「んー、まぁひとつめいは下されたけど」

「何?」

 ユウナギは少し頭を上げて、興味深そうに尋ねる。


「通常業務に毛が生えたくらいのもんだった」

「そうなの?」

 あの御母様が? と彼女は釈然としない様子。


「言われなくても自分からやりたいって思うことだから、タダでもらったようなもん」

 そう言いながら彼は、彼女の頭に手を添え、その黒々しい髪をぐしゃぐしゃとする。


「ナツヒ、仕事大好きだよね」

「まぁ、家でただ寝ていたいって思う時もあるけどな。それよりお前、いいかげん重いよ」

「私が重いんじゃなくて、この衣裳が重いのよ」


 重いユウナギがいつになったらそこをどいたのか、当事者以外では黒毛の馬しか知る由もない。



 あくる日、この女王と側近は久々の遠出、披露目の周遊へと出立したのだった。それが無事に終わるのかは、今のところやはり、神のみぞ知る、ということで。

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