第63話 両想い

 ユウナギはトバリの執務室に向かっていた。


 彼女はこの国の行く末を知ってしまった。これを彼に話さなくてはいけない。未来を予知すること、それを丞相じょうしょうに伝えること、それこそがこの国の巫女の存在意義。


 コツバメは言っていた。地震を予知し人々に話しても、対策できず意味を成さなかったと。きっとこの国の運命も、どうすることもできないのだろう。だからといって話さずにおくわけにいかない。


――――本当に、本当にどうすることもできないのか。


「国を捨てて、兄様とどこか遠くへ逃げたら、運命は変わらないかしら」


 ユウナギは思いつめていた。


 今すぐ、と言いたいところだが、港譲渡書を奪いに行かなくては。大事な約束のために。それを取ったら彼と共に、自分も海へ出るのはどうか。女王となる自分がいなくなれば、丞相となる彼がいなくなれば、運命はどこかしら変わるのでは?


 もしかしたら一族が助かる道も、開けるかもしれない?


「私はなにを、馬鹿なこと考えてるんだろう。兄様が国より私を選んでくれるわけ、ないじゃない」


 言うまでもない。分かっている。それでも悲しい。悔しい。


 一時その場にうずくまり、今にもこぼれ落ちそうな涙を身体に押し戻そうと、固く目を閉じた。


 これがたとえ叶わなくてもただ声にしたい、あふれる思い、というものだろうか。


――――北へ行こうと言おう。


 血の繋がった家族親族よりも、幾万の民よりも、それらを守る重責をかなぐり捨て、私を選んで、と。


 そして拒絶のことばを聞いたら、私はいつ命を絶ってもいい。どうせもう長くはない命だもの。




 戸を開けようとした時だった。それは自分のではない手に開けられ、頭の上から温かな声が降り注いだ。

「ユウナギ様」

「兄様……」


 彼のいつもと変わらない、優しい笑顔に決心が鈍りそうだ。そんな苦慮した表情のユウナギに、彼は突として言う。


「北へ行きませんか? ふたりきりで」

「……え?」


 彼は午後の仕事を早めに片付け、出かける支度をした。

 馬舎にやってくると。

「あなたにほったらかしだと言われたので、久しぶりに、彼に頼みました」




 トバリはユウナギを包むように乗せ、ふたり、その馬で北へ向かった。


 3刻ほど飛ばしただろうか。彼の目指した目的地に着く。

 そこは大きな大きな、鏡のような。


「わぁ……きれい……きれいな夕焼け、これが海?」

 ユウナギはそのまぶしさに目を細める。


「残念。国に海はないので……これは国でいちばん大きな湖です」


 沈みゆく太陽に照らされ、空も湖面も橙色に輝く。すべてを包み込むような陽の壮大さに、移動の間も思いつめたままだったユウナギの心は開放されたようだ。


「湖……って小さい海でしょ? 書で読んだわ。初めて見た……でもなぜか懐かしい」

「初めて……ですか?」

「うん?」

「あなたの名は、日暮れ時の、海の波が穏やかなことを言う……そう、このような」

 トバリは静かな湖面を見つめた。


「だからあなたは海から来たのではと。もしかしたらあなたの母君はあなたを抱いて、このような景色を眺めていたのかもしれません」

「…………」


 ユウナギは前へ踏み出し、瞬きするのも忘れ郷愁に浸る。湖岸の岩に腰を落としたトバリも、そんな彼女の背を見ていた。


「私ね、自分でもおかしいと思うんだけど、私はいったいどこから来て、どこに行くんだろうって考えると、涙が出てくるの……。でもこれはその手掛かりのひとつなのね。今とても、幸せな気分よ」


 振り向いたら夕陽に照らされた彼が、いつもよりきらきらとして見える。


「ねぇ兄様、幸せって何だろう? 人はより高い地位を、裕福な暮らしを求めるものだけど、必ずしもその立場が幸せとは限らない、むしろ地位も財もない民の方が幸せなのかもって」

 ユウナギは旅に出て、人と出会って、思うことがあった。


 再び彼に背を向け、まるで夕陽と語り合うように話し出す。

「私も、今は贅沢な暮らしをさせてもらっているけれど、もし以前のまま……平凡なむらの娘であったなら、それはそれで満たされた暮らしだったでしょう……。今頃はもう、母になっていたかもしれない」


 彼は一言も口にすることなく、彼女の言葉に耳を傾けている。


「だって私は、大家族の中で、毎日畑と家のことをして、いつか同じ集落の男性に見染められて、子を生み育てながらやっぱり家のことをして、それを死ぬまで繰り返す……そんな一生に憧れる」


 彼の顔を見ては言えなかったのだろう。言い終えたユウナギはやっと対面する。すると夕陽を背にした、影のような彼女の、涙だけがトバリには輝いて見えた。


 彼はそこで、普段は胸にしまっている思いを吐き出す。

「世が発展すればするほど人は幸せになる、というのが、まやかしだと思う時もあります。国が成り立ち身分制の確立する以前の方が、人々の心は豊かであったのかもしれない。だとしたら、私の日々の仕事は無駄でしかない」


 ユウナギは切ない顔をした彼の隣に座り込む。

「……兄様の幸せは?」

「それはまさに、身分など意味を成さないものですよ」


 彼は、遥か遠くを見つめる。ユウナギにはその横顔が、すごく嬉しそうに見えた。


「神が造られた美しいこの世の風景、大地、空、水、太陽、月。星々、虹、木々、草花……美しいもので溢れている、この世は。それをただ眺めている瞬間が幸せです、それらに包まれ死んでいいと思うほどに」

「死んでも? ……すぐでも? たとえば……1年後でも?」


 少し眉根を寄せてそう聞く彼女に、彼はまた微笑んだ。


「でもそれよりもっと幸せなことがあったんですよ」

「?」

「そんな景色を眺める時に、あなたが隣にいるということ。この果てしない世に居て孤独ではないのだと感じるこの時が、明日死んでもいいと思えるほど幸せだ」


「兄様……」

 暖かな情感が全身をかけ巡り、とめどなく涙があふれ出た。ユウナギも、彼と共にいるこの幸せを噛みしめた後で、明日、死んでもいいと思った。


 だから、やっぱり言わない。


 視てしまった現実は、自分の胸だけに留めておこう。たとえ道半ばで最後の時が来ても、その瞬間まで、今のこの気持ちを大事に抱いていたいから、そして抱いていて欲しいから。


 長くなくても構わない。最後まで当たり前の、何も変わらない日々を、この人の隣で生きる。



 ふたりは寄り添い、ただ静かに陽が沈むのを眺めていた。




「帰りたくないなぁ……」

 あたりは真っ暗だ。星の瞬きがひたすらに美しい。


「というか今夜は帰れませんから。このむらで泊まって朝、いち早く発ちましょう」

「泊まり?」

 その言葉の響きにユウナギはときめく。


「急な訪問になりますが、親族の家に向かいます。王女の身分を打ち明けて然るべき寝室を用意させますから、しっかり休んでくださいね」

「はぁ……有難いです……」

 いや、ここで負けてはいられない。馬に乗せようとする彼に直談判だ。


「ね、ねぇ、別に良い寝室でなくてもいいから、兄様と朝まで一緒がいい。本当の本当に、何もしないから!」


 トバリは相変わらずの微笑み顔で言った。

「だめです」


「そんな即答……」

「私が、何もしない自信はありませんから」

「え? …………」

 言葉とは裏腹なすまし顔の彼を見つめ、ユウナギは「ああ、かっこいいなぁ」と惚れ惚れする。


「いや違う。兄様、今なんて? いや聞こえてたけど、もう1回言って!!」



 以後、「旅は堅物を素直にする」という文言が、彼女の心の木簡もっかんに加わったとか、加わっていないとか。


 夜中はやはり一人寝のわりに鼓動が激しく、「しっかり休めるわけないでしょう!」と寝床でごろごろ転がっていた。

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