第33話「何もしないから」って言うヤツの95%は何かする
声の出所は屋敷の角の方か。屋敷の戸付近の
その人物はようやく篝火の灯りに入った。ふたりの視界に映ったのは、銀髪で目鼻立ちのはっきりした、体格の良い女性だった。
見えたら即、ユウナギを守ろうとさっと前に出てきたトバリを軽く横に避け、ユウナギは気丈に女性へ問いかけた。
「あなたは、特殊な医術を操るという評判の医師ですね?」
「いかにも私は医師をしているが」
会話を聞き、隣でトバリは驚きの表情を隠せないでいる。ユウナギは更に近付き頭を下げた。
「お願いします! 私の家族を診てください。お抱えの医師にあなたでないとと言われて来ました」
「家族とはその隣の者か? ……五体満足そうだな。必要があるならここに連れてこられよ」
医師はそう言い捨てて彼女の屋敷に戻ろうとした。
「家族は、中央にいます。遠すぎて簡単には連れてこられない……」
それを聞いた彼女は、侮るような表情で言い放つ。
「中央? 私はここを離れぬ」
医師は続けて言う。ここで日々研究をして過ごしていると。
ここまでやって来る患者は常時受け入れるし、時々山を下り近くの
「中央まで行って帰るだけでも10日かかる。私はここを空けられぬ」
しばらく黙って様子を見ていたトバリが、そこで口を開いた。
「周りの邑で得ておられるより、多くの報酬を差し出すと言ってもですか?」
それを聞いた医師は、入口の戸から手を離し、ふたりを眺め鼻で笑う。
「なるほど、あなたたちの身なりを見れば、身分のある者だとよく分かる。中央を
ふたりはその言い草にとげを感じた。
「だがあいにく、私は報酬で患者の優先順位を決めることはない。私は自らの医術にそれほど価値を置いていないのだ。私が売るのは私の時間。人の時間は有限だからな」
彼女は患者を診る時間と引き換えに、日々の食料や衣類、薬の材料などを得ている、少なくともそう考えているようだ。
要するに、限りある時間に診れる範囲の患者を助け、日々の糧を得るのみ。より多くの報酬を得ることでより豊かな暮らしを、とは考えない。
そう言われてしまうと、ふたりには取り付く島もない。
トバリはユウナギが無下にされているように思えて悔しいが、王女の身分を簡単に明かすわけにもいかないのでそこは耐えた。
そもそもこの医師に、女王の持つ
「それに、私は中央という処を好ましく思わないのだ」
その医師の物言いに、いや信仰以前の問題か、と彼は考え直した。
その時ユウナギはふと思った。そもそも「ここ」はいつなのだろう、と。
遠い過去でも遠い未来でも、医師をこのまま連れて帰ったとして無意味だ。まず医師に尋ねなくては。
「今は何年何月何日ですか」
急に何を? と医師もトバリも目を丸くする。
「そのように聞いても、民は暦を用いて暮らしてはいないのですよ」
トバリが
「あ、そっか。じゃあ今の女王の名はご存じかしら」
「ええと、確か」
怪しがりながらも、医師は現女王の名を答えた。それほど遠い時代ではないようだ。
「その女王が即位されて何年か、覚えは?」
「さぁ……数年だったかな。いや10年いったか? だいぶ前に、即位式典を見たことがある」
現女王は今即位9年なので、やはり遠くはない。しかしできるだけ確実な年月日を知りたい。
「ああ、暦を知りたいのなら、ちょっとした手掛かりがある」
「手掛かり?」
「つい最近、私は赤い月を見た」
「! それはいつですか!?」
ユウナギは息を呑む。
「ちょうど30日前のことだ」
「30日……」
次は振り返りトバリの目を見た。彼は即座に答える。
「55日前です」
ユウナギも覚えている、その前の赤い月はもっと何年も前だった。その時期の可能性は低い。
もしここが未来だとしたら? 自分の即位までにそれが出ないとも限らないけれど。
ユウナギはその医師の見た赤い月が直近のものだと信じることにした。
なぜなら今自分が求める舞台は、未来ではなく過去だから。「神は乗り越えられない試練を与えない、って昔偉い人が言っていた」と書で読んだのだ。
「兄様、もしここが国でいちばん中央から遠い
「急げば、4日」
「4日ね。診療に10日は欲しい……。よし」
ユウナギは交渉に入った。
「私とこの兄が3週間、あなたの奴隷となってここで働きます。あなたの時間を、ここを離れる18日間を、その労働力で買わせてください!」
技術料はまた別で。と付け加え、膝をついて頭を下げた。
トバリとしては、長い日々を王女と共に不在にすることへの焦りも覚えるが、ここは
医師は少しの間考える。
「ここを18日間離れるか。私にとっては
「本当!?」
頭を上げた彼女は、期待で顔が明るくなっていた。
「ただし見合わないと判断したら、たとえ3週間ここで働いたとしても取引は不成立だ」
ユウナギは、今はそれに賭けるしかないと承諾した。
医師に、滞在中は屋敷の裏に建つ小屋の屋根裏で寝泊りしろと言われ、ふたりはやってきた。
屋根裏は物置になっていて、窓があり月明りが入ってくる。片づければ多少は広くなるが、今はふたりがなんとか雑魚寝できるほどである。
そこでトバリが、無言で
「えっ、なんで兄様、下に?」
彼の襟ぐりを両手で掴んで聞いた。
「下で寝ます。あなたはゆったりと寝てください」
「下のがよほど雑然としてて、空きがないじゃない」
「問題ないです」
「そんなに私と寝たくないの?」
分かりやすくしょげた。降りかけていたトバリは慌てて弁解する。
そんな彼をユウナギは引っ張り、窓の手前に座らせ、手を合わせた。
「お願い! ここにいる間だけ、夜は一緒にいて。絶対何もしないから!」
「……ユウナギ様、それは男と女が逆です」
「
トバリは仕方ないなという顔で、そこに寝転がった。
ユウナギも嬉しさいっぱいの顔で隣に寝転んだ。添い寝してもらっていた子どものころ以来の出来事だ。
ここでトバリはこの現状についてそれとなく聞こうとしたのだが、ユウナギは既ににこにこしながら眠りについていた。本当に寝つきのいい娘だ。よほど疲れたのか、いや、昨夜ろくに寝ていなかったのだろう。
置物の上にあった麻の織物を取って、彼女に掛けた。そして添い寝をせがまれていたあの頃のように、彼も眠ったのである。
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