スクリーン、マドレーヌ、金メダル
スクリーン上を製作会社のロゴが滑り落ちて、一瞬の静寂が広がった。
すぐに暖色の明かりが灯り、まばらに埋まっていた客席のあちこちで人々の気配が動き出す。紙をくしゃくしゃ丸める音、衣擦れ、椅子の座面の跳ね上がるささやかな振動。客席の間に伸びる通路にはすぐに渋滞が出来上がっていた。
その様子を横目で見ながら、ぼくと妻はのんびりと身支度を進める。眼鏡を仕舞う。コートを着る。それから妻の手を借りてゆっくりと立ち上がった。座席の背もたれに掴まりながら、人の途切れ始めた通路に向かう。
足を悪くしてからは急がなくなった。電車ではドア近くに立たず、最後に乗り降りする。目の前で発車しそうでも、走らず次を待つ。
映画館では真ん中の席を取り、先にトイレも買い物も済ませておく。一度座れば、後は最後の一人になるまで座り続ける。そうしてみると案外、急ぐ理由もなかったことに気づくものだ。
映画館の出口に向かいながら、妻がぽつりと話し始めた。
「エンドロールの後に仕掛けがあるかなって思ったけど、なかったわね」
少し不満げな口調に、なんとなくフォローする気持ちで答える。
「まあ、作風を考えればね」
「そう? でもあの二人がその後どうなったのかって、見たくない?」
観ていた映画はロマンティックな恋愛物。コメディ要素は薄くシリアスなストーリー展開だったので、結末はあっさりとしていて、けれどだからこそ余韻のあるものだったように思う。しかし妻にとってはそれが物足りなかったらしい。
「そりゃ、幸せに暮らしたんだろうさ」
「その様子が見たかったのに」
野暮だなあ。そう思うけれど実際には言わない。
二人とも映画は好きなのだが、鑑賞後に感想を述べあうと大抵は噛み合わない。妻が絶賛する場面をぼくは退屈に眺めているし、こちらが興奮したと語る場面で妻は見てられなかったと片眼をつぶっていたりする。
それでも今日のように何度も二人で映画館に足を運ぶのは、お互いが視点の違いに寛容だったからだ。「わかりあえないわね」と笑って言える妻の気性を、ぼくは好ましく思っている。そうしてごくたまに、本当に稀にお互いの感想が一致した時、その映画は二人の思い出の一本になる。内容が面白いかどうかは別として、だけれど。
「ストーリーはねえ、よくあるっていうか、あれに似てたわね。マドレーヌ」
「そうか? あれは子供向けの作品だろう」
「えっ、そんなことはないと思うけど。一緒に映画館で観たわよね?」
マドレーヌは日本では劇場公開されていない映画だ。そこでやっと妻のある癖のことに考えが至った。
「違う映画の話をしていないか」
妻は時々奇妙な言い間違えをすることがある。直近のものでは「ダイヤモンドの金メダル」。ダイヤなのか金なのかと思えば、「モンドセレクション金賞」のことだ。わかるようなわからないような。
主演俳優や上映時期を聞き取りして、当てはまるタイトルを絞り込んでいく。割り出されたのはイルマーレだった。長音記号しか合っていない。
「ぼくは観てないな」
そう言うと妻は「じゃあ娘と観たのかしら」と首を傾げた。一人では出掛けられない人なので、誰かと観たのは確かなのだろう。ぼくではない誰かと。
スマートフォンで検索して出てきた映画作品の情報を見ながら、ふと目についた一文を声に出した。
「へえ、原作は韓国映画なのか」
「そうなの? 知らなかったわ。そっちも観てみたいわね」
スマートフォンの画面をスクロールして、現れた情報にこっそりと微笑む。
「ビデオオンデマンドでも観れるみたいだ。今度一緒に観ようか」
さて、この映画はぼくと妻の思い出の一本になるだろうか。
ワンライ保管庫 @9pm
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