さよならの手②


「時間みてえだな」


 遠岸楽は、ため息を吐きながら こちらへくるりと振り返る。


「俺が成仏できないの、未練だったみてえ。俺、やっぱ。ばーちゃんにさよならって言えなかったの、心残りだったっぽい。女々しいけど」


 柔らかく、困ったような笑みに、わざとらしいくらいの明るい声だった。今まではっきりと見えていたはずの肩は、ところどころ透けている。


「女々しいは失礼な表現ですよ」


 ぴしゃりと、縁川天晴が指摘する。


「悪い。ちゃんとアレする。アップデートしていく。次は無いだろうけど」


「あるよ。絶対に」


 私が付け足すと、遠岸楽は首を横に振った。


「いや、どう考えても俺は地獄行きだろ。じいちゃんの死体も、じいちゃんが殺した奴の死体、もめちゃくちゃにしてんだから」


 死体損壊は罪だぞと、念押しまでしてくる。


 環境のせいにしたら、いけないんだと思う。でも彼は、環境さえまともであったら、普通に彼の恩人と出会えていたら、今もなお楽しく暮らしていたんじゃないかとどうしても思う。


 もっと、自分のことだけを生きていけるような場所で、生まれていたら。


「さくらに言っておいてくれねえか」


 改まった声色に、彼とこうして会話をするのは最後なのだろうと実感した。


「なんて」


「将来変な男に捕まるなよって」


「親面?」


 軽く返すと、遠岸楽は冗談交じりに否定した。


「違う。俺みたいなのがかっこいいって、明らかに男の趣味終わってんだろ。将来思いやられるわ」


「善処する。見分け方とか、わからないけど」


「ああ、アイドルだもんなお前」


 思い出した様子で、遠岸楽は鼻で笑ってくる。不快には思わなかった。


「で、アイドルさんよ」


「何突然」


「炎上の鎮火目的で死ぬの、まぁそうするよなって言ったけど撤回するわ」


 まっすぐ見つめられた瞳に、ただ黙って言葉を待つ。


「お前は生きたほうがいい。死なないほうがいい。少なくともお前はやり直せる。お前の為に生きたいやつ、絶対いるだろ。そいつだけ見とけ。お前の隣に、お前は絶対リークもなんもしねえって、妄信信者がいるだけだし」


 私は、縁川天晴を見る。


 痛いところを突かれた。言い返せない。遠岸楽は矢継ぎ早に訴えてくる。


「お前まだ人も刺してないし、冤罪なんだろ? 遅くねえじゃん。絶対死ぬな。生きろ。お前が生きてるだけで、お前のこと叩いてるやつが苦しむなら、思う存分苦しませろ」


 苦しませろ。


 そんな暴論を言い放っているのに、その表情はどこまでも清々しいものだ。


 いつもより早口で力のこもった言葉に、終わりが近いのだと感じる。


「生きて、生き続けて、ずっとずっと生き残ってやれ。お前のこと叩いてる分だけ、そいつらは自分に時間を使えない。誰の為にもならない。惨めに死んでいくんだぜ。完全犯罪じゃねえか。何があってもしぶとく生き続けて、お前を叩くやつら全員自滅させて殺しちまえ」


 ばーか! と笑い交じりに、彼は光の泡になって消えていく。


 空に昇り、一面の青色に溶けていった。


 それまで彼が立っていた場所は、影一つなく太陽が照らしている。


「成仏、なのかな」


 ざあっと吹き荒れる風が風車を回しているのを横目に、縁川天晴に問う。


「間違いなくそうでしょう。あんな笑顔初めて見ましたよ。彼ずっと、お婆さんにお別れを告げられなかったことが、心残りだったんですね」


 大切な人に、お別れが言えなかった。


 その気持ちは、痛いほどわかる。行ってしまう前に、お別れが言いたかった。


 何で突然私の目の前から消えたの、どうして私のことを連れて行ってくれなかったの、残していくくらいなら行かないでよと、責める気持ちも、そんな自分に嫌気がさすことも。


 そして、何も言わず去りたくなる気持ちも、よくわかる。


 成仏したのだろうから喜ばしいことなのに。心の中に穴が空いたような、世界から取り残された喪失に駆られる。


「せめてあちらの世界では、安らかに在れるといいですね」


「そうだね」


 私は自分が消えるとき、きちんとお別れが言えるだろうか。


 縁川天晴を見た後、私は遠岸楽が消えた空を眺めていた。



◯◯◯



 遠岸楽が消えた翌日、私は一人で病院へ行くことにした。あれだけついて来ようとする縁川天晴は、ついてこなかった。


 普段平日に来れない患者さんだけを診ているらしい休日の病院の受け付けは静かで、それとは比例して入院病棟は相変わらずの喧騒を見せている。


 ぱたぱたと忙しなく、生かすために看護師さんもお医者さんも足を速め、人を生かす器具を運んでいた。


 さくらちゃんに、遠岸楽のことをどう説明していいか分からない。彼は遠くへ行ってしまったと言って、果たして納得するだろうか。


 私が両親を亡くしたとき、大人たちは両親について、遠くへ行ったと説明していた。でも幼心にもう会えないのだと悟った。


 みんな大人たちは私が幼いから、人の死を理解できないと思っていた。でも、理解していた。


 理解したうえで、反応が出来なかった。


 どうしていいか分からなくて、普通に、玄関とか、どこかへ行った先で顔を出すように思っていた。


 だって今まで、それまでずっと一緒にいたから。朝に一緒に朝食を食べたし、いってきますもいってらっしゃいも言った。その日のドラマの話もした。お母さんもお父さんも、今日死ぬなんて言ってくれなかった。


 遠岸楽も、今日消えるなんて言わなかった。私も、自分の手首を切るとき、何も言わなかった。


 じっと病床に横たわる自分を見つめる。この身体が、私のものであるという感覚すら最近は薄い。


 隣にある装置が私を生きているのだと周りに知らせている。この機械さえなければ、生きているか死んでいるかも分からない。


 踵を返して、硝子天井から光の降り注ぐ廊下を歩く。


 私は遠岸楽のように、心残りがあるから死ねないのだろうか。こんな風に幽体離脱をしているのは、心残りがあるから?


 思い当たるふしが多すぎて、分からない。ただ今私が消えたとして、最も心残りなのは、


縁川天晴の存在だ。後を追うと繰り返している。私のせいで、彼を殺すことになる。


 でも、最近はそれだけが理由じゃない。


「君は──」


 振り返ると、さくらちゃんの主治医である噺田先生が目を見開いて立っていた。


 誰か私の前にいるのか、そういえば一番最初も私はこの人にぶつかりそうになっていた。


「果崎、あかりさん」


 視線を戻そうとして、足を止めた。


 私の身体は病室にある。この場で名前を呼ぶ必要はない。そもそも私の目の前にはただ長い廊下が伸びるばかりで、誰も存在していない。


 もう一度振り返る。


 先生は、まぎれもなく私を認識し、見ていた。



◯◯◯



「えっと、つまり君は、幽体離脱の状態と……?」


 あれから、私と先生はベンチに移動した。事情を説明すると、先生は比較的すんなりと事実を受け止めたらしく、疑うことなくこちらに問いかけてくる。


「まぁ、そうなると……思います」


「さくらちゃんが、やけに君の話をするから、もしかして病室に入り込んだのかと思っていたんだが……」


 やはり、さくらちゃんはかなり私について話をしていたらしい。ここが病院で、学校や幼稚園じゃないことが救いだ。幼くたっていじめはある。何があるかわからない。


「はい。彼女は私の姿が、はっきり見えているみたいで……その、この間までは、すでに亡くなっている人も、一緒にいて、彼のことも見えていて」


「もしかして、きんきらのお兄ちゃん?」


「はい。彼と話をするのがすきだったみたいで……」


 それ以上、言葉が紡げなかった。


 一瞬であったけれど、遠岸楽と確かに友情に近しいものを感じていたんだと思う。そして今、彼が消えたことをいまいち受け止め切れていない。


「すみません」


「いいんだ。それで、君はどんなふうに過ごして……?」


「えっと、縁川さんのところで、居候というか……」


「なるほど。縁川君の家か」


 先生は遠い目を夕日に向けた。彼の兄は、この病院に入院しているらしい。先生の態度からも、重い病気なのだろう。


 退院したという話も聞かなければ、症状についても聞かない。あれだけぺらぺら喋る縁川が、何一つ言わないのだ。


「君は、自分の容態についてどれくらい知っている?」


 ふいに、噺田先生が訊ねてきた。


「えっと、昏睡が続いていると……」


「その通りだ。このまま目を覚ます確率は、正直低いと言わざるをえない。でも、目を覚ましてもおかしくないくらい、君の今の状態は不鮮明で……だからこそ、今君がここにいることに納得するような……難しいが……」


 驚くことはなかったし、先生の気持ちもわかる。


 遠岸楽を見た以上、このままゆっくり死に向かって消えていく気がする。


 いつ目を覚ますかというのは、それこそ幻のような希望だろう。


「非科学的だが、戻れたりはしないのかい。こう、身体に入り込むかたちで」


「いえ、まったく、わからず……」


 物理的に、問題があるのか、それとも戻りたくないという気持ちの問題なのか。わからない。しばらくの間沈黙を感じていると、先生は「なぜ」と、重い声音で口を開いた。


「死んで、しまったんだ。まだ、若いのに」


 まだ若い。


 その次に言いたいのは、生きたくても生きられない人がいる、だろうか。


 先生は生かす仕事をしている。寿命以外で死を迎える人だって、前にする機会は多いだろう。


「死にたかったからです」


 私は答えた。


 生きたくても生きられない。それは痛いほど分かっている。分かっていてもなお、死にたかった。


 だから、手首を切った。


「そこまで死にたいと思うほど、君の仕事は責められるものなのか。さくらちゃんだって、君の話をするたび、ずっと笑顔だったのに」


「人の前に立つ仕事ですから、色んな声があって当たり前です。私は向いてなかった」


 いろんな声がある。そう思って頑張ってきた。私のことを好きな人がいれば嫌いな人もいる。


 でも、すべてが駄目になった。今まで気にならなかったすべてが、気になるようになった。


 結局のところ、私は向いてなかったのかもしれない。SNSだけじゃなく、この仕事にも。


 アイドルとしてみんなを笑顔にしたいけど、叩かれたくない、嫌われたくないと思うことは、私の勝手な我儘でしかない。


「本当に、そうなのか。違うんじゃないか」


 先生のまっすぐな疑問に、私は形容しがたい感覚に襲われた。


 常識を砕かれるようで、返事すら選べない。先生は矢継ぎ早に、言葉を投げかけてくる。


「だって、人の目に触れてるからって、酷いことを言っていい理由にはならないだろう。君たちと同じように、僕らも社会に属している。子供は学校に通う。仕事をしていても、仕事をしてなかったとしても、必ず誰かと関わらなきゃうけない。でも、誰かと関わる以上、酷いことを言われる覚悟を玄関先で問われるなんてことはないはずだ。外で酷いことを言われて傷つく人は、外出に向いてないなんてことはないだろう」


「でも」


「君に、知っておいてほしいことがある。目が覚めた時のために」


 大人に、仕事以外でこんなにも真剣に話をされるのは、何年ぶりだろう。反射的に喉が詰まって、肩に力がこもった。


「悪意のほうが、届くのがずっと速い。気を使う必要がないから。好きだと思って、相手を励ましたいと思って、そのまま最高速の好意を送る人は稀だ。スキルになりつつある。そういう人たちは、誇っていいくらい、本当に貴重だと思う」


 そして先生は、何かを覚悟した瞳で前を見据えた。


「僕は大学生のころ、手紙をもらったことがある」


「え……」


「人の好意が綴られていく過程を、見たことがあった。すごく時間をかけていた。考えながら、消しゴムで消したりして、何度も何度も試行錯誤していた様子だった。立場上受け取ることは出来なかったが、確かにうれしかった」


 手紙。


 長文のメッセージをもらうことが、あった。読むたび嬉しくて、何度も力をもらっていた。

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