さよならの手③
「相手のことが好きで、好きで、でも迷惑をかけたくないと、相手に悪く思われたくはないから言葉を選ぶ。でも、すぐ好意を伝えられる人もいるように、考えて、どうやって相手が苦しむか言葉をじっくりと選んで攻撃する人もいたかもしれない。騒ぎに便乗して、お祭りのようにゲーム感覚で何かをいう人間もいたかもしれない。そして言葉は攻撃的であれど、きちんと君を想って厳しい言葉を投げかけている人もいただろう。すべて、僕の想像でしかない。でも、確実に言えることは」
先生はそう言って私をまっすぐに見た。
「きっと君に、もっと励ましの言葉をかけたら良かった、考えていないで、ただ好きだと言えば良かったと思って後悔している人間が、必ずいる。不格好でも、泥臭くても、好きだとぶつけてしまえれば良かったと、思っているはずだ」
後悔をしている人。
思い浮かぶのは縁川天晴の笑顔だ。信号機が明滅するみたいに、こちらを呪う瞳も浮かぶ。
「死を選ぶほど苦しみぬいた君にこんなことを言うのは、不適切かもしれないけれど……」
「いえ……」
先生はまた腕時計に視線を落とした。ベルトを付け替えたデザインに見える時計は、女性もののデザインだった。
「ああ、さくらちゃんに会っていくかい?」
「あ、はい」
突然の提案に、反射でのってしまった。
まだ、さくらちゃんに遠岸楽についてどうやって説明するかも決めてない。遠くへ行ったと言うべきか。手術前のさくらちゃんに、死を伴う言葉は使いたくない。悩んでいると、ちょうど彼女が駆けてきた。
「あーせんせー! 」
さくらちゃんはぶんぶんとこちらに手を振っている。スケッチブックを小脇に抱え、点滴も腕についているから転ばないかひやひやする。
先生はすぐ立ち上がり、さくらちゃんを受け止めた。
「走ったら駄目だと言っただろう」
「でも、あかりちゃんに絵! 描いたから! ほら見て!」
さくらちゃんはスケッチブックを開いてこちらに見せる。そこには、さくらちゃんと、私、縁川天晴に、遠岸楽が描かれていた。
試していないけど、写真に私と遠岸楽は映れなかったと思う。けれどこうしてさくらちゃんと一緒にいたことが形として残ったことが、嬉しい。
消えていく私は、さくらちゃんや縁川天晴に、痛みを与えてしまうのに。
遠岸楽は喪失の瞬間を悟っていた。私に今その感覚はない。いずれ分かったとき、縁川天晴になんて言えばいいだろう。
後は決して追わないでほしい。
黙って消えても、身体が死ねば報道される。
「絵、描いてくれてありがとう」
「うん! あ、先生も描いたよ!」
さくらちゃんは、ページをめくって先生に絵を見せた。何かの紙を持った先生が、佇む姿が描かれている。
答案用紙、かもしれない。
四角ばった花丸を注視していると、さくらちゃんが口元を抑え、笑い交じりに私に耳打ちしてくる。
「先生ねぇ、花丸かくの下手なの。かくかくしてるんだよ!」
「さくらちゃん、聞こえてるよ? それに先生は花丸描くの下手じゃないの。かくかくさせて、世界で一つだけの花丸にしてるの」
先生とさくらちゃんのやり取りを横目に、私はそのしかくばった花丸に目を向ける。外側のぐるぐるが三角形になっている特徴的な花丸。
この花丸。私は見たことが、ある。
私を助けてくれて──恋心について語っていた、あの女性。
たしか彼女は、恋文についても話をしていた。
私に、懐かしいにおいがすると言っていた。
そんな彼女が肌身離さず持っていた、あの栞。
ここに描かれている花丸と、同じものだった。
◯◯◯
「僕らを襲った悪霊が、噺田先生の関係者?」
家に帰って、私は早速縁川天晴に今日のことを報告した。あの女性が持っていた栞に描かれた花丸を先生が描くことや、彼女の語った地元へのエピソードと、類似点が多いこと。すべてを。
「たぶん、あの人が会いたがってるの、先生かなって」
「仮にですよ? もしそうだとしたら、どうするんですか?」
縁川天晴は、ベッドに座り、湯のみでほうじ茶を飲んでいる。
「会ったほうがいい気がして……」
縁川天晴が、テーブルへ湯のみを置いた。私をじっと見つめ、「危ないかもしれませんよ」と付け足す。
「彼女は、貴女を襲ったんです。その事実は変わりません」
「でも、助けてくれてたんだ。私の話してる大学生くらいの人たちに、物を投げたりして」
彼女は私たちを襲おうとした。でも、私を助けてくれたのも事実だ。
助けたいと思う気持ちがなければ、実体がない者たちはこの世界にかかわれない。
あの瞬間確かに彼女は、私を助けようと思ってくれた。
「僕がいないときに襲われたんですか!?」
「いや、そこは気にしなくていいよ」
「また守れなかった……」
肩を落とし始めた縁川天晴に、私は近づいた。あの日染めた髪はすっかり馴染んでいる。相変わらず学校には行ってないけれど、クラスの人からメッセージは来ているようで、「通知音聞いてるとひりひりするんですよ」なんて、切ってるようだった。
「遠岸楽と同じです。僕も間に合わなかった。肝心な時、僕はいつも貴女に間に合わない」
彼は、自分の手のひらを見つめている。
「ごめん、でも、どうしても気になるんだ。先生のことも、彼女のことも」
私はあの人を救う方法を、知っている。そして先生の救いになるかもしれないことも。
「二度はないです。僕は貴女を傷つける人が嫌いなので」
ぽつりと、遠岸楽が呟く。
「でも、貴女を助けてくれた人は、好きです」
そして、ゆっくりとこちらに視線を合わせた。
「ありがとう」
「本当に、二度目はないです。こんなこと推しに言うのあれですけど、危険なことは、してほしくないので」
「ごめんね」
「謝罪はいいです。こんなこと推しに言うのあれですけど」
縁川天晴は先ほどと同じ言葉を繰り返す。
間に合わない。何のことかを言っているかは、よくわかった。
彼は震える手で、自分の親指と人差し指をすり合わせる。
この手は、止めたかった手だ。
私の、死を。
◯◯◯
花丸の共通点を見つけた翌日、私はある場所に寄ってから、また病院へ向かった。噺田先生は回診を終え、中庭で遊ぶ子供たちに一人ずつ声をかけて歩いていた。
ゆっくりと歩く背中に声をかけると、静かに振り返る。
「さくらちゃんの手術は午後だよ。ずいぶん早くに来たね」
「えっと、今日早めに来たのは、先生に用があって……」
「なら、そこのベンチに座ろうか。悪いけど最近筋肉痛がひどくてね、長い時間立ち止まるのはつらくて」
中庭は、うっすらと膜をはったような曇り空に覆われていた。太陽も遮られ、わずかに光が漏れている程度だ。
先生は私をベンチへと促し、座った。座る動作に痛みが伴うのか、力をこめながら神経を尖らせ腰をおろしている。少しずつ背もたれに身を預けてから、先生はこちらに振りむく。
「それで、話というのは」
「先生は、家庭教師か何かをされてたことが、ありませんか」
確信を持ちながら問いかけると、先生は痛みを感じたように一瞬顔を強張らせた後、静かにうなずいた。
「よく分かったね。何か。そういう感覚が鋭いのかな」
苦笑気味に肩をすくめて、先生は話を続ける。
「僕は、学生のころ教師になるつもりだったんだ。親は医者だから、それを押しのけてね」
「学校の、せんせい……」
「教育学部に入って、僕はバイトを始めることにしたんだ。親は医学部に受からなければ学費は払わないと言っていたし、家は追い出された。学費はまぁ奨学金でなんとかなっても、家賃までは賄えないから」
「大変……でしたね」
「うん。両親は俺が泣きついてくるのを待ってたんだよ。でも、意地悪でしてた訳じゃないと思う。代々医者の家庭だったし、教師は薄給。精神的負担もあるからね、不幸になってほしくない気持ちが強すぎたんだろうね」
確かに、お医者さんの先生も大変そうだけど、学校の先生も大変そうだなと思う。小学校の頃は、生徒が授業を終えたらてっきり帰ってるものだと思っていたけど、許可証とか、保護者の判子がいるプリントを仕事終わり……夜の九時ごろ学校のポストに入れに行ったとき、普通に電気がついていた。
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