雨が止む④
あれから、弁護士さんはお寺の中にある客間へと通された。
催しの準備をするときに使っているらしいそこは、夏だというのにひんやりと冷えた空気が広がっていて、凛と冴えるような部屋だった。
木板作りの床の中央で、縁川天晴のお父さんと向かい合って座る弁護士さんは、
「担当していた依頼主……国選なので依頼とは違うのですが……その、私が弁護を担当していた方の、お墓参りがしたかったので……」
「担当って、もしかして遠岸楽ですか?」
自分の父の後ろに立つ縁川天晴が問いかけると、弁護士さんは小刻みに頷いた。墓の主である遠岸楽は、後ろのほうで歩積さんをじっと見つめている。
かつて脅迫を行った相手への瞳は、憐憫や焦燥が複雑に絡み合い、憤りなんて入る隙間はないように感じた。
「声をかけられ気が動転して逃げてしまって……すみません。持ってきたお花やおまんじゅうが手元から消えていたことや、転んだ時に嫌な感触がしたことは分かっていたんです……」
そう言って、彼女は通路を汚した理由を語りながら、居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。額からは汗がいくつも流れ落ち、顔色も悪い。
「じゃあ弁護士さんが自分の担当した人間のお墓参りを、こっそりしに来た理由ってなんですか……? 誰かに追われているってわけじゃないのに」
縁川天晴が首をかしげる。私もそこは気になった。芸能人でも、警察に追われる犯罪者でもないのだ。隠れたり逃げたりする必要なんてどこにもない。
すると歩積さんは、「これは、私の見間違いかもしれないんですけど……」と弱弱しく前置きをした。
「最後に、遠岸が死刑判決を受けたときの顔が、忘れられなくて」
歩積さんは未だ、滝のような汗を流している。でもその声音はしっかりとしていて、ゆるぎない確信を帯びていた。
「笑ったんです。あの子。一瞬だけ優しく。まるで安心したみたいに。その後はすぐ、私や裁判官に罵声を浴びせて強制退場にはなったのですが……」
判決を言い渡されたあと、遠岸楽は、弁護士の女性を侮辱した。「なんで俺が死刑なんだ」「お前が地獄に落ちろよ」と罵り、絶叫した。
裁判官が死刑を伝えた後、言葉をかけようとしたものの、遠岸楽は退場の運びとなり、最終判決で被告人不在で閉廷する異例の事態となった。
「でも、彼が私を脅迫するのは、暴れるのは、決まって裁判の時だけだったんです」
歩積さんはハンカチで汗を拭いながら、うつむきがちだった顔を上げる。遠岸楽は、じっと彼女を見つめたまま、視線一つ動かさない。握りしめられた拳は、耐えるように震えている。
「雨の日だけ、彼は面会を受け入れてくれました。でも、何も話さないんです。ずっと黙ったまま」
雨の日だけの面会。
いったいどんな理由があるんだろう。遠岸楽は気分で動くと言ったけれど、とてもそんなふうに思えなかった。何か理由がっての行動だ。それは歩積さんが一番感じているのだろう。彼女は悲痛そうに、今自分の後ろにいる遠岸楽と同じように。手のひらを握りしめた。
「私、公判が終わってもなお、事件について調べてるんです。でも何も出てこない。すべての証拠が彼を犯人だと示してる。裁判での言動も、全部、私は彼が怖かった。弁護士である以上依頼人を第一に、法の下守るべきです。私は困っている人を助けたくて弁護士になった。でも、彼の国選弁護士に選ばれたとき、どうして私があんな人の弁護をしなくちゃいけないの。こんなことのために弁護士になっちゃんじゃない。あんな人、裁判なんてせずとも死刑でいいって……」
裁判なんていらない。
お金の無駄だ。
人を殺したんだから死刑でいいじゃないか。
遠岸楽に関することで、何十回と目にした言葉だ。軽くタップしただけで、彼の死を望むコメントがあふれていた。
「でも、今ふと思うんです。本当に、彼の判決は正しかったのかと……すみません。こんなこと、話すべきじゃないのに」
歩積さんは、こぼれる涙を汗と誤魔化すように脱ぐって、また俯いた。
「どうしてそこまですんだよ……」
やるせなさを滲ませ、遠岸楽が呟く。その声は、私と縁川天晴にしか聞こえていない。しんとした静寂があたりを包む。みんな、何も言わない。ただただ黙っている。
幽体ではなく私がこの場にきちんといたとして。どんな言葉を彼女にかけるのだろうと想像した。
でも、何も言葉が浮かばない。今と同じだ。部屋の中は静かで、微かに聞こえる木々の音だけが、今、決して時間は止まっていないのだと教えてくれる。
「僕は」
しかし、静寂を断ち切るように縁川天晴が口を開いた。彼は立ち上がると、そっと歩積さんの前に座りなおす。
「何も知らないですけど、担当してくれた弁護士の方がそんな風に考えてくれて、ありがたいなって思っていると思いますよ。遠岸楽は」
「え……」
「僕は彼についてよく知りませんけど、もし幽霊として逢ったなら、貴方を見て複雑そうに顔を歪めて、どうして俺のためにそこまでするんだよって、言っていると思います」
その言葉は、まぎれもなくさっき遠岸楽が言ったものだった。歩積さんはハッと目を見開いた後、はらはらと散りゆく花びらのような涙を流す。すると、ぶっきらぼうな声が室内に響いた。
「適当なこと言ってんじゃねえぞ」
その悪態は彼女に届かない。
やがて遠岸楽は大きくため息を吐いて、居間から出て行った。
●●●
「俺の知り合いが悪かったな」
すべてを話した歩積さんが寺を後にしてから遠岸楽の姿を探すと、彼は自分の墓の前にいた。大理石のプレートに名前が彫られた小ぶりの墓石と相対する彼は、視線をこちらに向けない。私と縁川天晴は、彼を挟むように隣に立っていた。
「まぁ、いいですよ。あかりちゃんが危険な目に遭いませんでしたし、怨霊もどきから助けてもらった恩もありますから。あかりちゃんを暗がりに連れ込んだのは許してませんけど」
縁川天晴は得意げに鼻をならした。この状況でもそんな受け答えができるなんてどうかしている。
しかし、遠岸楽は軽く相槌をうってから、呟いた。
「俺は、恩返し出来なかった」
遠岸楽はいつも、鋭い視線で私たちを威嚇していた。
でも今の遠岸楽に、そんな雰囲気はない。こちらを睨む一方で、神経を尖らせていたのだろう。そしてその理由は、おそらく……。
「工場長……じいちゃん、世話になったのに」
ずっと誰かを庇って、守ろうとしていたからだ。
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