遠き安楽③
死に損なった為か、まだ私の器官が生きているからか、嗅覚はあった。
出汁や焼けた香りのする食卓を横目に、私は机を囲む家族へ目を向ける。
今まで夕食時は縁川天晴の部屋にいたけど、女性や遠岸楽の存在が不安らしい。特に不安なこともないけれど、言うことを聞いてくれないなら死ぬと言われ、一階に降りている。
そして縁川天晴は怒鳴られるなんて言っていたけれど、彼のイメージチェンジを彼の家族は受け入れた。
「お父さん、手が空いてるなら麦茶ついでおいて! 白いふたのポットのほう! 赤いポットにめんつゆがあるから! よろしくね!」
「どこ行くんだ?」
「電球切れちゃったって、おじいちゃん今トイレで真っ暗なのよ! 大変!」
そう言って縁川天晴のお母さんはトイレットペーパーを持ち、廊下を抜けていく。縁川天晴のお父さんは法衣を身にまとったまま、グラスに注いでいる途中だった赤いふたのクールポットの取っ手をつかんだ。
グラスは家族でお揃いらしい。めんつゆは自家製らしく、見え辛いけれど『昆布、しいたけだけ!』と、油性ペンで書かれている。ただ、縁川天晴のお父さんは眉間にしわを寄せた。
「つけ皿大きいな……小さめの深皿は、割れてたか。めんつゆどっちのポットだ……?」
事故が起きそうになっている。私は机のほうで箸置きを並べる縁川天晴に声をかけた。
「水色のグラスが麦茶で、透明なのがめんつゆってお父さんに言って」
「え? どうしてですか」
縁川天晴は、お父さんとお母さんのやり取りを聞いていなかったらしい。私が急かすと、彼は慌てて息を吸い込んだ。
「水色のグラスが麦茶で、透明なのがめんつゆだって!」
彼が声を上げると、彼のお父さんの体がびくりとはねた。お父さんは「危ないところだった」と息を吐く。
私も胸を撫で下ろして、きちんとめんつゆ、麦茶が混ざらずグラスに注がれていくのを見届けた。
机の真ん中には、すり硝子の深い大皿が二つ並んでいた。水がはられた中に素麺が氷を纏うように盛り付けられ、青モミジが浮かんでいる。
「実はお父さんとは、週に一回しか一緒にご飯食べられないんです。いつもはお父さん、お寺のお弟子さんたちとご飯食べてて」
そうめんの周りに所狭しと並ぶ料理を指しながら、縁川天晴は声を潜める。
竹かごに山盛りにされた人参、茄子などの野菜の天ぷら。山菜の煮びたしに、胡瓜や大根の漬物。がんもどきに、胡麻豆腐。豆の煮しめに、味噌の焼きおにぎり。葡萄やりんごに西瓜と鮮やかな果物が並ぶ食卓。週に一度家族が全員そろうからという想いも込められているのだろう。
「精進料理って確か魚とか肉は無いって」
「はい。まぁ、俺は寿司とかも好きですけどね。揃えましたし」
私は前に、お寿司チェーン店の一日店長を勤めたことがあった。その一環で、特定のセットを頼むと私の缶バッジが特典としてついた。そのことを言ってるのだろう。
「お刺身とかふつうにあったけど……」
「はい。父は俺が色んな栄養を取ることを望んでるんで」
お寺の息子なのに、それでいいのだろうか。縁川天晴を見れば、「それより」と彼は話を変えてくる。
「本当にいらないんですか夕食、美味しいですよ?」
「お供えにしかならないから」
「でも栄養取らないと……」
「なんか言ったか?」
やはり、一人で壁に向かって話をするにも限度がある。お父さんは、ひとりでに話す息子に声をかけた。
「何でもない」
「そうか……? 一人で話をしたり、突然髪を染めたり……何かあるなら言いなさい?」
「本当に大丈夫。一人で話なんてしてないし。お父さんの気のせいだよ。お父さんこそ大丈夫? さっきめんつゆと麦茶間違えたり……」
縁川天晴は、心配した声音でごまかすから、彼のお父さんは自分の幻聴を疑ったらしい。思いつめた表情で自分の耳に触れている。
「やめなよ。お父さん悩んでるじゃん」
注意をしてから、後悔が湧き出す。
立ち入ってしまった。髪を切るのも、洋服についても、口を出した理由がある。でも今の言葉は反射によるものだ。不快にさせたかと縁川天晴の顔色を窺えば、たいして気に留めない様子で笑みを浮かべていた。
「そういえば父さん、今日遺骨の受け入れしてたよね」
「納骨な」
「それってさ、この間までテレビに出てた事件の人の分もある?」
「強盗殺人のか」
強盗殺人事件。
二十一才の青年が、自分の勤める工場の社長と、その取引先の従業員三名を刺殺し、お金を持って立ち去った事件だ。
特に工場の社長の遺体の損傷が激しく、強い怨恨を感じるものだったらしい。
死刑囚は工場の社長から息子同然に可愛がられており、逮捕後も世間から激しいバッシングを受けていた。
「ああ。どうしてだ」
すっと厳しい表情になるお父さんに、縁川天晴はとぼけた調子で返事をする。
「なんていうか、わりとテレビに出てたから、気になって」
彼の裁判が起きるたびに、ネットのトレンドではもう死刑でいいとの言葉がのぼり、担当弁護士には同情の声が集まった。彼の弁護から外すべきだと、署名運動も行われた気がする。
「どんなにテレビに出ようと、悪いことをしていようと、ほかの人と変えることなく弔うのが仕事だ。お前も、覚えておきなさい」
「うん」
波紋のように緩やかな沈黙が広がる。縁川天晴は、静かに自分のいつもの場所であろう座布団の上に座った。すぐに慌ただしい足音が響き、彼のお母さんが「大変! 回覧板出すの忘れてた!」と、バインダー片手に入ってくる。すると、神妙だったお父さんの顔がさっと青くなった。
「いつから家にあった? かなり前に来てなかったか」
「もう、起きたことは仕方ない! 今度から気を付けます! 食べてからもっていきましょ。ごはん冷めちゃう」
縁川天晴のお母さんはバインダーを棚の上にバンッとおいて、食卓を囲んでいた座布団の上に座った。やがておじいさんやおばあさんがゆったりとした足取りで食卓につく。お父さんも、「仕方ないか」と座った。
いただきます、と誰かの号令に合わせるように、家族で手を合わせて食事を始めている。からんと軽い氷の音が響いて、まるでドラマのようなシーンだと見つめてしまった。
家族で色の違う箸置きを使って、みんなで同じ食事を囲む。
確かに、私も同じような団らんの中にいたことがある。もう思い出せないくらい、小さい頃だ。
当たり前だった日常が、ドラマのように──非日常に見えていた。不鮮明な衝撃に戸惑いながら、私はただじっと家族の光景を眺めていた。
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