第4話
夏の蒸し暑い日中の金山での労働は、夜、人々を深い眠りに誘う。
まだ暗い早朝、起きているのは見張りの役目の者。そして、思いがけない境遇になった事に心痛する夕霧だった。
夕霧は死を覚悟していた。紅軍団の頭の娘として生まれた、これも定めだろうと思っていた。それに何十人もの間者を殺めた父親の報いだと覚悟していた。
とは言え、夕霧は小太郎と夫婦になりたかった。諦めきれない思いに心は乱れて、寝床に入ってはいたが一晩中一睡も出来ていなかった。夜が明ければ城に登って、桜雅様と入れ替わらねばならない。その事を小太郎に言いそびれていた。
もう一度小太郎に会う時間など、無さそうなのが残念だった。だが、それを言ったら小太郎が何とかしてくれたのではと思う自分の心が嫌だった。
言わずに別れて、これで良かったのだと何度も自分に言い聞かせた。
「私の為に、小太郎様を、父上や城主様に刃向わす訳にはいかないわ。言えば小太郎様は、私と逃げてくださったに違いない」
夕霧は自分でも気が付かないうちに呟いていた。そんな時、廊下からかすかな声がした。
「夕霧殿。起きて下さい」
小太郎の声がした。
「どうしたのですか、こんなに朝早くから」
「しっ、静かに。夕霧殿。訳を話す時間はありません。急いで身支度をして私についてきてください」
夕霧は何が何だか解らないまま、慕っている小太郎の後に続いた。小太郎は、普段人の通る事のない獣道を、夕霧の手を引いてどんどん走って山を下って行く。
夕霧の手は引き千切られんばかりである。
「待ってください、小太郎様。手が、手が痛くて」
「急がねばなりません。追っ手が来ます。今のうちに少しでも差を広げておかねば」
「どうしたのです。追っ手とは、父上たちの事ですか。それだったらそんなに急がなくても、父上は出来る事なら私を逃がしたいと言っていました。逃げたら逃げたで、そんなに厳しく探すとも思えません」
「頭は夕霧殿を責めはすまいが、この小太郎は別です。それに私はまだあなた様に言っていない事がいろいろあります。それに追っ手は、頭たちだけでは有りません」
小太郎はいつもの自信に満ちた様子とは打って変わって何かに怯えているようだった。
夕霧はそんな小太郎の様子を見て、足手まといにならないように必死で付いて行くが、所詮鍛え上げた男の動きにはついて行けずとうとう転んで足を捻挫してしまった。すると小太郎は物も言わず、夕霧をおぶい必死で獣道を下って走った。夕霧は段々不安になって来た。
丁度、紅琉川の源流のひとつ、白衣の滝の上に差し掛かった時、小太郎は足を止めて滝の岩場を下ったものか、山道を下ったものか一寸躊躇した。小太郎の緊迫感がひしひしと伝わってきた。
私のために小太郎様に万一のことがあってはと思い、夕霧は言った。
「小太郎様、夕霧を置いて一人でお逃げください。小太郎様にもしもの事があっては夕霧は生きてはいけません」
「それは小太郎とて同じ事、それにこの様な事態になったのはすべてこの小太郎が原因なのです」
「それはまた、どういう意味なのですか」
「聞かないでください。言えば夕霧殿はきっと私を嫌いになります」
「でも」と夕霧がなおも聞こうとすると、
「本人の口からとても言えないそうなので、私が変わりに説明してあげましょうか」
と言いながら、薮の中からぬっと出てくる若い男がいた。
夕霧はぎょっとして恐怖が走った。そんな所から待ち構えたように出てくるのは異様だった。今が今まで小太郎は走り続けていたのだから。
小太郎は夕霧をどさりと落とすと、
「おのれ、焔の童子」
と、あっという間に切りかかった。
しかし焔の童子はそれよりも早くひらりと避けると、なんと言うことだろうか、夕霧たちの頭よりも遥かに高い空中に浮いたまま、
「無駄な抵抗をするつもりか、お前も意外と愚かな奴だな。そんな小娘に入れ込んで自分の父親の敵討ちを忘れたか」
と、喋りだした。
「小太郎様、あの者の言う事は本当ですか。嘘に決まっていますよね」
夕霧は、焔の童子の言葉から想像できる恐ろしい現実を打ち消してほしくて、小太郎に訊ねた。しかし小太郎は俯いたままだった。
焔の童子はなおも喋り続けた。
「小娘、よく聞け。この男は小太郎に有らず。名は黒雲雷太と言い、東の大国の馬鹿殿お抱えの忍び、黒雲雷蔵の息子じゃ。最も、雷蔵にしても十一年前、そちの父親に正体を見破られ殺されておるから、大した奴ではないが。だが雷太、我も、あの馬鹿殿大河俊重も、お前には期待しておったのにのお。雷蔵の息子にしては、なかなかの才能じゃった。その若さで今から果てる事になるとは、惜しい事よ。それもこれも、そうそう、分かっておる様じゃな小娘。お前のせいじゃ。お前にたぶらかされたが為に、裏切り者として、この焔の童子に今から殺されるのじゃ。その辺でようく見物しておれ。愛する男が自分のせいで殺される所を見ることができる者は、めったに居らんぞ。ふふふふふ」
「いやあっ、小太郎様、早くお逃げください」
「夕霧殿、もはや逃げ延びる事は出来ませぬ。せめて一太刀」
「やあっ」
と小太郎は焔の童子めがけて飛び上がって切りかかるが、太刀は空を切るばかりだった。
「ふふふふふ、愚かな事よのお。雷太、あの馬鹿殿はまだお前が裏切ったとは信じられぬようじゃ。十年前、何としても親の敵を討ちに行きたいと願い出たお前のけなげな小僧時代の顔が、眼に焼きついておるようじゃ。その敵も討たず敵の娘と駆け落ちとはのう。山方麗山が、姫の替え玉に紅軍団の頭の娘を寄越すつもりだ。という知らせを聞いてから後、音沙汰は無し。お前とこの小娘の間には、我の好まぬ臭いがしてきて居ったから、さてはと思って様子を見に来たのじゃ。まだ馬鹿殿の軍は今日の夜ぐらいしかたどり着かぬはずじゃから、逃げ延びるつもりじゃったのだろうが、我を甘く見ておったようじゃな、雷太」
夕霧は愛する小太郎が間者で、夕霧の父親が小太郎の父の敵だと喋り続ける化け物の言葉を、信用するわけにはいかないとは思っても、小太郎の様子からしてそれが真実のようで、絶望に涙していた。
小太郎と夕霧は、絶体絶命の状況であるが、その様子を見ている者がいた。
シンとその母紅のせせらぎ姫だ。紅のせせらぎ姫の結界はその優れた能力によりたとえ焔の童子のような悪魔の使いの鬼でも感づくことは無かった。
紅琉川の母の結界の中から夕霧を助けようと飛び出しかねないシンを、紅のせせらぎ姫は厳しく止めていた。
「シンや、人間に関わってはいけません。彼らには彼らの定めがあるのです。それにあの焔の童子はあなたの敵う相手ではありません。父上の大露羅様でもどうなることやら。ですから、今、出て行っては、大変な事になりますよ。あなたはまだ死ぬ定めにはありません」
「でも、でも、私は夕霧を助けたいのです。夕霧を幸せにしたいと心に決めているのです」
「シンや。龍神が弱い人間を助けようと思う気持ちは良い事です。私もあなたのおばあさまに当たる今は亡き龍神、水の清けき姫から、その志は教えられております。とは言え、命あっての事です。あのような鬼に関わりあってはなりませぬ」
シンは自分にもしもの事があっては、母を悲しませるとは思っても、一線を越えてしまった自分の気持ちはどうする事も出来なかった。
今はただ、母の力に自分が敵わぬため、夕霧を助けに行けないのだった。何とか母の考えを翻させる手立てはない物かと思案していると、シンの眼通力で兵隊たちの姿が見えた。
「母上、東の大国の兵が入ってきています。このままではこの国は戦になりますよ」
と言った。
「分かっています。あれは東の大国の兵ではなく、隣の灘の国の兵です。東の大国は今日の夕刻にしか来れません。灘の国が東の大国に便乗して攻めて来ているのです。焔の童子がわざわざ灘の国の領主に知らせたのです」
と、紅のせせらぎ姫はシンを訂正した。
「では紅国の人間は知らないのでしょう。紅国の皆に知らせてあげなくて良いのですか」
紅のせせらぎ姫は眉を寄せて少し考えると、
「ではシンや。私が知らせに言っている間、大人しく此処で待っているのですよ。母の言う事を聞かずば、命を落とす事になりますよ」
と、シンに言い置き、祠に向かって行った。
シンは頷いたが心は裏腹だった。
母龍が居なくなり、今のうちにと結界から出ようとしたが、母の結界は入る事も出る事も敵わぬ最強の結界だった。
「どうせ出られないんだから、黙って行けばいいのに。変に期待を持たすんだから」
シンはがっかりと座り込んだ。
シンがそうしている間も、夕霧たちの状況はますます悪化していた。小太郎は夕霧をかばい後ろにやって、焔の童子に切りかかろうとするが、童子は太刀が届く所には始めから居なかった。焔の童子は時々からかうように小太郎に火を放つが、後ろに夕霧が居るため小太郎は避ける事が出来ず、大火傷を負っていた。
「小太郎様、小太郎様」
夕霧は泣き叫ぶばかりだった。
シンは結界から出る方法を以前母親から教えられていた事を思い出し、それを思い出そうとするが、すべて忘れてしまっており途方にくれていた。実は忘れさせているのも母龍紅のせせらぎ姫の力だった。
一方紅のせせらぎ姫は、丁度朝もやの中を祠の掃除に行く途中の鮒助爺さんに出会っていた。鮒助と紅のせせらぎ姫は、鮒助が子供のころから仲良くしていたのだ。姫は声を掛けた。
「鮒助殿、鮒助殿、いつもご精がでますこと」
「おや、その声はありがたや、紅のせせらぎ大龍神様」
「いやですよ、そんな大げさな言い方。それより鮒助、早くお逃げなさい。戦が始まりますよ。南の沢からお逃げなさい。北の隣国、灘の国が攻めてきます。東の大国もすぐに続きます。あなたの足なら今から逃げれば戦火を逃れる事が出来るでしょう。さあ引き返して今すぐお逃げなさい」
「ははあ、ありがとうごぜえます」
鮒助は大慌てで引き返すと家財道具を荷車に積み、狼と犬との間に出来た賢い飼い犬に引かせて南にいこうとしたが、
「おお、そうじゃ。わしとした事が息子夫婦に知らせねば」
と本所近くに住処を構える太郎のところへ走った。飼い犬もガラガラと大きな音をさせて荷車を引きながら、鮒助に付いて行った。
「おや、鮒助爺さん。何事じゃ」
道沿いの家から顔を出す者が居た。
「戦じゃ戦じゃ。紅のせせらぎ大龍神様のお告げじゃ。灘の国が攻めてくるぞ。東の大国もじゃ。太郎、太郎はどこじゃ。金山で金堀りどころじゃないぞ。逃げろや逃げろ」
里は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
紅軍団の一人が、頭に知らせに行った。頭の大山猪太郎は訝った。何故、灘の国が攻め入って来るのか、間者が入っていたのだろうか。そして思いついた事は、領主様はまだ夕霧を桜雅姫の身代わりに仕立てる必要が有ると思っているかも知れぬが、この混乱に乗じて逃がす事が出来るかもしれないということだ。
付き人に
「夕霧を逃がすように、小太郎に言いつけろ。後の者はわしと武器を持って北に急がせろ」
と命令して急いで戦闘準備をし始めた。しかし、
「頭、小太郎も夕霧殿も居りません」
と二番頭が急ぎ知らせに来た。猪太郎は考えた。何故灘の国はおろか、東の大国が攻めてくるのか、小太郎と夕霧は何故居らぬのか。
「もしや、夕霧は小太郎に話したのでは。あれほど口止めしたのに。とすると、東の大国が知ったのは小太郎からしか有るまい。小太郎は間者だったか。子供の頃から入り込んでいたとは、わしとしたことが気づかずに迂闊だった」
「それに、違いありますまい。小太郎に追っ手を掛けますか」
二番頭は尋ねた。
「うむ、おまえと、口の堅いもの二、三人で追え。夕霧も、同意の上の駆け落ちなら討て」
追っ手は夕霧の従兄弟、大山剣太郎と熊介、熊太兄弟になった。
猪太郎は残りの兵と北の国境に走った。残りの兵は人数は多いが小者が殆どである。普段の戦力の半分ほどだなと猪太郎は負け戦を感じた。どっち道、東の大国が相手では鉄砲隊がいくら居ても多勢に無勢だ。
「夕霧は小太郎を間者と知っていて駆け落ちしたのだろうか。そうだとすれば二番頭は夕霧も討つしかあるまい。二番頭は夕霧を討てるだろうか」
猪太郎は二番頭に此処を任せて自分が追うべきだったと思った。しかし、頭の務めを投げ出す訳にはいかない。
「紅国もこれまでか」
大山猪太郎は呟いた。
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