第5話
南の山岳地方の小国ながら裕福な国と言われてきた紅国は、今や昨日までの栄華な暮らしは吹き飛び、人々は持てるだけだけ金目の物を持って我先にと逃げ出そうとしていた。役人たちは必死でこのパニックを静めようとしていた。今や広い山道は灘の国に限らず方々から隣国の兵がやってきていたので、紅国の人々しか知らぬわき道から逃げるしかなかったが、その道はすれ違うのがやっとの崖ぷちを行く細い道である。
「まてまて、山道は狭い一度に大人数は下れぬぞ。せいぜい三人じゃ、三人ずつ並んで行け」
そんな役人の注意を聞くものはなく、我先にと下るうちに、後ろに足の速い者が居ると見えて、押され年寄りや子供が転んでしまった。後ろの者はそれが見えず、なおも下ろうとするので、転んだ者は踏みつけられ、端を行くものは崖から落ち、山道は地獄絵となった。
そんな有様を察しながら焔の童子は高笑いを上げながら小太郎をいたぶっていた。
小太郎はかなりな時間夕霧を焔の童子の火の攻撃から守ってはいたが、火傷の苦痛は小太郎の心を蝕んできた。小太郎の夕霧を守らなければならないという気持ちは、段々体の痛みに負けてしまって来た。
「夕霧殿、もはやこれまで」
小太郎は夕霧共々ここで果てようと思ったのだろう。振り返ると夕霧に切りかかった。
「危ない」それを見たシンは思わず母龍の結界から出ていて、小太郎を白衣の滝の滝壺に引きずり込んでいた。とっさにしたことだったが、滝壷の中では小太郎は溺れ死ぬしかなかった。
「おや、妙な奴が出てきたな。あいつは確か」
焔の童子は興味深げに滝壺を覗いた。夕霧は小太郎が切りかかってきたのも、滝壺に落ちたのもショックだったが、本来気丈な娘だったので、この隙に逃げだした。逃げながら小太郎の死に涙していた。夕霧にはシンの姿は見えてはいず、小太郎が夕霧を切るのを思い直して、滝壺に飛び込んだように見えていた。
「小太郎様、小太郎様どうして夕霧を置いてご自分だけ死んでしまわれたの」
夕霧は自分も後を追おうと思い、死に場所を探しながら逃げていると、小太郎と幼いころ遊んだ炭焼き小屋に行き着き、ここが良いと心に決めながら入って行った。
焔の童子は逃げた夕霧よりももっと興味を引く者を見つけていた。
「あいつはあの大露羅の息子だな。いい者を見つけたぞ」
にやにやしながら自分たちを覗いている焔の童子を見ながら、紅のせせらぎ姫は、
「シンやあれほど出て行ってはならぬと申したのに、ほらご覧、あなたの素性が判ってしまいましたよ。でもここに居ればあの者は手出しが出来ません」
と息子に話していた。しかし焔の童子にここか知れたからには、この結界が安全だとは言い切れないことも悟っていた。
シンは焔の童子に自分達の居所を知られた事も、まずい事になったとは思っていたが、夕霧の心情の事も気がかりだった。シンの眼通力で、夕霧は今、炭焼き小屋でぼんやりと涙を流しているのが分かった。きっと小太郎が死んで悲しんでいるのだ。
シンは夕霧の不幸が我慢出来なかった。なんとか幸せな気持ちにしてやりたかった。自分にそれが出来るだろうか。シンは思案していた。眼通力で夕霧を見ているうちに夕霧の動きが妙になってきた。足を紐でくくったり、短刀の鞘を抜いてしげしげと刃先を見ている。
「あれ、母上、夕霧は何をしているのでしょう」
思わずシンは母に訊ねた。若い龍には自害というものは想像出来なかったのだ。
「シンや、あれはね、恋人を失って自分も後を追って死のうとしているのですよ。人間というものは心の弱い生き物なのです」
シンは思わずそんなことはさせられるかと、夕霧の所へひとっ飛びで行った。
「なりませぬ、シン」
紅のせせらぎ姫は叫んだが後の祭りっだった。結界はまた破れた。
「おうや、おまえは大露羅の恋人だな。今日は収穫が多い」
紅のせせらぎ姫はとうとう焔の童子にその居所を感づかれてしまった。こうなっては仕方がない。 紅のせせらぎ姫は自分の力でこの鬼を何とかしなければならないと思った。勝ち目は五分と見えた。焔の童子と龍の姿になった紅のせせらぎ姫はじっと睨み合った。眼力にお互いの力を込めて眼と眼で勝負しているのだ。
お互い微動だにせず睨み合って勝負がつかずに居ると、その時辺りが急に暗くなり雷が鳴り響き大粒の雨が降り出した。北の大露羅の尊が姫の窮地に気付き助けにやって来たのだ。
「大露羅様!」
姫が愛する北の大露羅のことを思ったとき、現実とは厳しいもので心に隙が出来てしまい、あっという間に焔の童子の形勢のほうが有利になり、紅のせせらぎ姫は焔の童子の手中に落ちてしまった。 焔の童子の力で身動きが出来なくなり、悔し涙を流す姫。
「姫!おのれ焔の童子」
北の大露羅の尊は助けに来た甲斐も無く、手も足も出せない状態になってしまった。
「愚か者め、さて何時ぞやの礼をどうやって返そうかのう」
焔の童子は不気味に微笑んだ。
両親のピンチの一時前、シンは夕霧のいる炭焼き小屋へ飛び込んでいた。何とか夕霧の自害を思いとどまらせようと考えて。それには小太郎の存在しかないとは分っていたので、シンは自分が小太郎になれたらと考えながら飛び込んでいたが、そんなことが現実に出来ようはずもない。だが、
「お待ちください、夕霧殿」
シンはそう叫びながら飛び込んだ。すると夕霧は眼を輝かせて振り向いた。
「小太郎様生きておいででしたか。まあ、私はもう少しで早まった事をしてしまう所でした。良くぞご無事で」
「へっ?」
シンは夕霧の思いもかけない反応に、そうっと眼だけを下に動かして自分の様子を見た。見ると小太郎の先ほど着ていた着物と同じ柄が見えた。ご丁寧に焼け焦げもあった。どうやら自分は小太郎になっているようである。シンには変化の能力があるのだった。シンは自分が強く念じればその者になれることに気が付いた。それを悟るとシンは慌てて芝居をする事にした。
「夕霧殿、ご心配をお掛けしました。小太郎は生きております。ですがもうお別れせねばなりません。私はもう夕霧殿がご存知のとおり、東の大国の間者です。そしてその国を裏切り焔の童子に追われる身です。私と居ては、夕霧殿のお命も危ぶまれます。ここでお別れしましょう」
「はい、私は小太郎様の足手まといと承知しております」
「ですが夕霧殿、決してもう自害しようなどと思ってはなりませぬぞ。もうじき紅軍団の追っ手が来るでしょう。お頭である父上に謝って、みんなと一緒に生き延びてください。東の大国とでは戦をしても多勢に無勢、勝ち目があるとは思えません。犠牲者を出すよりも落ち延びた方が賢明でしょう。金の蓄えもあるはず、贅沢さえせねば他国で生きていけると思います。父上に会われたらそう話してください」
「はい、小太郎様の仰るとおりに致します。でも、お別れする前に私、小太郎様に最後のお願いがございます」
夕霧は悲しげではあるが、何か決心したような顔をしていた。
「なんでしょう。この小太郎に出来る事なら、夕霧殿の願いなら何でも叶えて差し上げたい」
シンは思わず自分の気持ちを話した。
「ほんとうですか、それではここで夕霧を抱いてください」
シンは驚愕したが必死で顔に出すまいと芝居を続けた。
「そ、そればかりは。」
「どうしてですか、夕霧のお願いを何でも叶えてくださるのでしょう。もう離ればなれになってしまうのですから、私達、ここで夫婦になって、そして夕霧はその思い出を一生忘れずに生きてまいります」
「しかし、しかしですね、これから離れ離れになるのですから、もしも、もしもですよ。子供が出来たら夕霧殿は一人で育てねばならなくなりますからですね、それにもし今後もっとよい人にめぐり合ったりして、その時今日早まった事を後悔するような事になったら」
「何を仰るのですか。夕霧は他の方を好きになる事は一生ありません。小太郎様の子が孕めるならこんな幸せな事はありません。さあ、さあ早く抱いてくださいませ」
シンは人間と龍とが夫婦になる事など、許される事ではないと知っていた。だが、断れば夕霧を悲しませる事になるしと困ってしまったが、この状況ではやるしかないと決心した。
一方、二番頭達追っ手はシンや夕霧のいる炭焼き小屋のすぐそばまで来ていた。
「女連れだから、まだそう遠くまでは行って居るまいと思ったが追いつけぬ。小太郎は気配はぐらかしの術ができるのかなあ」
熊太は、兄の熊介に話しかけたが、熊介は返事もしない。実は、熊介も幼いころから夕霧が好きだった。小太郎が頭に拾われてくるまでは、熊介と夕霧は仲良しだったのだ。しかし小太郎が来てからは、熊介よりも見栄えがよく武勇に優れた小太郎に夕霧は心惹かれてしまい、熊介は失脚という状況だった。熊太は兄の気持ちを知っていたので、この任務に兄が行くのはどうかと思ったが、そのような事を二番頭に話すわけにも行かず黙って付いて来たのだった。熊太はちらっと兄の懐を見ると短銃を忍ばせている。小声で、
「兄じゃ、短銃を使うつもりか」
と聞いた。
「そうじゃ、刀では勝ち目が無い。二番頭でもそうだぞ。稽古では小太郎は遠慮しておるだけじゃ。頭よりももう腕が上がっていると思うぞ。あいつは剣術では天才だ。あいつに勝つには銃しかない」
「そおかあ、だが夕霧と一緒に居るぞ。夕霧に当たったらどうする」
「頭は夕霧も討てと言ったそうだ」
「まさかあ、頭がのお」
そんな兄弟の会話に剣太郎が加わった。
「おまえら馬鹿か、それは建前じゃ。なぜわしら従兄弟が追っているか考えろ。小太郎だけ殺って、夕霧は逃がし、皆には二人とも殺ったと報告するんじゃ。そうすれば頭としての面目が立つじゃろ」
「そうだったか、それで安心した」
熊介はほっとため息をついた。
「おまえ、ちゃんと狙えよ」
剣太郎は熊介に念を押した。
その時急に空が掻き曇り大粒の雨が降り出した。皆このような豪雨は経験した事がなかった。
「こりゃあひどい降りだな。もしや小太郎たちは炭焼き小屋に入ったかも知れぬ。行くぞ」
二番頭の判断で一向は炭焼き小屋を目指した。
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