御子神先生が「鉤括弧」の話を始める⑤「夏目漱石『こころ』新聞連載時の鉤括弧」 鴫野亜実

「さて」と御子神みこがみ先生は一呼吸ひとこきゅう置いてから続けた。「原稿用紙に書かれた読点とうてんと鉤括弧は一マス与えられず、字と字の隙間にふられていた。句点は文の最後だから最後の文字の後のマスに書かれていたので、一マス与えられていたように見える。しかしこれを印刷するとき、少々めんどうなんだな。出版社にしてみれば、鉤括弧と読点が一マスの文字とした方が原版を組みやすいんだ。わかるだろ?」

「まあ、そうですね」鴇田ときたが答えた。

「それで、印刷される際に、鉤括弧と読点が一マス使うようになったんだ。さて、ここで問題です。鉤括弧の一マスはどのように配置されたのでしょう。次の中から選びなさい」

 そう言って、御子神先生はまたしてもどこかのクラスの漢字テスト答案の裏に次のようなものを書いた。


①現代のように一マス目に鉤括弧、二マス目から文字が始まる。

②一マス目は改行後なので一マス空ける。二マス目に鉤括弧。三マス目から文字が始まる。

③会話文の終わりは、現代のように句点なしで括弧が閉じられる。

④会話文の終わりは、句点で一マス使い、その後に終わり鉤括弧がつけられる。

⑤会話文の終わりは、句点と終わり鉤括弧が一緒になって一マスにつけられる。


例として次のようになる。


「鉤括弧と句点はこのようにつけられた」     ①と③

 「鉤括弧と句点はこのようにつけられた。」  ②と⑤

「鉤括弧と句点はこのようにつけられた。 」   ①と④


(作者註 。と」が一緒になった記号がないのでわかりやすくするために上のように表示しました)


「現代の小説では、①と③が使われる。小学校では①と⑤で教えられる」

「で、どうだったんですか?」あたしは訊いた。

「実は、統一されていなかった」

「へ?」

「『浮雲』を見てもわかるように、連載中にどんどん文体が変わっていく時代だ。明治の文豪もどんどん新しい言葉を使い、その漢字も最初の方と終わりの方で違う字を使ったりしていたから、こうしたもののルールはあいまいだったんだ。夏目漱石の『こころ』が新聞連載されていたころの画像があるから見てみよう」

 すでに香月先輩がそれを表示していた。

「これは、『先生の遺書(五十七)』で、『先生』が独白している部分だ。大正三年六月十八日東京朝日新聞の画像だ」

「さすがに古いですね、新聞の名前が逆になっている」あたしは思わず口にした。

「逆?」と御子神先生が訊ねた。

「『東京朝日新聞』という字が右から左に並んでいる。それに日付も右から左に。まるでお寺や古いお店の看板みたいに」

「横書きだと思うから、逆に見えるんだよ、それは」御子神先生は憐れむような目をあたしに向けた。

「ああ、なるほど」と香月先輩はすでに合点していた。

「日本語に横書きはなかった。すべて縦書きだったんだ。看板などは文字が横一列に並んでいたとしても、それは縦書きだ。一行に一文字しかない縦書きなんだ。最初の行に『東』という文字がある、次の行に『京』という文字、その次の行に『朝』、その次の行に『日』という具合だ」

「え、そうだったんですか? あたしはてっきり昔は横書きを逆から書いていたのだと」

「だとしたら、逆から書いた横書きの文書、五行十行書かれた文書があるはずなのに、そのようなものは見つかっていない。横書きはなかったんだ」

 鴇田まであたしを憐れむように見ている。やめて。あんたも知らなかったでしょうに。

「話をもとに戻そう。この新聞連載の『こころ』は一文字あけて鉤括弧になっている。②の方式だ。今では滅多に見られない。終わりは句点がない③の方式だ。そして面白いことに、入れ子になっている会話文は二重鉤括弧ではなく、普通の鉤括弧が使われている。二重鉤括弧はすでに『浮雲』の終わりで使われているのにだ。まあ、『先生』の独白の中に会話文は頻繁に現れるからそれをいちいち二重鉤括弧にするのも煩わしいわけだが」

 香月先輩が「三四郎」の新聞連載当時の画像を検索してくれたが、それに出ている鉤括弧も頭一字分空白があった。「三四郎」も②方式だった。ということは初めのころは②方式だったのではないのか。

 香月先輩はその後も画像検索を続けて、川端康成の「美しい!」(福岡日日新聞 昭和二年)を見つけ出してくれた。それは会話文の初めの鉤括弧の上に一マス空けない①方式になっていた。終わりの鉤括弧には句点がついている⑤方式だ。昭和の初めには①⑤方式になっていたのではないかとあたしは思った。

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