御子神先生が「鉤括弧」の話を始める④「夏目漱石の鉤括弧」 鴫野亜実

 御子神みこがみ先生の話は長かった。それをすべて書いていてはとてもページが足りない。何より興味のない人間には退屈で、とても聴いていられるものではなかった。

 そこであたしは、話を端折はしょることにした。

 要点は次のようなものだ。

① 「浮雲」の書き始めの鉤括弧は終わり鉤括弧がなかった。句点もなかった。読点とうてんは少しあった。

② 「アイドル」という風に、外来語など単語を強調するために終わり鉤括弧を使うことはあった。

③ さらに読み進めていくと、会話文でも終わり鉤括弧が使われるようになった。浮雲第三編には何と二重鉤括弧も使われている。そして句読点もふつうにつけられるようになった。


ということで、「浮雲」における鉤括弧の使われ方の変遷の話は終わった。(ちょっと端折りすぎかな)

 しかし、それで鉤括弧の話が終わったわけではなかった。さらに次の段階へと進んだのだ。あたしは呆れた。


「ところで、鉤括弧は今では一マスあてがわれているのは知っているな?」御子神先生があたしたちに訊いた。「一文字分のスペースを使っている。しかし明治のころは、読点『、』もそうであったように、この記号は一文字分のスペースも与えられていなかったんだ。そうなると原稿がどうなっていたのか気になるよな」いや、そこまで気にならないでしょ。あたしは言いたかったがとても言える雰囲気ではなかった。

 鴇田ときたは黙っていた。

 そしてあの香月かづき先輩が、すっかり目を開けていたのだ。全く変なところに興味をもつものだ。

「『浮雲』の原稿の画像があればいいのだが、検索しても出てこないんだ」

「たしかに……」すでに香月先輩は動いていた。画像検索を終えてしまっている。「『平凡』の原稿は見つかるのですが、会話文が出ている原稿ではないですね」

「どこか資料館を探してみるのも良いが今はできない。そこで夏目漱石の原稿を見てみよう。それなら見つかるはずだ」

 なんで夏目漱石?

「夏目漱石の原稿の画像はよく出てくる。『二葉亭四迷 原稿』で画像検索をかけても夏目漱石の原稿が出てくるくらいだ」

 香月先輩が夏目漱石の原稿画像を表示させた。鉤括弧が使われているものをさがす。

 夏目漱石の原稿の画像はたくさん見つかったが、肝心の鉤括弧が使われている部分がなかなか見当たらない。たいてい「三四郎」だの「道草」だのタイトルがついた原稿で、そういうイントロ部分にいきなり会話文が出現するケースは少ない。だから鉤括弧が使われているところが見当たらないのだ。しかし、ようやく「門」の原稿画像に会話文が見つかった。

「会話文は、改行して始まるから最初の一マスが空白だ。現代ならそこに始めの鉤括弧が書かれているはずなのだが、どうなっている?」御子神先生がドヤ顔で訊いた。

「いちばん上のマスは空白のままですね」鴇田が答えた。

「二マス目に最初の字が出ますが、鉤括弧はそのマスの右上かどをなぞっているだけですね」

「そうなんだ。鉤括弧は原稿用紙のマスをなぞっただけなんだ。しかも形をよく見ろ。ふつう縦書きの鉤括弧は横が長く、縦が短いものだが……」

「縦も横も同じ長さで、短い……」香月先輩がつぶやくように言った。

「かわいいですね」あたしは思わず言ってしまった。

「かわいいだろ? 女の子の鉤括弧だ」御子神先生が言った。

 ん、それはちょっと女性蔑視のようにも聞こえますが、とは言わなかった。

「終わり鉤括弧もしっかりつけられているが、最後の文字を書いたマスの左下かどを小さくなぞっただけだ。そして面白いことに、句点はない。地の分の終わりにはしっかりと句点をつかっているのに、漱石は会話の終わりに句点をつけなかった。今風だな」

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