御子神先生が「鉤括弧」の話を始める③ 鴫野亜実
「『新編浮雲』ですね。では国立国会図書館のデジタルコレクションを見てみましょうか」
勝手知ったる、とは、このことだろう。香月先輩は御子神先生のやろうとしていることを先読みして端末機を動かしていた。
「いつもすまんな」御子神先生はご機嫌だ。「端末の操作は若い子の方が速い」
たちまち国会図書館のサイトで「二葉亭四迷」「浮雲」で検索し、「新編浮雲」第一編を見つけ出した。
「著作権が切れた古い書物で、デジタル画像として保存されているものはこうして誰でも見ることができるんだ」
御子神先生が説明する。香月先輩は手早くページ送りをしていった。そして九コマ目あたりで本文が始まった。しかし……
「いきなり字が読めんな」御子神先生は顔を歪めた。「ハンコが邪魔だ」
「蔵書印ですね。『東京図書館蔵』」
香月先輩は、別タブを開き「蔵書印 東京図書館」で画像検索を終えていた。その情報によると、この「東京図書館蔵」という蔵書印は1882年(明治15年)から使用されていたとあった。
それにしても、香月先輩は仕事が速い!
「国会図書館は、名前がいろいろ変って現在にいたる。明治二十年代だから、その頃は上野にあって東京図書館といった。明治三十年代は帝国図書館だ。にしても、センスがないというか、それほどまで権威を見せつけたかったのか、ハンコで本文が見えないだろ。なんでこんな
「浮雲」最初のページ「アアラ 怪しの人の
「まあいい、ちょっとページを送ってみよう。気づいたと思うが、はじめからずっと句読点は一切ない。現代の本屋に売られている『浮雲』にはしっかりと句読点がふられている。ええっと、鉤括弧は出て来ないかな……」
確かに句点も
「読点は、少しはあるようですね」香月先輩があたしの代わりに御子神先生に言った。
「おお、そうだな、歳をとると目も見えなくなってしもうて……」都合の良い年寄りだ。「しかし句点は全然ないだろう。もう少しすると出て来ると思うが、おっと、会話文より先に鉤括弧が出て来たぞ」
御子神先生が指差すところに、「スコッチ」という文字列があった。背広の銘柄をさすようだ。固有名詞を鉤括弧でくくったということか。
「これは強調の鉤括弧だな。これを見る限り、終わり鉤括弧『」』は記号としては存在していた。なぜ会話文のときにつけなかったのかは不明だが」
続いてページを繰って行くと、「フロックコート」だの「チョッキ」だのを鉤括弧でくくっていた。どうもカタカナ表記の外来語(「チョッキ」は何語だ?)を鉤括弧でくくるらしい。
さらに読み進めると、十一コマ目、五ページ目にして初めて会話文が出現した。
「始め鉤括弧しかついていないだろう?」
その通りだった。会話文は一段さげて書かれている。始め鉤括弧はその最初の文字の右上についているが、終わり鉤括弧はない。
以下しばらくの間、終わり鉤括弧なしで書いてみた。
「確かに始め鉤括弧はあるのに……終わり鉤括弧がないですね
「エ、エ……どうして括弧を閉じていないのでしょう?
「さあてな……
「ところで……会話文は一段下げて書いているんですね……改行しても
下げたまま、続いていますー会話文であることがよくわかって
とても良いと思います
ト、香月先輩が言った
なお、句点はなかなか出てこないー読点はときどき思いだしたように振られているのに
そのかわり「……」が句読点の代わりに頻繁に出ているーそしてまた棒線「ー」も
しかもこの「……」………………やたら長ーーーーーーーーい
「なんだ……三点リーダーの長さが気になったか
ト、御子神先生が言った
「今の活字だと一文字のスペースに点が三つならぶ……それを二文字分続けるのが
一般的使い方だ
ト、御子神先生は続けた
「しかし私が中学生の頃はワープロもなかった……リーダーの点は
自分で書かなければならない
その数は六個だと国語の先生に教わった
手書きで書いても六個なのだ
「こうして見ると二文字のスペースに十個以上点がありますね
数えられないです
ト、香月先輩は言った
「そうだなハハハハハハ
みんな顔を見合わせて固まった
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