御子神先生が「鉤括弧」の話を始める① 鴫野亜実
別の日、あたしと
後で知ったことだが、あまりにも鴇田と一緒にいることが多いので、クラスメイトなどから二人が付き合っていると思われていた。
他人の目に鈍感だったあたしはそうしたことに全く無頓着だった。
鴇田の方は、そういうのが耳に入るらしく、その都度否定していたようだ。
それはさておき、あたしと鴇田がいつものように六人掛けのテーブルで頭を悩ませていた時に
あたしは少し心がときめいた。これが恋心なのか正直なところよくわからない。何しろ初めての感覚だ。
あたしは高揚していた。ただ、姿を現したのは香月先輩だけではなかった。なぜか担任の
香月先輩は
そして御子神先生はあたしと鴇田を見つけると、同じテーブルの椅子にどっかと腰を下ろした。
それはあたしや鴇田にとっては鬱陶しい事態だったが、香月先輩も一緒に同じテーブルについてくれたので良しとしなければならないだろう。
「文芸部活動か。今何をやっているんだ?」
「文体練習らしいです」鴇田がいつもの他人事のような返事をした。
「ほう、どれどれ、私にも見せてくれないか?」
「まだできてません」とあたしは答えた。
「他の連中が書いたのはあるか?」御子神先生は引き下がらなかった。
「文芸部通信をご覧ください」鴇田は単調な口振りで言い放った。
「自分も書いてって槇村さんに言われましたね」香月先輩が言った。「自分には才能がないって断ったのですが」
香月先輩は、御子神先生に対して自分のことを「ボク」ではなく「自分」と言うのだとあたしは知った。
「香月は、文豪の物真似でもしようと思っているんだろ。そりゃ難しいわ」
「私なんか、句読点や鉤括弧のルールで、まだ戸惑っていますよ」あたしは口を挟んだ。「終わりの鉤括弧に『。』を付けちゃいけないんでしたね。ついつい付けてしまいます」
「それは当然だな」御子神先生が真顔になった。「そういう風に小学校で習うからだ」
「えっ!」やっぱりそうだったかとあたしは思った。
小さい頃に教えられ、身についてしまったことはなかなか抜けないものだ。あたしはひとりで納得した。
「鉤括弧の歴史、使い方の変遷とか考えたことがあるか?」御子神先生が言った。
あたしと鴇田は思わず顔を見合わせ、悪い予感にとりつかれた。これは何だか怪しい雰囲気というか、既視感さえも覚える。
香月先輩が、わずかに眉を上げ、いつもは三分の二くらいしか開いていない目を開いたように見えた。どうやら香月先輩は興味を覚えたらしい。
だからあたしは黙って御子神先生が喋るのに任せた。
「もともと日本語には鉤括弧やら句読点というものはなかった。そんなものがなくても構わない言語だったし、なくても読み間違いのないような文の書き方をしていたんだ。それが明治になって外国の読み物が入ってくるようになると、その影響を受けて変貌していった。文の末尾に述語がくる日本語と違って、外国語は主語、述語と来て、その他いろいろな修飾語が後付けされる。文が終わったことを示すピリオドは必須だった。それを真似たかどうか知らないが、句点『。』をつけるようになった。そしてまた外国語の会話文にはクォーテーション・マークが使われている。国によってクォーテーション・マークの形は異なるが、日本は英国式にならって、鉤括弧をつかうようになった。どうしてあの形になったのか興味深いが、通常の会話文は鉤括弧「」、会話中に会話文が出た場合は二重鉤括弧『』を使うことになっている。これが英国式の、会話文をシングル・クォーテーション・マーク‘ ’で囲い、会話文中に入れ子になっている会話文にはダブル・クォーテーション・マーク“ ”を使う方式に倣ったかたちになっている。米国式はこの逆で、会話はダブル・クォーテーション・マーク、会話中の会話文をシングル・クォーテーション・マークで囲うかたちだ。図書室の洋書コーナーを見てみると良い。アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった(And Then There Were None)』は会話文をシングル・クォーテーション・マークで囲っている。米国の小説はダブルだ。ちなみに、英国作家でもアメリカで売られている本はダブルになっている。図書室にあるコナン・ドイル『緋色の研究(A STUDY IN SCARLET)』は米国版なので会話はダブル・クォーテーションだ。英語の話はおいておいて、日本語の小説における鉤括弧と句読点の話だったな。それがどのように使われるようになったのか。その様子を知るにはやはり日本で最初の言文一致体の小説といわれる二葉亭四迷の『浮雲』を見るとよくわかる」
あらら文学史が始まっちゃったよ。
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