「め、りー……?」


 急速に冷えていった唇をどうにか動かして、名前を呼ぶ。

 血の気が引いて不気味なほどに青白くなった顔に笑みを浮かべ、メリーは、か細い息を吐いた。


「カナタ、さん。よかった……ぶじ、だったん、です、ね」

「――っ、良くない!」


 反射的に声を上げると、カナタは慌ててメリーの傍に跪いた。力なく落ちた手を取れば、ほとんど力の籠らないまま弱々しく握り返してくる。深く胸を刺し貫いた形のない痛みに、嗚咽がこみ上げた。


「何も……何も、良くないっ! お前が、お前が、こんなになっているのにっ……俺が、俺だけが無事でいたって、意味がない!」

「…………」

「っ痛いだろうが、我慢してくれ。早くここを出よう。俺がちゃんと抱えていってやる」


 上ずった声で言いながら、メリーを抱え上げようと背中に手を回す。そんなカナタを見上げながら、彼女は、困ったように笑った。


「医者に診てもらおう。うちの軍の船医さんはな、とても腕利きなんだ。こんなもの、すぐに取り除いてくれるから。傷も、きちんと塞いでもらおうな」

「……カナタさん」

「大丈夫……大丈夫だ。すぐに手当てすれば、すぐに――」


 『大丈夫』。

 その言葉は、メリーではなく、カナタ自身に言い聞かせているに他ならないのだろう。

 彼自身は、こちらを安心させようとして笑みまで浮かべているつもりのようだが、彼の赤茶色の瞳はすっかり涙の膜を張っていて、今にも温かな雫が零れ落ちそうになっていた。


 ちょうど、さっきとは真逆――カナタが涙を堪え、メリーがそれを眺めているという具合になったことを、場違いにも可笑しいと感じてしまう。

 彼が泣きそうになっている原因の張本人であるメリーは、下手くそな笑顔を浮かべるカナタとは対照的に、ごく自然な柔らかい笑みを浮かべる。

 そして、重い音のする息を吐き出すと、わななく唇で口ずさむように、彼の名を呼んだ。


「カナタさん」


 その声が、あまりにも、優しくて。

 あまりにも、穏やかなものだったから。

 あまりにも、たおやかなものだったから。

 カナタは、思わず何度も瞬きをしながら、メリーを見つめた。


「っ……何だ? どうしたんだ、メリー」

「カナタ、さん。むりして、わらわなくって、いいんですよ」

「――ッ」


 思いがけない一言に、息を呑む。そんなカナタに、メリーは、なおも微笑みながら言葉を重ねた。


「たすけようと、してくださって、ありがとう……ございます。でも、もう、いいんです。わたし、もう、きっと、たすからない……から……」

「な……っ、馬鹿なことを言うな!」


 メリーの言葉に、カナタはたまらず声を荒げる。


「助からないなんて、そんなことを言うな! 言うんじゃない……っ、」

「…………」

「っう、ぐ、い、いわ、言わないで、くれっ……頼む……っ、頼むから……!」


 メリーを抱き上げる腕に、ぐっと力が籠る。

 ひっ、ひっ、としゃくり上げる声と共に、とうとう、涙がぼろぼろと零れ落ちて、メリーの頬を濡らしていく。カナタのその表情こそが、彼女の助からないことを明示していると分かっていて、それでも彼は涙を止めることが出来なかった。


「…………」


 彼が、泣いている。

 あの日から、自分の前では一度も泣いたことのなかった、彼が。

 きゅうっと胸が痛む一方で、何故だか、嬉しかった。

 彼が、彼自身の悲しみを素直に表に出せていることが、嬉しくて、安心したのだ。


 カナタさん――と。

 いつからか始めたその呼び方で、いつも通りに彼に呼びかけようとして。

 けれど、やめた。

 メリーは一度唇を引き結んでから、意を決したように、こう言ったのだ。




「カナタ、くん」




 その声に、カナタは大きく目を見開いた。

 カナタくん――それは、メリーがいつからかやめてしまった、自分を呼ぶ時の。


「……メリー」

「なか、ないで。あなたが、かなしいと……わたしも……かなしい……」


 いつかの彼女が、困ったように微笑みながら口にした言葉。

 その言葉に、喉の奥から嗚咽が漏れて、いっそう視界が滲んでいく。


「っメリー……メリー……っ、メリー……!」


 何度も、何度も。

 メリーの名を呼びながら泣き続けるカナタの腕に、そっと手を触れて、メリーは微笑む。


「おねがい、が、あるんだ。きいて、くれる?」


 嫌だ、聞きたくない――そう、思った。

 こんな時に頼みごとをするだなんて、そんなの、もうじきにでも、死んでしまうみたいじゃないか。

 そう思いながらも、カナタは、嬉しかった。

 滅多に我儘を言うことのなかったメリーが、こんな時とはいえ、素直に自分の願いを口にしようとしてくれているのだから。


「……ああ。何でも聞いてやるぞ」


 ぐっと涙を拭って、精いっぱいの笑顔で頷く。

 メリーは安心したように目を細めると、途切れ途切れに、『おねがい』を言葉にしていった。


「わたし……もうすぐ、ねむってしまう、から。そう、したら……きのう、であった……たびびとさんの、ところへ……【葬儀人アンダーテイカー】さんの、ところへ……つれていって、ほしいんだ」

「――【葬儀人アンダーテイカー】……?」


 聞き覚えがあるものの、どういった人物であるのかは思い出せない、不思議な人名。

 首を傾げるカナタに、メリーは言った。


「えほんで、みたことが、あるんだ……。しんだ、にんげんを、『ししゃ』として、きちんと、ほうむってくれる……あのたびびとさんが、きっと、そうなの……。であった、そのひに……そう、なのって、いたから……」

「……! あの物語のか!」


 カナタも、小さい頃は飽きるほどに繰り返しあの絵本を読んでいたから、知っている。

 葬儀人アンダーテイカー――死者を死者として正しく葬り去ることのできる、唯一無二の存在を。


「……分かった。俄かには信じがたいが、約束しよう」


 カナタの言葉に、メリーは、安心したように浅い息を吐いた。その拍子に、口からは再びどろりとした血液が溢れて、白のワンピースを赤く染めていく。


「っ、メリー! もう喋るな! もう……!」

「それから……わたしの、かわりに……こじいんの、みんなと……ユーノくんと、カルロくんに……あやまっておいて、ほしいの……。さきに、いくことになってしまって……ごめんなさい、って……」

「っ――」


 分かった、とは、言ってやれなかった。

 だって、そう答えてしまったら、メリーが死ぬという現実を、嫌が応にも受け容れることになってしまうから。


 それでも、カナタは聡い人間であったから、彼女がどうしたって助からないことも分かっている。

 最後の抵抗として、返事をしないという行動を選んだ彼に、それも彼らしいことだと微笑みながら、メリーはそっと彼の腕を撫でさすった。


「――さいご、に……もう、ひとつだけ……」

「っ……最後だなんて、言うんじゃない……これからだって何度でも、いくらでも……聞いてやるから……」


 だから、いかないでくれ。

 それすらも言い切れずに、笑みが崩れて、また涙が零れそうになる。

 そんなカナタの腕から頬へ、まだ微かに温もりの残る掌をそっと添え直して、メリーは息を吸い込んだ。

 最期に、人生で一番の我儘を言うために。


「カナタ、くん……」


 さいごに、わたしを――




「『いもうと』、から、……『こいびと』に――して、ください」




 世界中の時が止まったような、そんな感覚がした。

 人々の悲鳴も、怒号も、建物が焼け焦げていくきな臭い匂いも、新たに響き渡る砲声も。何もかもが別の世界のものであるように感じる。

 ぱちぱちと数度瞬きをして、カナタは、メリーを見つめる。

 彼女の頬は、ほんの少しだけ血の気が戻り、薄らとしたピンク色に染まっているようにも見えた。


「……メリー、今、何て」

「『こいびと』に……なりたいの。カナタくんの、『こいびと』に」

「……!」

「わたし、ずっとずっと、カナタくんのこと……すきだったんだよ……? でも、なかなか、ゆうきがでなくて……いいだせなくって……」

「メリー……」

「こんなことに、なるなら……もっと、はやく……すなおに、なれば……よかったなあ……」


 悲しみと喜びがない交ぜになって、血流に乗って全身を駆け巡った。

 もっと早くにその言葉を聞きたかった。

 君の口から先に言わせてしまったことが情けない。

 何より、君が、『僕』と同じ気持ちでいてくれたことが、こんなにも――――


「――嬉しいよ。メリー」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔に、不格好な笑みを浮かべて、カナタはメリーを思いきり抱き締めた。

 彼女の手が、自分を抱き締め返すことが出来なくても。

 それでも自分だけは、最後の最後までこうしていたいと、強く、強く思った。


「俺も、ずっと言いたかった。お前は、俺にとって世界で一番可愛くて、世界で一番愛おしくて、世界で一番大切な人だと――もっと早く、言えばよかった」

「……カナタ、さん……」

「好きだ、メリー。ずっとずっと昔から――初めて出会った、あの日から。俺は、お前が大好きだった!」


 世界で一番愛しい人の、この世で一番まっすぐな、自分のための愛の告白。

 魂を震わせるようなその言葉に、メリーはハッと息を呑んで、それから、静かに涙を流した。

 それは、別れの悲しみ故のものではない涙。

 これ以上はないと思えるほどの幸せを胸いっぱいに抱きしめて、それでも抱えきれずに溢れ出た、随喜の涙。


「――っ、」


 すっかり力の入らなくなった腕を、懸命に、カナタの背へ回す。

 冷えきって思うように動かせない指先が、僅かに――ほんの僅かに、彼の背に触れた。


「か、なた、くん」

「……ああ。何だ?」


 だんだんとぼやけていく視界に、彼の優しい微笑みが映る。

 どちらのものかも最早分からなくなった涙が、止めどなく頬を濡らしていく中、彼女は、清廉な笑みを浮かべ、囁く。




 ――――ありがとう。




 ぱたり、


 小さな音を立てて、灼けた床に、彼女の小さな手が落ちる。


 すっかり力を失ったそれを、壊れ物を扱うかのように大切に拾い上げて――

 冷たくなった、少女の亡骸を抱き締めて――


「――っぁ、あ、う、ああああ、」


 未だ半人前の海兵は、その声が枯れるまで、慟哭した。




「あ、ああああ、あああ、あああああああああああああああああああああ!!」

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