カナタが話し終える頃には、ホットミルクはすっかり温くなっていた。


「……そう。そういうことだったんだね」


 神妙な顔で頷いた神父に、カナタは俯きがちに「はい」と呟いた。


「俺が何も出来なかったせいで、傷付かなくていいはずだった妹分が――メリーが、傷付けられた。涙を流すことになった。それが……悔しくて。ショックだったんです」

「君は君なりに、あの時のことに責任を感じていたというわけだ」

「はい」


 言って、カナタは残っていたミルクを飲み干す。

 底に溜まっていた蜂蜜の甘みが、とろりと喉を伝って落ちていった。

 ことりと置かれた赤いカップを視線で追ってから、神父も自分のカップに口をつける。


「……あの時のことは、今でも覚えているよ。カナタがわんわん泣いていて、メリーのほうがよっぽど冷静だったよね。だから、カナタのほうが何かされたのだと思っていたけれど」

「メリーも確か、俺が同級生にいじめられたんだとしか説明していなかったんでしたっけ」

「そうそう。だから、君の口から本当の事情が聞けて、少し安心したよ」


 悲しいことには、変わりないけれどね。

 そう言って眉を下げる神父に、カナタは、何も言えなかった。


「……俺は」


 カップをしばらく弄んで、零してしまう前にと飲み干したところで、ようやくぽつりと呟く。


「正直、今でも分からないんです」

「何がかな?」

「……海軍に入って、どうなりたいのか……」


 その言葉に、神父は少し考え込む。

 強くなりたいとか、メリーをこの世全ての理不尽から守ってやりたいとか、そんなふうに思っているというのは本当のことだろう。

 けれど、


「まだ、答えの出ない部分があるんだね」


 優しく問いかける神父に、カナタはこくりと頷いた。


「……俺は。強くなって、メリーを守りたくて」

「うん」

「でも、その先でどんな自分になりたいのか、分からない」

「どんな自分になりたいか、ね」

「メリーを守ってやれる、頼れる兄貴分になりたい……だけじゃ、ないんだと思うんです。でも、具体的にどうなりたいのか、ちゃんと言葉にしようとすると、分からなくて」


 ――ああ、これは。


 カナタの告解を受け止めながら、神父は、場違いなことに胸の奥がほんのりと温かくなっていくのを感じた。

 頼れる兄貴分でいたい。

 その本音の奥の奥に、カナタ自身もまだ気付いていない、もっと強い思いがあることに、神父は気付いたのだ。


「(……カナタ。君の抱えている『それ』は――)」


 苦しげに胸を押さえて俯くカナタ。

 柔い茶色のはねっ毛を撫でてやりながら、神父は、そっと言葉を吞み込んだ。

 これは、彼が、彼自身の力でその答えに行き着かなければ意味のないことなのだから。


 ――その気持ちの名前はね、『愛』というんだよ。




「……もうじき、夜が明けるね」

「……そう、ですね」


 神父が唐突に口にした言葉にやや面食らいながらも、カナタは頷いた。


「カナタ。少し寒いだろうけれど、外へ出てみないかい?」

「俺は構いませんけれど……何か用事があるんですか?」

「君が旅立つ前に、一つ説教をしてあげようと思って」


 むろん、叱るという意味合いでの説教ではないし、カナタもそれを分かっていたのだろう。先に席を立ってキッチンを出た神父を、彼は何も言わずに追いかけた。


 教会のある森を抜けると、眼下には、まだ眠りの中にあるミドナの街と、黒洞洞とした闇を湛えた海原が広がっていた。

 夜明けまではまだ少し時間があるようで、青と黒の世界に太陽はまだ見えない。身を刺すような寒さに、カナタは思わず身震いした。


「うん、やっぱり朝の空気は気持ちがいいなあ」


 一方の神父は、寒さなど物ともしていない様子で、胸いっぱいに早朝の冴えた空気を吸い込んでいた。

 軽く伸びをして、隣に並んだカナタへ笑いかける。


「昼間の賑やかさも好きだけれど、僕はこの時間の街がいっとうお気に入りでね」

「確かに、いつものミドナとは全然違って見えます。……この街も、こんなに静かになるんですね」

「そうだね。みんながあまり知らない――知ろうとしないだけで、何にでも、誰にでも、『誰にも知られていない顔』はあるものだから」

「誰にも知られていない……顔」


 どこか含みのある言い回し。それが気になって、カナタは思わず神父の言葉を繰り返していた。

 そうだよ、と微笑んで、神父は静かに問いかける。


「カナタは、メリーが君を『カナタさん』って呼ぶようになったか、分かるかい?」

「……いえ」


 戸惑いながらも正直に答える彼に、神父は優しく言い聞かせた。


「メリーは、元々面倒見が良くて、責任感が強い性格だったよね。成長するにつれて、その性質はもっと強くなっていった。自分より歳下の子どもたちや、孤児院の人間に限らず弱い立場にある人たちを守りたいという気持ちが強くなった」

「…………」

「同時に、彼女は、自分を守ってくれるであろう立場の人間への申し訳なさを覚えるようになった。目上の人や歳上の人、そういった人たちが自分のために手をかけてくれることにも、罪悪感を覚えるようになった」

「……それは、どうして」


 カナタの問いに、神父はたった一言、こう言い切った。




「君が、強くなろうとしたからだよ」

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