③
人見知りで臆病だったカナタだが、その後は驚くほどスムーズに施設に馴染んでいった。
それはひとえに、当時施設にいた『お兄ちゃん』や『お姉ちゃん』に、よく面倒を見てあげてほしいのだとメリーが口利きをしたおかげであったし、あるいは『弟妹』たちに、意地悪をしちゃだめだからね、と口酸っぱく言い聞かせていたおかげであった。
新入りの『兄』に、メリーは『妹』の立場でありながらも、まるで弟の面倒を見るかのように接していた。
一通りの家事を教え、いずれ自分でも出来るようにと練習させ、メリー自身も必ずそれに付き合った。
孤児院の子どもたちのちょっとしたケンカに巻き込まれたカナタを、メリーが助け出すこともしょっちゅうだった。
いつでも明るく気丈に振る舞い、子どもたちを皆平等に愛し、神父を心から慕ってよく手伝いをするメリー。
幼いながらも気遣い上手な彼女は、世間一般に言う"母"に似ており、しかし確実に、カナタを産み育て、そして手放した人間とは大きく性質を異にしていると感じさせた。
そんなメリーは、カナタにとって、憧れの対象であり、「自分もいつか、こんな兄貴分になりたい」と思わせる存在だった。
春という季節がそのまま人の形を取った子――そんな、初対面からの印象をそのままに、カナタはメリーに、家族としての愛情を着々と育んでいったのだ。
事件が起こったのは、カナタが孤児院に来て一年と少しが経ったある日のことだった。
カナタが来てからの決して長くはない期間で、施設からは『お兄ちゃん』と『お姉ちゃん』たちのほとんどが居なくなっていた。
他の家庭に引き取られたり、あるいは自立のために施設を出て外で暮らし始めたりと、理由は様々だったが、とにかく歳上の子どもたちが出て行った分、カナタもまた、施設の中では『お兄ちゃん』と呼ばれる存在になっていた。
メリーは、相変わらず世話焼きな性格をしているものだから、『お姉ちゃん』と呼ばれることにさほど感慨はなかったように見えていたが、本人にしてみればその呼び方はくすぐったく、照れくさかったようである。
とはいえ、カナタもメリーも、年長組の一員として、自分よりも歳下の子どもたちの面倒を見ることを楽しんでいた。
変化はもう一つ。
神父が、お金を何とかやりくりして、子どもたち全員が初等教育を受けられるようにと学校に通わせてくれるようになったのだ。
ブランポール公国は、町並みの華やかな印象とは対照的に、貴族と貧民――身分の高い者と低い者で生活の格差が激しい国である。教育の分野においてもそれは言えることで、先立つものがなければ、初等教育すらも受けられないのだ。
以前から、神父は、教育が受けられないことで施設の子どもたちがいじめに遭っているという問題に頭を悩ませ、心を痛めていた。いっそ国に直談判して、全ての子どもに教育を施せと言えればよいのだが、神父自身も小市民の一人でしかないのだから、そんな声が届くはずもない。
ならばと彼は腹を括った。自分の持っている限りの、少しでも価値のあるものを全て売り払い、この先自身の財産も全て切り崩していく覚悟で、子どもたちを初等学校へ通わせることにしたのだ。
本来なら、七歳になれば受けられたはずの教育。少し遅れてそれを享受する形になったカナタに、神父は申し訳なさそうに謝っていた。
それでも、カナタは嬉しかった。勉強するほどにどんどん自分の世界が拓けていくような気がして、楽しかったのだ。
「カナタくん! おかえりなさい!」
その日も、学校から帰ると、庭で子どもたちと遊んでいたメリーが出迎えてくれた。
にこやかに手を振ってくれるその姿に、ふうっと肩の力が抜けていくのを感じながら、カナタはメリーのもとへ駆け寄った。
「ただいま、メリー」
「うん! がっこうはどうだった? たのしかった?」
「楽しかったよ。今日はね、物語を読む勉強をしたんだ」
「へえ、いいなあ! じゅぎょうでごほんをよめるのね」
私も、早く学校に行きたい。
うっとりした表情をするメリーの頭を撫でて、カナタは微笑んだ。
「メリーも、もうあと二年の辛抱だよ。神父様へのお礼のためにも、ちゃんと勉強するんだぞ」
「うん!」
カナタの言葉にしっかりと頷いてから、メリーは「ちょっとまってて!」と言うと、庭で遊んでいる子どもたちのもとへ戻っていった。
彼らに何事かを言いつける様子を、何だろうかと見ていたカナタ。話が終わると、子どもたちは、メリーに先んじて家の中へ入っていった。
再びこちらへやって来たメリーは、何やら上機嫌な様子だ。
「あのね、あのね。そろそろおやつのじかんでしょう。きょうは、わたしも、おやつづくりをおてつだいさせてもらうのよ」
「そうなんだ。よかったね」
「うん。カナタくんにも、とびきりおいしいのをたべさせてあげる!」
そう言って、メリーはくふくふと楽しげに笑う。
その様子を、微笑ましく見守りながら、二人で家の中へ入っていこうとした――そんな時だった。
「あ! 見ろよ、貧乏人がいるぜー!」
幸せな時間を台無しにするような、無粋な言葉が聞こえてきた。
びくり、と思わず肩が跳ねる。
建物の中へ入りかけた足がすくむ。
声のしたほうを見れば、同じ教室で勉強をしている子どもが何人か、こちらを見ているのが分かった。
「あ……」
思わず漏れた声に、一歩先を歩いていたメリーが反応したのが分かった。
「どうしたの、カナタくん?」
そうして、優しさ故に振り返ってしまったメリーにも、理不尽な言葉は降りかかった。
「貧乏人の妹だ!」
「ちがうよ、妹じゃないよ。血がつながってないんだもん。ここに住んでるのはみーんな、にせものの家族なんだよ」
「えー? そうなのか?」
その言葉に、流石のメリーでも、自分たちがいい目で見られていないことは理解したらしい。
「……メリー」
「……きにしたって、しかたないわ。いこう、カナタくん」
気がかりになって声をかけたが、メリーは落ち着き払った様子で答える。
だが、それがとっさの演技であることは、小さく震える肩を見ていれば一目瞭然だった。
黙って扉に手をかけたメリーと、その背中を見てはらはらしているカナタ。二人にわざと聞かせているかのような、悪意の込められた言葉が、追い打ちをかけるようにしてカナタの背中にぶつかった。
「にせものの家族なんか集めちゃってさあ、ここの神父、何がしたいんだあ?」
「孤児院の子を学校に通わせるの、やめてほしいのよね。教室が貧乏くさくなっちゃう」
「カナタ、だっけ? そこのお前もだよ。聞こえてるんだろ?」
唐突に名指しで呼ばれて、足が竦んだ。
無視した方がいいのは分かっているのに、呼ばれてしまっては、どうしても足が動かなくなってしまう。
「あれ、返事もできねえの。貧乏人は、しゃべれない病気にでもなってるのか?」
「病気があるから親に捨てられて、ここに住んでるんじゃないの?」
違う! 病気なんかじゃない!
親にだって、捨てられてない!
そう、声を上げたかったけれど、言いたかった言葉は、全部喉の奥に引っかかってしまって、声になってくれない。
「何でも良いけどさ、お前がいると、俺たちまで嫌な目で見られるんだよ。捨て子の貧乏人は、学校なんか来るな!」
捨て子。貧乏人。
子どもであるが故の容赦ない言葉が、ぐさりぐさりとカナタの心に突き刺さった。
「捨て子は捨て子らしく、孤児院のやつらとだけ一緒にいればいいだろ」
「そうよ、そうよ」
「それでさ、ホウシカツドーっていうのか? 神父と一緒に街の掃除でもしてればいいんだよ。お前たちみたいな貧乏人なんか、勉強したってどうせ、いい仕事にも就けないし、結婚もできないんだからさ!」
――何も。
何も、言い返せなかった。
悔しいけれど、多分、あの子どもたちが言っていることは本当だ。
捨て子である、貧乏人である。
たったそれだけのことで、人は人を平気で差別する。
暴力も暴言も、身分の違いによって正当化される。
それが、一見すると美しく見えるこの国の真の顔だった。
それを、改めて、身に染みて実感してしまって――
せめて涙がこぼれないよう、ぐっと唇を噛みしめた、その瞬間。
「……あやまって」
腹の底から唸るような、それでいて、すうっと凍てついた静かな声がした。
その場にいた誰もが、声のしたほうを見る。
肩を怒らせて、白い頬を真っ赤にしたメリーが、とんでもない形相で、カナタと同じ学校の子どもたちを睨みつけていた。
「あやまって。カナタくんに、あやまって!」
言いながら、メリーは、ずんずんと子どもたちのほうへ歩いていく。
呆気に取られた様子だった彼らだったが、メリーが生意気にも自分たちを睨みつけていたのが気にくわなかったのだろう。すぐに、彼女を睨み返した。
「何だよ。俺たち、本当のことを言っただけだろ」
「そうね。ほんとうのことかもしれない。でも、それでカナタくんをきずつけるのは、ゆるせないわ」
「何よ、学校にもまだ通えない餓鬼のくせに」
「がっこうにかよっているのに、『ひとをきずつけちゃダメ』っていうあたりまえのことがわからないひとたちより、よっぽどましじゃない?」
「……っ、い、言わせておけば、調子に乗りやがって!」
挑発的なメリーの言葉に、子どもたちが怒りを露わにする。
とうとう、一人の男子が彼女の胸ぐらを掴んだのを見て、思わず悲鳴にも近い声が出ていた。
「め、メリー!」
やめて。酷いことをしないで。
そう言うより早く、メリーの胸ぐらを掴んだ男子が、唾が飛ぶほどの勢いでまくし立て始めた。
「お前たちみたいな貧乏人が、学校に来たって、どうせ勉強についていけないだろ。友達だってできやしないだろうしな」
「…………」
「俺たちは、親切心で言ってやってるんだよ。お前たちなんか、学校に来たって不幸せなままなんだ。それなら、わざわざお金を払ってもっと貧乏になってまで、学校に来なくたっていいだろ!」
自分たちよりも歳下であるメリーにまで、容赦なくぶつけられる言葉。
聞いているだけで、カナタのほうが泣きそうになってしまう。
ただ、言われている張本人であるメリーはといえば、驚くほどに無抵抗だった。
て逃げ出そうともせず、ただじっと男子の言葉を聞いていたメリー。
きゅっと引き結ばれたままだった唇が、わなわなと震えて――
「――……ない」
「あ?」
「わたしたちは、ふしあわせじゃない!」
噛みつくように言い切ったメリー。
その、花の
目が湿り気を帯び、ふるふると震える睫毛が温かな水滴をまとっていることに、気付いているのかいないのか。メリーはそのまま、叫ぶように言葉を重ねた。
「ぜいたくなごはんや、きれいなおようふくがなくたって、わたしたちは、たすけあって、みんなでわらって、たのしくくらせてる! だれかをみくだして、わらって、それでいいきもちになるようなひとたちみたいに、こころまでまずしくはないんだもの!」
「なっ……」
その言葉の、あまりの勢いに、胸ぐらを掴んでいた男子は、思わず手を離した。
目が泳いでいるところを見るに、メリーの言葉に少なからず動揺しているのだろう。そんな彼らに、メリーはなおも捲し立てる。
「くらしがゆたかでも、こころがまずしいなんて。あなたたちのほうが、よっぽどふしあわせよ。あなたたちに、わたしたちをわらうしかくなんて、これっぽっちもないんだから!」
「このっ……貧乏人のくせに、調子に乗るんじゃないわよ!」
パァン!
乾いた音の後、メリーの頬が、みるみるうちに赤みを帯びていく。
叩かれた勢いでそっぽを向いた顔からは、一瞬にして、ごっそりと表情が抜け落ちていた。
幼い妹分は、そのまま、半ば転ぶようにして座り込んだ。あまりの勢いで叩かれて、立っていられなくなったのだ。
「あ――」
思わず、呆然とした。
だって、メリーが。
メリーが、目の前で、自分の同級生に、ぶたれて――
「お、おい。手は出すなよ! 怪我してたら言い訳できないぞ」
「だ、だって! この子が生意気なことを言うからっ」
危害を加えたはずの同級生たちは、こんな時まで、自分の身を守ることしか考えていない。
これが、同じ国に、同じ街に生まれ育った子どもたちなんだ。
こんな、こんな、どうしようもない人間のくずたちが。
「…………」
絶望にも似た感情を抱くカナタの目の前で、メリーは静かに立ち上がった。
彼女の頬の赤みは引かず、表情はあまりにも静かで感情は読み取れない。
ただ、先ほど少年たちに向けて叫んでいた時に浮かんでいた涙は、いつの間にか引っ込んでしまっていた。
「……かえってください」
その言葉には、声色には、妙な重みがあった。
「たたかれたことは、だれにもいいません。だから、きょうは、もうかえってください」
許す、という言い方は、敢えてしていなかった。
それでも、メリーが言っているのは、そういうことだろう。
「い、言われなくても帰るっての!」
捨て台詞のようにそう言い残して、子どもたちはばたばたと逃げ帰っていく。
その背中が見えなくなるまで見送った後、メリーは、ずんずんと大股で、カナタのほうへ戻ってきた。
「……メリーっ」
カナタの横を黙って通り過ぎた彼女に、何を言えばいいのか分からなくて。
思わず呼び止める声が、上擦ってしまった。
彼女はぴたりと足を止めたが、カナタのほうを振り返ることはしない。
ただ黙って、玄関のドアに手をかけたまま、じっと、カナタの言葉を待っていた。
「……っ」
今、彼女はどんな表情をしているのだろう。
頬や心の痛みに、泣いてはいないだろうか。
叩かれた頬はどうなっているのだろう、腫れてしまわないといいけれど。
様々な感情が一気に去来してきて、頭の中が騒がしい。
けれど、そんな中でもいっとう大きくなった想いだけを、とっさに言葉に変えることができた。
「……ごめん」
その言葉に、メリーが驚いたように振り返った。
頬の赤みは、時間が経ってより酷くなっている気がする。痛みもあるに違いない。
けれど、彼女は一筋も涙を流してはいなかった。
ただ、きょとんとした表情をして、不思議そうに問うてくるだけだ。
「どうして、カナタくんがあやまるの? なんにもわるいことしてないのに」
――耐えきれなかった。
必死で堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出してくる。
ドアの前に立っているメリーのもとへ駆け寄ると、カナタは、掻き抱くようにして、その小さな体を抱きしめた。
「ごめん……ごめん、ごめんよお……」
何も言い返せなくて、ごめんなさい。
囲まれていた君を助けられなくて、ごめんなさい。
痛い思いをさせて、ごめんなさい。
弱虫な僕で、ごめんなさい。
たくさんの「ごめんなさい」が、涙と一緒になって、溢れ出る。
きょとんとしている彼女に、ただただ「ごめん」と繰り返しながら、声を上げて、カナタは泣いた。
その涙を肩口で受け止めていたメリーは、ほんの少しだけ困ったような――どこか、苦しげな笑みを浮かべながら、カナタの頭を優しく撫でる。
その手つきはまさしく、姉が弟を宥める時のそれだった。
「なかないで? カナタくん。あなたがかなしいと、わたしもかなしいわ」
自分のほうが、言いたい放題に言われて、よっぽど悔しかったはずなのに。
頬まで叩かれて、痛かったはずなのに。
メリーは、自分の痛みをなかったことにしてまで、カナタの痛みに寄り添おうとしてくれている。
そのことが、悲しくて、辛くて、悔しかった。
――強くなりたい、と思った。
メリーを、この世全ての理不尽な痛みから守れるように。
メリーが、泣きたい時に泣けるように。
その時は、自分こそが、メリーにとっての居場所であれるように。
カナタ・ブライアントは、この日の出来事を境に、「強い男でありたい」と願うようになったのだ。
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