その日、カナタが姿を見せたのは、神父が早朝の礼拝を終えるのを見計らったかのようなタイミングだった。


「神父様。おはようございます」

「おや、カナタ。おはよう」


 カナタの姿を礼拝堂の入口に認めると、神父は衣服を正して、彼の元へ歩み寄る。

 この孤児院を出てブランポール公国海軍に入隊し、いずれはこの国をも離れて遠い海へ旅立つことになるこの少年の、施設で迎える朝は、いつにも増して随分と早いものだったらしい。


「礼拝と朝食にも、まだまだ時間はあるけれど。どうかしたのかな?」

「……話が、したくて」

「そうか。今でないと、言えないことなんだろうね」

「はい。神父様にしか、言いたくないんです」


 そう言うカナタの心は、どこか後ろ向きで。

 はきはきとした声音からは想像もつかないその事実を、しかし、神父はしっかりと見抜いていた。


「分かった。ここは少し冷えるから、キッチンへ行こうか。ホットミルクを用意してあげようね」

「ありがとう、ございます」


 神父の言葉に、カナタは、孤児院に入所した頃のような、少し気弱な様子ではにかんだ。




 蜂蜜をたっぷり溶かしたホットミルクを差し出せば、カナタは嬉しそうにカップを受け取った。

 懸命に中身を冷まそうとして、ふうふうと息を吹きかけるたび、ふくりと頬が膨れる。それが、ただでさえ少し幼く見えるカナタの表情を、さらに幼く見せていた。

 施設の子どもたちの、こういう顔を見るのが、神父は好きだった。温かな食事を前に、心から安心しきった表情を見せる子どもたちを見ると、言いようもない幸福感が胸に押し寄せてくるのだ。


「それで。僕だけに話しておきたいことというのは、何かな」


 一口、二口。

 甘いミルクを堪能して、一度カップが置かれた頃合いを見計らって、神父は改めて声をかける。

 カナタは、少しの間、迷うように視線を彷徨わせ――やがて、改まったように姿勢を正した。


「……メリーの、ことなんですが」


 ああ、やはり――

 薄々予想のついていたその言葉に、神父は、一度瞠目する。


「あいつは、……」

「……何も、変わった様子はないよ。誰の前でも、いつも通りに過ごしている。僕にも何も言ってこない。何もね」


 カナタの聞きたかったであろう答えを先回りして告げる。

 それを聞いたカナタは、彼のほうが余程泣きそうな顔をして、「そうですか」と呟いた。


「でも、君も分かっていることだろうと思うけれど……きょうだいたちの中で一番寂しがっているのは、あの子だよ」

「……はい」

「施設だって無理に出て行くことはなかったのに、君はわざわざ、国外への遠征さえあるような職務を選んだんだ。余程の理由があったというのは察しがつくけれど、寂しいのは僕だって一緒だ」

「すみません」

「謝ってほしいわけじゃないよ。……それでも」


 ゆらり、食卓に置かれた燭台の灯が揺れる。

 神父は、少し真面目な顔をして、少年に問うた。


「聞かせてくれるよね。どうして海軍に志願したか――その、本当の理由を」


 本当の理由。

 施設を出て身を立てたい。あるいは、稼ぎの良い職に就いて、施設の経営を支えたい。

 カナタが、海軍を志願することにしたと初めて神父に告げた時、並べ立てられたそれらの理由は、決して嘘ではないが、志願の動機の核でもない。

 それが分かっていたからこそ、神父は問うたのだ。

 カナタは、何もかもを見通されていたことを察して苦笑し、そして、ぽつりぽつりと語り始めた。

 海兵の道を志した、その真のきっかけを。




     †




 カナタ・ブライアントが孤児院にやってきたのは、七歳の頃だった。


 経済的に苦しく、たった一人の息子を育てていく余裕すらもなかった両親は、院長である神父にカナタの身柄を預けた。

 ごめんね、とも、迎えに来る、とも。

 愛しているとさえ、言われなかった気がする。

 ただ、自分がこの男女に捨てられたのだという事実を受け止めようとするのに精一杯で、ただでさえ臆病だったカナタ少年の心は、温厚な神父を前にしても、しばらく閉ざされたままだった。


 すぐに馴染もうと無理はしなくていい、と気遣われ、学校に入学することも叶わなかったカナタにとって初めての集団生活の場に踏み入る。

 同年代の子どもも多いと聞くが、果たしてどんな人たちなのだろう。

 もしもちょっかいをかけられたり、いじめられたりしたらどうしよう。

 不安と緊張ではちきれそうになる心臓を、胸の上からぎゅっと押さえつける。

 神父が、ゆっくりと、教会から繋がる住居スペースの扉を開けて――




「しんぷさま! おはなしはおわったの?」




 ――ふわり。


 漂ったのは、花のように芳しい香りと、昼中の日差しにも似た暖かな気配。

 よく通る声は、けれど全く耳障りではなく、楽しげに歌う小鳥のように可愛らしいものだった。

 春という季節が人の形を取ったならば、きっと、こんな姿をしているのだろう。

 そう感じさせるような雰囲気を持つ、幼い少女が、突如として、二人の目の前に現れた。


 一瞬、かちりと瞬きをしたきり、動けなくなってしまったカナタ。

 それを見て、神父は苦笑すると、一応形の上でといった様子で、少女を軽く叱った。


「こらっ、メリー? この子がびっくりしてしまっただろう」

「ご、ごめんなさい。そのこが、あたらしくきたこなの?」

「そうだよ。君より確か、三つ上だったかな」

「みっつも!」


 少女は、ぱああと瞳を輝かせ、そのままカナタへと視線を移した。


「はじめまして! わたしはメリーよ、あなたは?」

「……! え、えっと」


 咄嗟に言葉が出ず、つい目を逸らしてしまう。

 長い睫毛が、カナタの言葉を待つように、ふるふると震えている。

 話がしたい――それなのに、緊張してしまって、言葉が出ない。

 そんなカナタの肩にそっと手を置いて、神父は優しく笑う。


「大丈夫。ゆっくりでも、ちゃんと、君の言葉を待っていてくれるよ」

「……神父様」


 一度見上げたその表情は、木漏れ日のように穏やかな笑顔。

 もう一度、メリーと名乗った少女に視線を戻す。

 神父に似ていながらも、こちらはまるで花が咲くような明るい気配をもった笑顔で、こてんと首を傾げている。

 嫌な顔ひとつせず、自分の言葉を待ってくれている。

 それが分かった時、ことりと、心の奥の奥のほうで、音がした。


「……カナタ」


 それは、鍵の開く音。


「ぼく……カナタ・ブライアント」


 勇気を出して一歩を踏み出せば、もう既に手の届く場所にあった太陽が、さらに輝きを増した気がした。


「カナタくん! すてきなお名前ね」


 そう言って、メリーは小さな小さな手を差し伸べてくる。

 自分のそれよりもなお小さく、けれどふくふくとして温かそうなその手に込められた意味が分からずに面食らう。


「メリーはね、握手がしたいんだよ」

「あくしゅ?」

「そう。こうやって」


 そう言うと、神父はカナタの手を取ると、メリーの差し出したそれに、そっと握らせた。


 ちいさい。

 あたたかい。

 ふわふわしていて、まるで雲を掴んでいるようだと、カナタは思った。


 うっかり握り潰してしまったら――そう思うと、怖くて、握り返すのをやめてしまいたくなる。

 けれど、それより先に、メリーはカナタの手を、もう一方の手で大切そうに包み込む。

 それから、頬を薔薇色に染めて、嬉しそうに笑うのだった。


「これからよろしくね、カナタくん!」


 これが、カナタとメリーが出会った日のことである。

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