強くなりたかった少年の話
①
教会の奉仕活動の一つに、街の清掃がある。
今日も今日とて、神父と子どもたちは、白亜の街を美しく保つべく、路上の清掃に励んでいた。
「神父さまー! ちりとり!」
「はい、ありがとうね。それじゃあ、そこで……そうそう! そのまま支えていてね」
「はーい!」
小さな手で、懸命にちりとりを支える子ども。
彼の構えたちりとりの中へ、神父はゴミを掃き入れていく。
街が栄えていながらも、豊かな自然との共存が続いているミドナ。路上で見られるゴミのほとんどは、山から吹き下ろしてくる風に運ばれてきた、森の木々の葉だ。
とはいえ、この美しい街の景観を保つための条約などは知らぬふりで、平気でちょっとしたゴミを捨てていく者もいる。
心からの悪意があって街を汚す者も許せないが、そういった者にはいつか相応の報いがあることだろうと思えば、いくらかは憤りも薄れる。
それよりも質が悪いのは、中途半端に常識と理性と良心を持ち併せていながらも、最終的には自分を楽にすることを選んでしまう人間たちだった。
観光客だけではなく、街の住人の中にもそういう者たちはいるもので、そういう者は決まって、人目に付く街路ではなく、こういう路地裏へとゴミを捨てていくのだ。
奉仕活動をするのは好きだ。根っからの性分なのだから、それが変わることはない。でなければ、教会の神父と孤児院の院長のどちらも務めることなど、端からしていない。
それでも、この活動だけは、少しは頻度が減ればいい――そう願わずにはいられない。
自分たちがあまり手をかけずとも、永久に美しい街であれ。
海の恵みを受け、山林の美しさに抱かれ、大空に輝く太陽の光を浴びて、神に愛される街であれ。
そんな祈りが届けばよいものだと、空を見上げる。
雲一つない、澄み渡った青だ。今この瞬間、世界中のあらゆる人々が享受している幸福を、祝福するかのようなブルー。
――Hallelujah,今日も世界は美しい。
思わず清掃の手を止め、晴天という恵みへの感謝を捧げた。
「ねえねえ、メリーねえちゃんとカナタにいちゃん、ふたりでたのしくあそんでるのかな」
ふと、祈りの合間に、そんなひそひそ話が聞こえた。
わんぱく盛りの男児に答えたのは、思春期ゆえのおしゃまな性格をした女子だ。
「あったりまえじゃないの。上手くいってなきゃ、私がカナタをひっぱたいてやるわ」
「たたいちゃうの? なんで?」
「決まってるじゃない! 女心を弄ぶ男はすべからく悪だからよ!」
そう答えた少女に、そばにいた別の幼い少女が、思わず涙を浮かべた。
強い口調で言ってみせたあの子は、孤児院の子どもたちの中でも歳上のほうである。だから、やや強い言葉を使うようになったことには、まあ年頃の娘だものな――と思う程度だ。
だが、それが原因で、年端もいかない妹に泣きそうな顔をさせるのは、いただけない。
「こら。あまり乱暴なことを言うものではないよ」
「うっ……」
軽く叱ってやれば、言い過ぎたという自覚はあったのだろうか、彼女はしゅんと肩を落とす。
「でも神父様、私、今でも許せないんだから。カナタが、メリーを置いて海軍に入ったこと」
「…………」
「メリーは、上手くわがままを言えない子なんだって、カナタはきょうだいの誰よりも分かっていたはずよ。なのに、どうして? どうして、あの子の寂しい気持ちを、カナタは汲んでやれなかったの?」
なるほど――と、神父は納得し、安心した。
あの、少し度が過ぎているとも思えるほどの言葉は、彼女がメリーのことを大切に思っているが故のものだったのだ。
メリーは、孤児院の中でもカナタに次いで年長の子ども。カナタが長男ならばメリーは長女であり、彼女はいつでも、皆を気遣い見守る〝姉〟であろうとして、背伸びをしてばかりだった。
だから、メリーは、子どもたちのうちの誰かが悪いことをしたならば、一緒にその責任をとろうとするし、怒ったり泣いたりして負の感情を噴出させることも滅多にない。
ああしたいこうしたい、ああしてほしいこうしてほしいと我儘を言ったっていい年頃であるのに、メリーは、そうして年相応に振る舞うことすら出来ないほどに不器用で、優しすぎる子だった。
少女は、きっと、彼女もまた別の意味での不器用さを持ち合わせていながらも、そんなメリーを気にかけていたのだ。
優しい子に育ってくれたな、と思う。
同時に、まだまだこの子が幼いところのある子どもであるのだということを、改めて実感させられたのも事実だ。
「あのね。カナタが、メリーを悲しませたくて、海軍に志願したのではないのは、分かっているね?」
こくり。少女は、神父の言葉に小さく頷いた。
「分かっているわよ、そんなの」
「じゃあ、どうして、カナタがメリーを悲しませてでも、海軍へ入ることを選んだか。それは、知っている?」
「……知らない。そんなの、あいつ、誰にも教えてくれなかったじゃない」
口を尖らせる少女。
彼女とて、カナタが、施設を出た後もミドナに残ろうとしなかったことが、寂しかったのだ。
それが分かっていたからこそ、神父は、彼女に優しく言い聞かせた。
「実はね。カナタが海軍に入隊する前の日――孤児院を出る日の朝、私の部屋を訪ねてきたんだ。まだ、朝日も昇らないような時間にね」
少女は、驚いたように目を見開いて、神父を見つめる。
知らなくて当然だった。神父以外の誰もが、街全体が、未だ眠りの中にいるような時間のことだったのだから。
「……なんて、言ってたの。カナタは」
少女の言葉に、神父は、未だ明瞭に残るその記憶の中にある朝日を見た。
あの日の夜明け、巣立っていく息子と二人で見た景色は、きっと、自分の生涯で一番美しい景色のままだ。
とっておきの宝物を見せびらかすのを惜しむ子どものような心境で、あの日の思い出を掌の中に包み込んで、黙っていた。
それでも――
「……そうだね。君が、他のみんなに内緒に出来るのなら、話してもいいかな」
元々、他の誰にもこのことを話さないと、カナタに約束していた。それを反故にするのは、神父にとっても心苦しいことだ。
少女も、きっと、言外に含んだその心境を理解したのだろう。
「言わないわ。絶対。誰にも」
きっぱりと頷いた少女に、僅かに笑みを深めると、神父は、一度ゴミを捨ててくることを他の子どもたちへの言い訳に、少女を連れてその場を離れた。
緩い勾配の中にある、ちょっとした公園。ちょうど海を眺められるように設置されたベンチに、二人並んで腰掛ける。
「……あの日の朝、僕は、いつも通りに夜明け前の礼拝をしていてね。そこに、カナタがやってきたんだ。もうすっかり、身支度を整えてからね」
思い出を包み込んでいた掌を、そうっと開いていく。
冷たくも穏やかな風に、森の木々がさざめく音。
夜の暗がりと静寂に満ちていた世界を、朝の気配が少しずつ満たしていくを感じた時の、静かな高揚感。
遠く、底の見えない深い深い闇が、徐々に全ての生命の母としての顔になっていくのを、昇る朝日の眩しさに目を細めながら二人で眺めた夜明け。
いつまでも色褪せることはないであろう宝物の姿を、神父は初めて、他人に打ち明けるのだった。
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