『――キャロ?』


 聞き心地の良いテノールが、キャロの鼓膜を震わせる。

 恐る恐る目を開けると、そこには――


「……おとう、さん……?」


 ――少しひげを生やした、掘りの深い顔立ちをした男性が、泣きそうな顔をして立っていた。

 腐りかかった骨肉がすっかり元に戻ったその姿は紛れもなく、キャロの家の写真に写っていた男性――生前の、キャロの父親その人だった。


「お父さん……お父さんっ!」

『キャロ!』


 二人は旅人の手を放し、互いにひしと抱きしめ合う。

 もう絶対に離すまいとするかのように、強く、強く。


「お父さん……お父さぁんっ……!」

『キャロ……! すまなかった、すまなかった……! お前と母さんを残して、こんなことに……!』


 抱きしめ合って再会を喜び合う二人。

 その様子を、旅人は微笑ましく見守っていた。

 ずっとそうさせてやりたいとも、思っていた。

 だが、時間は有限だ。

 二人の別れの時は、今も刻々と迫っている。


「キャロ。この状態はあまり持たせられない。するべき話は、きちんとしておきなさい」


 急かすように旅人が言うと、キャロはハッとして、それから、しっかりとうなずいた。


「お父さん」

『何だい、キャロ』

「あのね、お父さん、自分が本当は、病気で『死んじゃった』んだって、分かってる……んだよね?」

『ああ、もちろんさ』


 その言葉に、一瞬だけ複雑そうな顔をして、けれどキャロは、まっすぐに父親を見上げて言った。


「あのね、今から、この人……黒ずくめの旅人さんが、お父さんのことを、死んだ人として、『あの世』に送ってくれるんだって」

『この人が?』


 キャロの指さしたほう――旅人を見て、キャロの父親が驚いたように目を見開く。

 旅人がしっかりとうなずいたのを確認してから、キャロは言葉を続けた。


「だからね。お父さん、最後に、私たちに言っておきたいこととか、やっておきたいこととか、ある?」

『……ああ、もちろんさ』


 キャロの言葉に、キャロの父は、ほとんど間を空けずに答えた。

 それから、再び旅人を見て、確認するように言った。


『私がこうしていられるのは、あまり長くないんだね?』

「……10分。もつか、もたないかです」

『そうか。それなら――』


 そこで、キャロの父親は、一度キャロから離れた。

『キャロ。先に、母さんと話をしてくるよ。待っていてくれるかい?』

「うん、分かった」


 キャロが頷いたのを確認して、キャロの父は一度喫茶店を出ていく。

 家のほうに戻っていって、しばらくののち帰ってきた彼の体は、少しずつ透け始めている。


『すまない、キャロ。遅くなってしまったね』

「ううん、いいの」


 キャロは、そっと首を横に振った。

 そして、父親との最後の会話を始める。


「お母さんとのお話、どうだった?」

『最初は夢でも見ているのかと思っていたみたいだが、旅人さんの力でこうして戻ってきたんだと言ったら、信じてくれたよ。……キャロのことを、よろしく頼むと伝えておいた』

「お母さん、泣いてた?」

『……ああ。最初は笑顔でいようと頑張っていたみたいだけれど、やっぱり最後は、どうしてもね』

「そっか」


 キャロは、ほんの少しだけ眉尻を下げて、俯く。

 短いようで長い沈黙が流れた後、彼女は、覚悟を決めたように顔を上げる。


「私ね、お父さんが病気になって、それで〝死んじゃった〟時、本当に悲しかった」

『うん』

「どうして、私とお母さんを置いていっちゃったのって思うと、すごく悲しかったし、悔しかった」

『……うん』

「でもね」


 そこで、キャロは心からの笑顔を浮かべて、父親を見つめた。


「私、今、お父さんが教えてくれたバリスタのお仕事も、お母さんのお手伝いも、どっちも頑張ってるの。そうしたらね、お父さんが死んじゃってさびしいのなんて、どこかに飛んでいっちゃうの」

『キャロ……』

「だからね、お父さん。私は大丈夫。お母さんもきっと、そのうち大丈夫になるよ。だからお父さんは、安心して、天国でゆっくりしてね」

『……そうか。そうだな』


 キャロの父親は、そう言って、安心したような顔で頷いた。

 その瞳には、温かく光る雫が滲んでいる。


『心配だったんだ、ずっと。母さんのことも、キャロのことも。特にキャロ、お前はしっかりしたところもあるが、まだまだ子どもだ。喫茶店のことや母さんのことを考えて、頑張りすぎてはいないかと、気が気じゃなかったんだ』


 震える声で、キャロの父親は胸の内をさらけ出していく。


『でも、今。キャロの言葉を聞いて、安心したよ。私の自慢の娘は、こんなにも強く、立派に育ってくれた――そう思ってね』

「お父さん……」

『でも、キャロ。もしも時々、父さんのことを思い出して寂しくなって、辛くなって、胸の奥の方が熱くなったとしたら』


 そう言って、キャロの父親は、ぎゅっとキャロを抱きしめた。

 そして、優しく頭をなでて、言い聞かせる。


『その時は、思いっきり泣きなさい。泣いて、母さんに甘えなさい。しっかりしなきゃと思い詰めて、強がらなくていいんだよ。キャロには、存分に甘えられる相手がちゃんといて、いつでも頼っていいんだということを、いつだって忘れないでいてほしい』


 いいね?

 そう言われたキャロは、父親の腕の中で、ぱちぱちと瞬きをした。

 それから、その目にいっぱいの涙を溜めて――


「ふっ……ううう……うぁああああーっ! わあああああん!」


 年相応の子どもらしく、わあわあと声を上げて、泣いた。

 父親の胸にすがって、たくさん泣いた。

 これまでに我慢していた寂しさや悲しさを、全て吐き出すかのように。

 そんなキャロの背中を、優しく、優しく撫でながら、キャロの父親は、キャロを抱きしめる腕に、しっかりと力を込めた。

 愛しい娘の体温を、しっかりと自分自身の身に覚えこませるかのように。




「……二人とも。そろそろ」


 キャロがすっかり泣きやんだころ、旅人が固い声で告げた。

 その言葉には、親子の時間を終わらせてしまうことの辛さが、滲み出ていた。

 キャロと父親は、ゆっくりと体を離し、互いに覚悟を決めたように頷き合う。

 そして、二人揃って、親子でそっくりな強い光を宿した目で、旅人を見つめた。


『旅人さん、お願いします』

「どうか、お父さんを、楽にしてあげてください」


 それぞれの言葉を聞いた旅人は、二人の顔を交互に見やってから、深く頷いた。

 背負っていた棺をそっと床に置き、蓋を開く。

 棺の中は空っぽで、どこまでも闇ばかりが広がっていた。

 底があるのかないのかも分からない、不気味な暗闇がぽっかりと口を開けていて、思わずキャロたちは身震いする。

 しかし、旅人は「心配することはないよ」と前置いて、キャロの父親に言った。


「お父様。こちらの中へ寝転んでください」

『ここへかい?』

「はい。目を閉じる必要はありません。最後までしっかりと、キャロさんの顔を見ておいてあげてください。二人で手をつないでもらっても構いません」


 旅人の言葉に、キャロの父親は、意を決したように棺の中に寝転んだ。

 棺の大きさは、驚くほど彼の背丈にぴったりだった。

 木の硬い質感が背中越しに伝わってくるが、不快ではない。中は冷たいのかと思っていたが、意外なほどに温かく、目を閉じればすぐにでも眠りに落ちてしまいそうだ。

 しかし、彼は目を閉じることなく、喫茶店の天井を見上げていた。


『キャロ、おいで』


 父親に呼ばれて、キャロも恐る恐る棺のそばに寄り、そこへしゃがみ込む。

 棺の外へ父親が伸ばした手をしっかりと握って、キャロは、父親と見つめ合った。

 父親の目はとても穏やかで、これから訪れる本当の〝死〟を恐れている様子は、微塵も感じられない。

 キャロもまた、これから父親に本当の〝死〟が訪れるのを分かっていながら、悲しみに暮れる様子はなかった。

 二人の意志が固いことを確認してから、旅人は、キャロの父が横たわる棺の傍に跪いた。

 銀のロザリオにそっと口づけると、何かの呪文のようなものを唱える。




 我は黒の葬儀人

 神の御名において、終わりゆく命に、長き旅路の終わりを示す者なり

 我が声は神の息吹

 我が言葉は解放のしるべ

 朽ちた肉塊となりて常世を彷徨える死者よ

 今宵、その魂を神の御許に返し、安らかなる眠りに身を委ねたまえ




 歌うような、朗々とした詠唱が終わった、次の瞬間。

 まばゆい光が、棺の中から溢れ出し、喫茶店の中を明るく照らし出す。

 それは、キャロの父親――その肉体が、少しずつ光の粒に変わり始めたことによるものだった。

 そして同時に、キャロの父親が、本当の意味での〝死〟を迎えようとしていることの表れでもあった。


『……ああ……温かい。心地いいな』


 キャロの父親は、穏やかな笑顔で呟く。


『〝死〟とは――こんなにも穏やかなものだったのか』


 そう言って、キャロの父親は、しっかりと自分の手を握る愛娘を見上げた。


『キャロ』

「……うん」

『父さんは、ずっと、お前たちを見守っているから』

「……うん」

『姿が見えなくなっても、声が聞こえなくなっても、父さんはずっと、お前たちのそばにいるから』

「……っ、うん……!」


 キャロは、涙を堪えながら、父親の言葉に、何度も頷く。


『キャロ』


 そんな彼女の目尻に浮かんだものを、父親がそっと拭ってやった、その瞬間。

 一層眩しくなった光が、弾けた。




『愛しているよ』




 その言葉を最後に、キャロの父親の姿は、完全に光に溶けて、消え去った。

 ふわふわと浮かぶ光の粒たちは、彷徨うようにしばらく辺りを漂ったあと、いつの間にか開いていた喫茶店の入口から出ていく。


「お父さん!」


 キャロは、思わずその光を追いかけて店の外に出た。

 旅人も、その後を追って喫茶店を出る。

 そこで、旅人が見たのは――


「……わあ」


 星も見えないほどに月明かりの眩しい夜空に、数えきれないほどの光の粒が昇っていく、幻想的な光景だった。


「きれい……」


 キャロは、そう呟いて、夜空に手をかざす。

 昇っていく光の粒たちが、まるで星のようにきらめいていた。


「……お父さん、私も」


 お父さんのこと、ずっとずっと、大好きだよ。

 そう呟いて、キャロは笑顔を見せる。

 彼女の心の中には、最後に父親が残した、「愛している」という言葉が、深く刻み込まれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る