②
『――キャロ?』
聞き心地の良いテノールが、キャロの鼓膜を震わせる。
恐る恐る目を開けると、そこには――
「……おとう、さん……?」
――少しひげを生やした、掘りの深い顔立ちをした男性が、泣きそうな顔をして立っていた。
腐りかかった骨肉がすっかり元に戻ったその姿は紛れもなく、キャロの家の写真に写っていた男性――生前の、キャロの父親その人だった。
「お父さん……お父さんっ!」
『キャロ!』
二人は旅人の手を放し、互いにひしと抱きしめ合う。
もう絶対に離すまいとするかのように、強く、強く。
「お父さん……お父さぁんっ……!」
『キャロ……! すまなかった、すまなかった……! お前と母さんを残して、こんなことに……!』
抱きしめ合って再会を喜び合う二人。
その様子を、旅人は微笑ましく見守っていた。
ずっとそうさせてやりたいとも、思っていた。
だが、時間は有限だ。
二人の別れの時は、今も刻々と迫っている。
「キャロ。この状態はあまり持たせられない。するべき話は、きちんとしておきなさい」
急かすように旅人が言うと、キャロはハッとして、それから、しっかりとうなずいた。
「お父さん」
『何だい、キャロ』
「あのね、お父さん、自分が本当は、病気で『死んじゃった』んだって、分かってる……んだよね?」
『ああ、もちろんさ』
その言葉に、一瞬だけ複雑そうな顔をして、けれどキャロは、まっすぐに父親を見上げて言った。
「あのね、今から、この人……黒ずくめの旅人さんが、お父さんのことを、死んだ人として、『あの世』に送ってくれるんだって」
『この人が?』
キャロの指さしたほう――旅人を見て、キャロの父親が驚いたように目を見開く。
旅人がしっかりとうなずいたのを確認してから、キャロは言葉を続けた。
「だからね。お父さん、最後に、私たちに言っておきたいこととか、やっておきたいこととか、ある?」
『……ああ、もちろんさ』
キャロの言葉に、キャロの父は、ほとんど間を空けずに答えた。
それから、再び旅人を見て、確認するように言った。
『私がこうしていられるのは、あまり長くないんだね?』
「……10分。もつか、もたないかです」
『そうか。それなら――』
そこで、キャロの父親は、一度キャロから離れた。
『キャロ。先に、母さんと話をしてくるよ。待っていてくれるかい?』
「うん、分かった」
キャロが頷いたのを確認して、キャロの父は一度喫茶店を出ていく。
家のほうに戻っていって、しばらくののち帰ってきた彼の体は、少しずつ透け始めている。
『すまない、キャロ。遅くなってしまったね』
「ううん、いいの」
キャロは、そっと首を横に振った。
そして、父親との最後の会話を始める。
「お母さんとのお話、どうだった?」
『最初は夢でも見ているのかと思っていたみたいだが、旅人さんの力でこうして戻ってきたんだと言ったら、信じてくれたよ。……キャロのことを、よろしく頼むと伝えておいた』
「お母さん、泣いてた?」
『……ああ。最初は笑顔でいようと頑張っていたみたいだけれど、やっぱり最後は、どうしてもね』
「そっか」
キャロは、ほんの少しだけ眉尻を下げて、俯く。
短いようで長い沈黙が流れた後、彼女は、覚悟を決めたように顔を上げる。
「私ね、お父さんが病気になって、それで〝死んじゃった〟時、本当に悲しかった」
『うん』
「どうして、私とお母さんを置いていっちゃったのって思うと、すごく悲しかったし、悔しかった」
『……うん』
「でもね」
そこで、キャロは心からの笑顔を浮かべて、父親を見つめた。
「私、今、お父さんが教えてくれたバリスタのお仕事も、お母さんのお手伝いも、どっちも頑張ってるの。そうしたらね、お父さんが死んじゃってさびしいのなんて、どこかに飛んでいっちゃうの」
『キャロ……』
「だからね、お父さん。私は大丈夫。お母さんもきっと、そのうち大丈夫になるよ。だからお父さんは、安心して、天国でゆっくりしてね」
『……そうか。そうだな』
キャロの父親は、そう言って、安心したような顔で頷いた。
その瞳には、温かく光る雫が滲んでいる。
『心配だったんだ、ずっと。母さんのことも、キャロのことも。特にキャロ、お前はしっかりしたところもあるが、まだまだ子どもだ。喫茶店のことや母さんのことを考えて、頑張りすぎてはいないかと、気が気じゃなかったんだ』
震える声で、キャロの父親は胸の内をさらけ出していく。
『でも、今。キャロの言葉を聞いて、安心したよ。私の自慢の娘は、こんなにも強く、立派に育ってくれた――そう思ってね』
「お父さん……」
『でも、キャロ。もしも時々、父さんのことを思い出して寂しくなって、辛くなって、胸の奥の方が熱くなったとしたら』
そう言って、キャロの父親は、ぎゅっとキャロを抱きしめた。
そして、優しく頭をなでて、言い聞かせる。
『その時は、思いっきり泣きなさい。泣いて、母さんに甘えなさい。しっかりしなきゃと思い詰めて、強がらなくていいんだよ。キャロには、存分に甘えられる相手がちゃんといて、いつでも頼っていいんだということを、いつだって忘れないでいてほしい』
いいね?
そう言われたキャロは、父親の腕の中で、ぱちぱちと瞬きをした。
それから、その目にいっぱいの涙を溜めて――
「ふっ……ううう……うぁああああーっ! わあああああん!」
年相応の子どもらしく、わあわあと声を上げて、泣いた。
父親の胸にすがって、たくさん泣いた。
これまでに我慢していた寂しさや悲しさを、全て吐き出すかのように。
そんなキャロの背中を、優しく、優しく撫でながら、キャロの父親は、キャロを抱きしめる腕に、しっかりと力を込めた。
愛しい娘の体温を、しっかりと自分自身の身に覚えこませるかのように。
「……二人とも。そろそろ」
キャロがすっかり泣きやんだころ、旅人が固い声で告げた。
その言葉には、親子の時間を終わらせてしまうことの辛さが、滲み出ていた。
キャロと父親は、ゆっくりと体を離し、互いに覚悟を決めたように頷き合う。
そして、二人揃って、親子でそっくりな強い光を宿した目で、旅人を見つめた。
『旅人さん、お願いします』
「どうか、お父さんを、楽にしてあげてください」
それぞれの言葉を聞いた旅人は、二人の顔を交互に見やってから、深く頷いた。
背負っていた棺をそっと床に置き、蓋を開く。
棺の中は空っぽで、どこまでも闇ばかりが広がっていた。
底があるのかないのかも分からない、不気味な暗闇がぽっかりと口を開けていて、思わずキャロたちは身震いする。
しかし、旅人は「心配することはないよ」と前置いて、キャロの父親に言った。
「お父様。こちらの中へ寝転んでください」
『ここへかい?』
「はい。目を閉じる必要はありません。最後までしっかりと、キャロさんの顔を見ておいてあげてください。二人で手をつないでもらっても構いません」
旅人の言葉に、キャロの父親は、意を決したように棺の中に寝転んだ。
棺の大きさは、驚くほど彼の背丈にぴったりだった。
木の硬い質感が背中越しに伝わってくるが、不快ではない。中は冷たいのかと思っていたが、意外なほどに温かく、目を閉じればすぐにでも眠りに落ちてしまいそうだ。
しかし、彼は目を閉じることなく、喫茶店の天井を見上げていた。
『キャロ、おいで』
父親に呼ばれて、キャロも恐る恐る棺のそばに寄り、そこへしゃがみ込む。
棺の外へ父親が伸ばした手をしっかりと握って、キャロは、父親と見つめ合った。
父親の目はとても穏やかで、これから訪れる本当の〝死〟を恐れている様子は、微塵も感じられない。
キャロもまた、これから父親に本当の〝死〟が訪れるのを分かっていながら、悲しみに暮れる様子はなかった。
二人の意志が固いことを確認してから、旅人は、キャロの父が横たわる棺の傍に跪いた。
銀のロザリオにそっと口づけると、何かの呪文のようなものを唱える。
我は黒の葬儀人
神の御名において、終わりゆく命に、長き旅路の終わりを示す者なり
我が声は神の息吹
我が言葉は解放の
朽ちた肉塊となりて常世を彷徨える死者よ
今宵、その魂を神の御許に返し、安らかなる眠りに身を委ねたまえ
歌うような、朗々とした詠唱が終わった、次の瞬間。
まばゆい光が、棺の中から溢れ出し、喫茶店の中を明るく照らし出す。
それは、キャロの父親――その肉体が、少しずつ光の粒に変わり始めたことによるものだった。
そして同時に、キャロの父親が、本当の意味での〝死〟を迎えようとしていることの表れでもあった。
『……ああ……温かい。心地いいな』
キャロの父親は、穏やかな笑顔で呟く。
『〝死〟とは――こんなにも穏やかなものだったのか』
そう言って、キャロの父親は、しっかりと自分の手を握る愛娘を見上げた。
『キャロ』
「……うん」
『父さんは、ずっと、お前たちを見守っているから』
「……うん」
『姿が見えなくなっても、声が聞こえなくなっても、父さんはずっと、お前たちのそばにいるから』
「……っ、うん……!」
キャロは、涙を堪えながら、父親の言葉に、何度も頷く。
『キャロ』
そんな彼女の目尻に浮かんだものを、父親がそっと拭ってやった、その瞬間。
一層眩しくなった光が、弾けた。
『愛しているよ』
その言葉を最後に、キャロの父親の姿は、完全に光に溶けて、消え去った。
ふわふわと浮かぶ光の粒たちは、彷徨うようにしばらく辺りを漂ったあと、いつの間にか開いていた喫茶店の入口から出ていく。
「お父さん!」
キャロは、思わずその光を追いかけて店の外に出た。
旅人も、その後を追って喫茶店を出る。
そこで、旅人が見たのは――
「……わあ」
星も見えないほどに月明かりの眩しい夜空に、数えきれないほどの光の粒が昇っていく、幻想的な光景だった。
「きれい……」
キャロは、そう呟いて、夜空に手をかざす。
昇っていく光の粒たちが、まるで星のようにきらめいていた。
「……お父さん、私も」
お父さんのこと、ずっとずっと、大好きだよ。
そう呟いて、キャロは笑顔を見せる。
彼女の心の中には、最後に父親が残した、「愛している」という言葉が、深く刻み込まれていた。
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