旅人と儀式とさようならの朝
①
お父さんは、一昨年――私が9歳だった頃に、重い病気にかかりました。
喫茶店を開いてから、3年も経たない頃でした。
病気にかかってから、次第にお父さんは弱っていって……寝たきりになってしまうまで、あっという間でした。
それから、去年の、年が明けてすぐのことです。
朝、目が覚めて、私は、お父さんの様子を見に行きました。
そうしたら……お父さん、冷たくなっていたんです。
どれだけ揺さぶっても、声をかけても、頬を軽く叩いてみたって、お父さんが目を覚ますことは、ありませんでした。
1日経っても、2日経っても、3日経っても、お父さんは起きませんでした。
私もお母さんも、お父さんが死んでしまったんだと分かって、二人でわんわん泣きました。
お日様が沈んで月がのぼっても、月が沈んでお日様がのぼっても、ずっとずっと泣いていました。
それでも、少しずつ、私たちはいつも通りの生活に戻っていきました。
お母さんは街の洋服屋さんでお仕事をしていましたし、私は、いつもお父さんのお手伝いをしていた喫茶店で、正式にバリスタ兼
そうしているうちに、お父さんが亡くなってしまった辛さも、少しずつ和らいでいきました。
おかしいなと思ったのは、お父さんが『死んで』から、一週間が経った日のことです。
その日の夜中、私は、隣のお部屋のドアが開く音で目が覚めました。
私の隣のお部屋は、お父さんのお部屋でした。
その頃、お父さんのお部屋には、私もお母さんも入ろうとはしなかったので、よりにもよって真夜中にドアの音がするのは、おかしいなと思ったんです。
私は、こっそり起きて、部屋を出て、外の様子を見に行きました。
けれど、お父さんの部屋は、ドアが開けっぱなしになっているだけで、お母さんも、誰もいなかったんです。
けれど、私は聞きました。
部屋を出た『誰か』の足音が、喫茶店のほうに向かっていったのを。
怖いもの見たさで、私は足音の主を追いかけて、喫茶店へ行きました。
裏口からは明かりがもれていて、誰かがいるんだとすぐに分かりました。
私は意を決して、そうっと裏口のドアを開けました。
すると、そこには――一心不乱にコーヒーを淹れる、お父さんがいたんです。
†
「……つまり、君のお父様が〝亡くなった〟こと自体は一年以上前の話。それ以降は、死んだはずのお父様が、夜な夜なコーヒーを入れるために起きてくる――と。そういうことなんだね?」
湯気の立つコーヒーカップを前に、旅人は話を要約する。
キャロはうなずくと、一口カフェオレを飲んで、溜め息をついた。
「父がああなった理由は、分かっています。……大昔、この世界に、神様がかけたお
「そうだね」
「だから父は、死ぬこともできずに、夜な夜なああして……」
そう言ったきり、キャロは黙り込んでしまう。
話題に挙がっている当人――キャロの父親は、一言もしゃべらない。
ただ、どこか嬉しそうな笑みを浮かべたまま、ゆらゆらと体を揺らしてカウンターの向こうに立っていた。
そんなキャロの父親をちらりと見やってから、旅人はキャロに視線を戻す。
じっとうつむいてカフェオレの水面を見つめる、キャロ。
彼女が父親に対して何を思うのか、それが気がかりだった。
「……キャロは」
旅人の言葉に、キャロがゆっくりと視線を上げる。
「彼――お父様が、どうなるのが望ましいと思う?」
「え?」
きょとんとするキャロに、旅人は言う。
「夕飯の時に言ったように、私はアンダーテイカー……つまり、葬儀人だ。本来は死者として葬られるべき人間を、あの世へ送ることができる」
「本当に……?」
「ああ。だから、君が選びなさい。お父様をあの世へ送るか、それともこのまま現世に留めておくか。君が、決めるんだ」
「わ、私は……」
そこまで言って、キャロは黙り込む。
また視線を下げて、カフェオレに目を落とす。
苦いコーヒーがまだ飲めない自分のためにと父親が淹れてくれた、甘すぎるくらいのカフェオレに。
「……私は」
キャロは、そっとコーヒーカップの縁をなぞって、呟く。
それから、ぱっと視線を上げて、言った。
「私は、父がずっと病気で苦しんでいるのを見てきました。いつも体のあちこちが痛い、苦しい、コーヒーの味も分からなくなっていくのが辛い――そう言っていました」
「…………」
「今だって、父の体は、少しずつ腐っていっています。そんなになってまで、父に、死んだまま生きていてほしいだなんて、私は思いません。父を、楽にしてあげたいって――そう思います」
「……そうか」
キャロの言葉を聞き届けた旅人は、薄く笑って席を立った。
それから、何を思ったのか、キャロの父のいるカウンターへと向かい、彼を挟んで向かい合うと、半ば腐り落ちている彼の手を取った。
「ァ……?」
キャロの父が、不思議そうに首を傾げる。
彼に小さく微笑むと、旅人は、キャロのほうへ手を差し伸べた。
「キャロ、おいで」
「え?」
不思議そうにしながらも、旅人の優しい笑みに惹かれるようにして、キャロはカウンターのほうへ向かう。
旅人は、近付いてきたキャロに自分の手を握らせると、「いいかい」と言った。
「これから、君のお父様の意識と私たちの意識をつないで、短い間だけれど、会話をする」
「父と、話せるんですか?」
「短い間だけね。だからその間に、死者として葬られる前に言い残しておきたいことがないかを、キャロが確認してくれ」
「私がですか?」
不安そうにするキャロに、旅人は微笑む。
「大丈夫。いくら姿が変わってしまっていても、君のお父様だ。その魂は、大きくは変質していない。生前、君とお父様がいつも過ごしていた通りにしてくれればいいんだよ」
その言葉に少しは安心したのか、キャロは少しの間父親を見上げた。
それから、数回深呼吸をして、心の準備を整える。
「……はい、大丈夫です。いつでもいけます」
それを確認して、旅人は頷き、キャロと、彼女の父親と繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込めた。
そして――
主よ、かの死者の魂を、今一度此方へ呼び寄せたまえ
そして、かの死者の娘、無垢なる少女に、今一度その声を聞かせたまえ
どこの国の言葉ともつかない、呪文のようなものを唱えた。
すると、どうしたことだろう。
喫茶店の店内に、ふわりと風が巻き起こった。
その風はきらきらと淡い光を放ちながら渦を巻き、キャロの父の周りを取り囲み、そして瞬く間に立ち消える。
その眩しさに、キャロが一瞬目をつぶった、次の瞬間だった。
『――キャロ?』
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