どこかの部屋のドアが開く音で、旅人は目を覚ました。

 元より旅人の眠りは浅い方だったので、眠気が残ることもなく、すんなりと意識が覚醒していく。

 借りたパジャマから普段着に着替え、外套と帽子を被り、念のために棺を背負って、そっと部屋を抜け出す。

 物音を立てないように気を払いながら廊下に出れば、と誰かが階段を下りていく音がする。

 トントントン、という軽い足音を追って、そっと歩き出す。

 一階に降りたところで、勝手口を開け、店――喫茶店『ネージュ・フルール』のほうへと向かっていく誰かの後ろ姿が見えた。


「……あれは」


 見覚えのある背中に気付いた旅人は、そう呟いて、静かに後を追いかける。

 ネージュ・フルールの裏口にたどり着くと、旅人はまず裏口のドアを確認した。

 上の方にある小窓からは、かすかながらも、明かりがもれている。

 誰かがいる証拠だ。

 次いで旅人は、そっとドアに耳を当てた。中で物音がしないか、確かめるためだ。

 息をひそめ、中の音を聞くことに意識を集中させる。

 喫茶店の中は静かだったが、何かが削れるような音がかすかに聞こえてくる。


 そして、


「――さん、――は――ですよ」


 どこか困ったように誰かに話しかける、聞き覚えのある声も。


「…………」


 ここで勝手に覗き見るのも憚られるが、しかし、気になるものは気になってしまう。

 旅人は、意を決して、ドアノブに手をかけた。

 そっと、裏口のドアを開けた旅人が見たものは。


 ガリガリガリ、ガリガリ、ガリッ。


 一心不乱にコーヒー豆を挽く、黒いVネックエプロンを着た、青白い顔をした壮年の男性。

 そして、


「お父さん、お父さん。お客さんは、もういないんですよ。お父さんってば」


 そんな男性に、一生懸命に話しかけるキャロだった。


「(お父さん……)」


 キャロの言葉を内心で繰り返しながら、旅人はふむと頷く。

 コーヒー豆を挽いている男性は、キャロの家にあった写真に写っていた男性を少し老けさせたような顔立ちをしている。

 なるほど、やはり彼はキャロの父親だったのか。旅人は一人、納得した。

 しかし、彼は、写真に写っていた男性とは、似ても似つかない姿をしている。


 健康的に日に焼けていた顔は、今や痩せこけて青白い。

 体つきも、全体的に折れそうなほど細くなっていた。

 何より、彼の衣服からはみ出た首や手足、そして顔は――所々が腐り落ちている。


 写真と比べると、変わり果てた姿になってしまっている男性。

 そうなると、彼が今日、自分の前に姿を見せなかったのは――

 そんなふうに、考え込んでいた時だった。


 突然、背後から強い風が吹いて、喫茶店の中に吹き込んでいく。

 その風の冷たさに気付いてか、コーヒー豆を挽いていた男性がふと顔を上げ、ゆっくりとこちらを向いた。

 光を一切映さない、暗い瞳と目が合う。

 すると、男性が、どこか嬉しそうに、口の端を持ち上げたような気がした。


「お父さん?」


 その様子に気付いたのか、キャロが不思議そうに声を上げる。

 そして、父親の視線の先をたどった彼女は、裏口に立つ旅人を見つけた。


「た、旅人さん!?」

「やあ、キャロ」

「いつからそこに……」


 唖然とするキャロに、一歩、また一歩と近付く旅人。

 暗闇の中、悠然と歩いてくる黒ずくめに怖気づいたのか、びくりと体を震わせるキャロ。

 そんな彼女の数歩手前で足を止め、しゃがんで目線を合わせると、旅人は優しく言った。


「何となくだが、予想はしていたよ。キャロの家にあった写真に写っていた男性――彼が、この人なんだね」


 こくり、キャロは頷く。


「けれど、この人は夕飯の時、食卓にいなかった。恐らく、この人は食事ができる状態にないからだ。そしてキャロ、君のお母様は、私が葬儀人アンダーテイカーであると言った時、動揺していたね。君が私に〝お願いごと〟をしようとするのも、嫌がっているようだった」

「っ……」

「そして何より、あの腐り落ちた体。あれを見たら、もう否定しようがない」

「…………」


 黙り込むキャロ。

 そんな彼女としっかり目を合わせて、旅人は、言った。


「キャロ。君のお父様は――」




 死んでいるんだね。




 長い長い間を空けて、キャロが、しっかりとうなずく。

 喫茶店の中を照らす頼りない明かりが、ゆらゆらと揺れる。

 コーヒー豆を挽いていた男性が、戸棚からカップを取り出し、コーヒーを提供する準備を始める。

 挽かれたばかりのコーヒー豆の香りが、喫茶店中に漂っていた。

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