②
午後三時過ぎの喫茶店には人の姿もなく、静かな時間が流れていました。
「お客さん、来ませんね……」
そう一人ごちて、私は、お店のカウンターから飛び出しました。
せっかくのいいお天気。
こんな日は、コーヒーをそばに置いて、窓辺で読書でもしたくならないのでしょうか。
私だったら、お砂糖とミルクをたっぷりのカフェオレを淹れて、日当たりのいいテーブル席で、のんびりとレコードでも聴いていたいのに。
そんなことを考える私は、とにかく、お店に人が来ないことが不満だったのです。
そもそもの話、この喫茶店が、もともと知る人ぞ知るというお店なので、仕方のないことではあるのかもしれませんが。
この喫茶店、『ネージュ・フルール』は、もともと、私の父が始めたお店でした。
父は、生まれ育ったこの街が大好きで、地域に根ざしたお店を作りたいと言って始めたのが、このお店。
ですが、今は訳あって、ここのバリスタ(コーヒーを淹れる人のことです)と
……が、今のように、お店に閑古鳥が鳴く日は、決して少なくありません。
仕方がありません。
今は、お店の掃除でもして、お客さんが来るのを待っていましょう。
そう思って、お店の隅っこにある、掃除道具入れに向かおうとした、その時でした。
カラン、コロン。
ドアベルが鳴り、誰かがお店のドアを開けたことを教えてくれます。
「いらっしゃいませ。喫茶ネージュ・フルールへようこそ」
ぱっとそちらを振り向くと、そこには、真っ黒な服に身を包んだ人が一人、ぽつんと立っていました。
黒い帽子に黒いコート、黒い革靴。
胸元に光るのは、銀のロザリオ。
そしてその背中には、なぜか――大きな棺桶を背負っています。
目深に被った帽子の下からのぞいた顔は、男の人にも女の人にも見える、不思議だけれど、とてもきれいな顔立ちをしていらっしゃいました。
「一人だ。席を借りても?」
その人は、私を見て一瞬驚いたような顔をしましたが、すぐにそう言いました。
「は、はい。こちらへどうぞ」
ハッとして、私は急いでそのお客様を席まで案内しました。窓際にいくつかあるうちの、いっとう日当たりのいい席です。
「どうぞ。お荷物はこちらへ」
「これはどうも。ご丁寧に、ありがとう」
その人が背負っていた棺を指して言えば、その人は帽子を脱いで、ていねいにお辞儀をしました。
その人は、入ってきた時の無表情から、ちょっぴり笑顔を浮かべてくださっていて、何だかドキドキしてしまいました。
「気立てのいい、素敵なウエイトレスさんだね。しかし、
けれど、お客様がそう言った瞬間。
私はムッとして、つい口をとがらせてしまったのでした。
「私はウエイトレスじゃありません。ここの店主です」
「……君が?」
お客様は、ぽかんとして私を見つめます。
そうです、と胸を張れば、お客様はバツが悪そうにほおをかいて、それから、また帽子を取って頭を下げました。
「すまない。知らなかったとはいえ、失礼なことを言ってしまった」
思っていたよりもずっとていねいな謝り方に、今度は私が困惑する番でした。
「いえ、初めてのお客様にはよく間違えられるので、いいんです。こちらこそ、すねてしまって、すみませんでした」
そう言って頭を下げたあと、私はお客様にメニューを手渡します。
「本日のおすすめコーヒーは、当店オリジナルのネージュ・フルールブレンドです。メニューが決まりましたら、またお呼びください」
「ああ。ありがとう」
そう言うと、お客様はメニューを開いて、真面目な顔で何を注文するか考え始めたようです。
その間に私は、コーヒーミルの掃除を始めました。
木製の引き出しがついたコーヒーミルの、豆を挽いた後の粉が落ちる引き出しの中を、やわらかなブラシでていねいに掃きます。
そうしている間に、お客様が「すみません」と声を上げたので、私はミルを元通りにして、お客様のもとへ駆け寄りました。
「お待たせしました。ご注文は何にいたしますか?」
「ネージュ・フルールブレンドを一つ。エッグサンドとセットで頼むよ」
「かしこまりました。コーヒーは、ホットになさいますか?」
「ああ。それでお願いするよ」
そう言って、お客様は、テーブルの近くに備え付けてあったマガジンラックから、新聞を取り出して読み始めました。
すごい。画になるなあ……
思わずため息をついて、私はカウンターへ向かいました。
コーヒーミルに、一杯分のコーヒー豆を入れたら、ていねいに挽いて、細かくして。
できあがったコーヒー粉を、ペーパーフィルターをセットしたドリッパーに入れたら、円を描くようにしてお湯を注いで、少し蒸らします。
粉がドリッパーの中で膨らんできたら、何度かに分けてお湯を注いで、ゆっくりとコーヒーを抽出していきます。
じっくり時間をかけて淹れたコーヒーを、カップに注いだら、お店自慢のブレンドコーヒー、『ネージュ・フルールブレンド』の完成。
サンドイッチと一緒にトレイにのせて、お客様のもとへ運びました。
「おまたせいたしました。ネージュ・フルールブレンドのホットと、エッグサンドになります」
「ああ、ありがとう」
お客様の前に、コーヒーを置くと、彼(彼女、かもしれませんが)は、目を細めてお礼を言ってくださいます。
胸の奥がぽかぽかする感覚を覚えながら、私は最後の確認をしました。
「コーヒーのおかわりは自由です。砂糖とミルクは、お使いになられますか?」
「いや、必要ないよ」
「かしこまりました。それでは、ごゆっくりどうぞ」
私は、そう言って、カウンターのほうへ戻りました。
洗って乾かしておいたカップをていねいにみがきながら、ちらちらとお客様のほうをうかがいます。
お客様は、まずコーヒーの香りを一口かがれました。
ネージュ・フルールブレンドは、チョコレートのように甘くて、深みのある香りが特徴のブレンドコーヒーです。
ですから、その香りを真っ先に楽しんでいただけるのは、とても嬉しいものです。
そのあと、一口コーヒーを口にして、お客様はほうっと息を吐かれました。
あ、何か呟かれましたね。
口の動きから察するに、
「なるほど」
でしょうか。
味に納得していただけたのなら、これ幸いです。
続いて、お客様はコーヒーカップをソーサーに戻して――
「店主さん」
不意に、お客様が、こちらをまっすぐに見て、私を呼ばれました。
「は、はい!」
「追加の注文があるんだけど、いいかな」
「かしこまりましたっ」
私は、伝票を手にあわててお席へと向かいます。
「チョコレートケーキを、追加で二つ」
「二つ、ですか? かしこまりました」
おひとりでそんなに召し上がられるのでしょうか。
少し不思議に思いながらも、注文を取ります。
お客様は続けて注文をしようとしていたようですが、ふと、私に訊ねてきます。
「店主さんが好きなコーヒーは、何かな?」
「私ですか? 私は……」
キリマンジャロ、ブルーマウンテン、コロンビアにグアテマラ。
コーヒーのブレンドにも色々種類はありますが、私のお気に入りは、やはりネージュ・フルールブレンドです。
……カフェオレにしないと飲めませんが。
そう伝えると、お客様は「そうか」とくすくす笑って、メニューを閉じました。
カフェオレにしないと飲めない、と言ったのがおかしかったのでしょうか。
――うっかり言うんじゃありませんでした!
恥ずかしくて顔が耳まで熱くなってきたところで、お客様が言います。
「それじゃあ、ネージュ・フルールブレンドのカフェオレを一つ。ホットで」
「かしこまりました」
「それから……」
そこで、お客様は一度言葉を区切ると、ふっと微笑んで私を見ます。
顔に何か、ゴミでもついていたでしょうか?
そう思って首をかしげると、お客様は私を見つめたまま言いました。
「
「え?」
「一人で過ごす時間は、穏やかで気分がいいけれど、退屈でもあるからね。もし良ければ、話し相手になってくれるかい?」
それに、と言い置いて、お客様はカウンターのほうに目をやります。
「あそこから見つめられていると、何だか照れてしまってね」
「き、気付いてらっしゃったんですか!?」
それはもう、完全に、ついついじっと見てしまっていた私が悪いんですけれど。
気付かれていたと分かると、途端に恥ずかしくなってしまいました。
「だから、どうせなら、面と向かってお喋りしようじゃないか」
どうだい?
お客様はそう言って、もう一度私を見つめてきます。
窓からの射し込む日光を吸い込んで輝くオニキスのような瞳は、じいっと見ていると吸い込まれてしまいそう。
不思議な魅力を放つその目にドキドキしながら、私は、反射的にうなずいていました。
「わ、私でよければ」
「決まりだね」
そしてお客様は、またコーヒーを一口飲んで。
それから、
「流石は、店の自慢のコーヒーだ。とても香ばしくて、美味しいね」
一番のほめ言葉を、ここにきて、投げかけてくださいました。
「……っ、ありがとうございます!」
私は、嬉しくなって、深々と頭を下げます。
それから、「少々お待ちください」と言い残して、急いでカウンターへ戻りました。
早く、ご注文の品をお持ちしないと。
そう思いながらコーヒーやケーキを準備する私の胸は、嬉しさと楽しさがない交ぜになった気持ちでいっぱいで。
つい、自然と、鼻歌なんて歌ってしまっていたのでした。
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