午後三時過ぎの喫茶店には人の姿もなく、静かな時間が流れていました。


「お客さん、来ませんね……」


 そう一人ごちて、私は、お店のカウンターから飛び出しました。

 せっかくのいいお天気。

 こんな日は、コーヒーをそばに置いて、窓辺で読書でもしたくならないのでしょうか。

 私だったら、お砂糖とミルクをたっぷりのカフェオレを淹れて、日当たりのいいテーブル席で、のんびりとレコードでも聴いていたいのに。

 そんなことを考える私は、とにかく、お店に人が来ないことが不満だったのです。

 そもそもの話、この喫茶店が、もともと知る人ぞ知るというお店なので、仕方のないことではあるのかもしれませんが。


 この喫茶店、『ネージュ・フルール』は、もともと、私の父が始めたお店でした。

 父は、生まれ育ったこの街が大好きで、地域に根ざしたお店を作りたいと言って始めたのが、このお店。

 ですが、今は訳あって、ここのバリスタ(コーヒーを淹れる人のことです)と店主マスターのお仕事を、11歳になったばかりの私が引き継いでいるのです。

 ……が、今のように、お店に閑古鳥が鳴く日は、決して少なくありません。

 仕方がありません。

 今は、お店の掃除でもして、お客さんが来るのを待っていましょう。

 そう思って、お店の隅っこにある、掃除道具入れに向かおうとした、その時でした。


 カラン、コロン。


 ドアベルが鳴り、誰かがお店のドアを開けたことを教えてくれます。


「いらっしゃいませ。喫茶ネージュ・フルールへようこそ」


 ぱっとそちらを振り向くと、そこには、真っ黒な服に身を包んだ人が一人、ぽつんと立っていました。

 黒い帽子に黒いコート、黒い革靴。

 胸元に光るのは、銀のロザリオ。

 そしてその背中には、なぜか――大きな棺桶を背負っています。

 目深に被った帽子の下からのぞいた顔は、男の人にも女の人にも見える、不思議だけれど、とてもきれいな顔立ちをしていらっしゃいました。


「一人だ。席を借りても?」


 その人は、私を見て一瞬驚いたような顔をしましたが、すぐにそう言いました。


「は、はい。こちらへどうぞ」


 ハッとして、私は急いでそのお客様を席まで案内しました。窓際にいくつかあるうちの、いっとう日当たりのいい席です。


「どうぞ。お荷物はこちらへ」

「これはどうも。ご丁寧に、ありがとう」


 その人が背負っていた棺を指して言えば、その人は帽子を脱いで、ていねいにお辞儀をしました。

 その人は、入ってきた時の無表情から、ちょっぴり笑顔を浮かべてくださっていて、何だかドキドキしてしまいました。


「気立てのいい、素敵なウエイトレスさんだね。しかし、店主マスターは今は留守なのかい?」


 けれど、お客様がそう言った瞬間。

 私はムッとして、つい口をとがらせてしまったのでした。


「私はウエイトレスじゃありません。ここの店主です」

「……君が?」


 お客様は、ぽかんとして私を見つめます。

 そうです、と胸を張れば、お客様はバツが悪そうにほおをかいて、それから、また帽子を取って頭を下げました。


「すまない。知らなかったとはいえ、失礼なことを言ってしまった」


 思っていたよりもずっとていねいな謝り方に、今度は私が困惑する番でした。


「いえ、初めてのお客様にはよく間違えられるので、いいんです。こちらこそ、すねてしまって、すみませんでした」


 そう言って頭を下げたあと、私はお客様にメニューを手渡します。


「本日のおすすめコーヒーは、当店オリジナルのネージュ・フルールブレンドです。メニューが決まりましたら、またお呼びください」

「ああ。ありがとう」


 そう言うと、お客様はメニューを開いて、真面目な顔で何を注文するか考え始めたようです。

 その間に私は、コーヒーミルの掃除を始めました。

 木製の引き出しがついたコーヒーミルの、豆を挽いた後の粉が落ちる引き出しの中を、やわらかなブラシでていねいに掃きます。

 そうしている間に、お客様が「すみません」と声を上げたので、私はミルを元通りにして、お客様のもとへ駆け寄りました。


「お待たせしました。ご注文は何にいたしますか?」

「ネージュ・フルールブレンドを一つ。エッグサンドとセットで頼むよ」

「かしこまりました。コーヒーは、ホットになさいますか?」

「ああ。それでお願いするよ」


 そう言って、お客様は、テーブルの近くに備え付けてあったマガジンラックから、新聞を取り出して読み始めました。

 すごい。画になるなあ……

 思わずため息をついて、私はカウンターへ向かいました。


 コーヒーミルに、一杯分のコーヒー豆を入れたら、ていねいに挽いて、細かくして。

 できあがったコーヒー粉を、ペーパーフィルターをセットしたドリッパーに入れたら、円を描くようにしてお湯を注いで、少し蒸らします。

 粉がドリッパーの中で膨らんできたら、何度かに分けてお湯を注いで、ゆっくりとコーヒーを抽出していきます。

 じっくり時間をかけて淹れたコーヒーを、カップに注いだら、お店自慢のブレンドコーヒー、『ネージュ・フルールブレンド』の完成。

 サンドイッチと一緒にトレイにのせて、お客様のもとへ運びました。


「おまたせいたしました。ネージュ・フルールブレンドのホットと、エッグサンドになります」

「ああ、ありがとう」


 お客様の前に、コーヒーを置くと、彼(彼女、かもしれませんが)は、目を細めてお礼を言ってくださいます。

 胸の奥がぽかぽかする感覚を覚えながら、私は最後の確認をしました。


「コーヒーのおかわりは自由です。砂糖とミルクは、お使いになられますか?」

「いや、必要ないよ」

「かしこまりました。それでは、ごゆっくりどうぞ」


 私は、そう言って、カウンターのほうへ戻りました。

 洗って乾かしておいたカップをていねいにみがきながら、ちらちらとお客様のほうをうかがいます。

 お客様は、まずコーヒーの香りを一口かがれました。

 ネージュ・フルールブレンドは、チョコレートのように甘くて、深みのある香りが特徴のブレンドコーヒーです。

 ですから、その香りを真っ先に楽しんでいただけるのは、とても嬉しいものです。

 そのあと、一口コーヒーを口にして、お客様はほうっと息を吐かれました。

 あ、何か呟かれましたね。

 口の動きから察するに、


「なるほど」


 でしょうか。

 味に納得していただけたのなら、これ幸いです。

 続いて、お客様はコーヒーカップをソーサーに戻して――


「店主さん」


 不意に、お客様が、こちらをまっすぐに見て、私を呼ばれました。


「は、はい!」

「追加の注文があるんだけど、いいかな」

「かしこまりましたっ」


 私は、伝票を手にあわててお席へと向かいます。


「チョコレートケーキを、追加で二つ」

「二つ、ですか? かしこまりました」


 おひとりでそんなに召し上がられるのでしょうか。

 少し不思議に思いながらも、注文を取ります。

 お客様は続けて注文をしようとしていたようですが、ふと、私に訊ねてきます。


「店主さんが好きなコーヒーは、何かな?」

「私ですか? 私は……」


 キリマンジャロ、ブルーマウンテン、コロンビアにグアテマラ。

 コーヒーのブレンドにも色々種類はありますが、私のお気に入りは、やはりネージュ・フルールブレンドです。

 ……カフェオレにしないと飲めませんが。

 そう伝えると、お客様は「そうか」とくすくす笑って、メニューを閉じました。

 カフェオレにしないと飲めない、と言ったのがおかしかったのでしょうか。

 ――うっかり言うんじゃありませんでした!

 恥ずかしくて顔が耳まで熱くなってきたところで、お客様が言います。


「それじゃあ、ネージュ・フルールブレンドのカフェオレを一つ。ホットで」

「かしこまりました」

「それから……」


 そこで、お客様は一度言葉を区切ると、ふっと微笑んで私を見ます。

 顔に何か、ゴミでもついていたでしょうか?

 そう思って首をかしげると、お客様は私を見つめたまま言いました。


店主マスターの時間を、しばし私にいただきたいな」

「え?」

「一人で過ごす時間は、穏やかで気分がいいけれど、退屈でもあるからね。もし良ければ、話し相手になってくれるかい?」


 それに、と言い置いて、お客様はカウンターのほうに目をやります。


「あそこから見つめられていると、何だか照れてしまってね」

「き、気付いてらっしゃったんですか!?」


 それはもう、完全に、ついついじっと見てしまっていた私が悪いんですけれど。

 気付かれていたと分かると、途端に恥ずかしくなってしまいました。


「だから、どうせなら、面と向かってお喋りしようじゃないか」


 どうだい?

 お客様はそう言って、もう一度私を見つめてきます。

 窓からの射し込む日光を吸い込んで輝くオニキスのような瞳は、じいっと見ていると吸い込まれてしまいそう。

 不思議な魅力を放つその目にドキドキしながら、私は、反射的にうなずいていました。


「わ、私でよければ」

「決まりだね」


 そしてお客様は、またコーヒーを一口飲んで。

 それから、


「流石は、店の自慢のコーヒーだ。とても香ばしくて、美味しいね」


 一番のほめ言葉を、ここにきて、投げかけてくださいました。


「……っ、ありがとうございます!」


 私は、嬉しくなって、深々と頭を下げます。

 それから、「少々お待ちください」と言い残して、急いでカウンターへ戻りました。

 早く、ご注文の品をお持ちしないと。

 そう思いながらコーヒーやケーキを準備する私の胸は、嬉しさと楽しさがない交ぜになった気持ちでいっぱいで。

 つい、自然と、鼻歌なんて歌ってしまっていたのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る