PART6
もしも赤い煙が上がったときは――そんな“もしも”など起こり得ないと思っていたし、そのときは自らも一緒に戦うつもりでベイクはいた。その気持ちは今でも彼の胸にはくすぶっている。
しかし、しかしレアの怯えた表情を見たときにその決意は揺らぎ、そしてゴルドンという敵を前にして、その異様な雰囲気に遂にはそれは奥へと引っ込んでしまった。
レアの手を引き、山中を一心不乱に下るベイク。彼のその行動は自らの不甲斐なさから逃げるためのものに他ならなず、“竜狩り”の使徒、ゴルドンはその化身だった。
「クソが……!」
悪態を吐くベイクの背中を見てレアが表情を曇らせる。木々の合間から自分たち以外が立てた物音が聞こえ、二体の視線がそちらを向く。正体はシカの親子であった。
ベイクが思わず舌打ちをし、レアが彼に声を掛けようと口を開く。すると今度はベイクの視線が上を向いた。
「おい、レア! もっと飛ばすぞ、ちゃんとついてこい」
「あのっ、ベイク……!」
「クソッ、何処から見てやがる!?」
二体に気付き驚いて枝から飛び立つ鳥を見て苛立ちを募らせるベイクの耳にはレアの声が届いていなかった。
今の彼の中にはゴルドンという“竜狩り”から逃れることしかない。そんな彼の姿を見てレアは“違う”と感じた。だがそれを口にしようとすると引き留めた自らの過去の姿が浮かび、口は言葉を発することを拒否してしまう。
そうさせたのは自分だから――と。
枝葉を掻き分け、息を乱して疾走する竜人に驚かないものはないだろう。シカも鳥もクマも。本能で生きる生物とはそう言うものなのだ。だがそんな折、レアの目に一羽の小鳥が映り込んだ。
先ほど白ずくめが連れていた小鳥ではないが、それは枝に止まって彼らを見ていた。逃げもせずに。
「……っ! ベイク!!」
声が届かないのならばとレアは両足の爪を地面へと食い込ませ、ベイクを強引に引き留める。
焦ったベイクは彼女の意図をまるで理解せず、激情を抑えることなくレアの両肩に掴みかかると歯を剥いた獣の形相を向けた。
しかしレアも怯むことなくベイクをくっ付けたまま身を翻し木の陰へと入り込み鳥が向ける視線から身を隠す。そしてベイクの背を幹へと押し付けた。
「ベイク、落ち着いてっ」
「なにを……!」
「逃げ切れない」
「そんなわけ――」
「戦うのっ!」
ぴしゃりと言われ、ベイクは言葉を失った。
無茶を言っている自覚をレアは懐いていた。逃げるという選択をベイクにさせたのは自分だということも。
「ベイクはベイクらしくなくちゃダメ。敵が目の前にいるのに、助けなくちゃいけないみんながいるのに尻尾巻いて逃げるなんてそんなの全然ベイクじゃない」
「オレじゃないって……。レア、おまえ……」
「ごめん。わたしが間違ってた。助けよう、みんなを!」
それまで沈んでいたレアの七色の瞳が輝きを取り戻し、それがベイクの金色の瞳を見上げた。彼女の視線に射られたベイクは手中から彼女を解き放ち、それから空を見た。枝葉に遮られて空は疎らにしか見えず、それでも赤い煙ははっきりと視界に映る。
それはベイクの胸の奥底に潜んでいた“勇気”が再び姿を現そうとしているからであった。レアの言葉と想いに誘われて。
レアの顔にはまだ怯えがあった。しかし彼女の眼には、言葉にはそれを克服しようとする勇気の輝きがあった。ベイクにとってそれが呼び水となった。
ベイクは頷いた。深く、明確に。拳を握り締めて、石のように固くしたその拳を見下ろす。小刻みな震えは力みによるものではない。まだゴルドン、“竜狩り”への恐怖があった。
「……おまえは間違ってなんかねえ。オレがビビってた」
「ベイクならそんなの、きっとぶっ飛ばせる」
「ああ、オレなら……出来る!」
だがそんなものに負けはしないと、ベイクは木の陰より身をさらけ出した。そして外気を取り込み膨らませた腹を萎ませながら、彼は大声で叫びを上げる。
「出て来い“竜狩り”っ、オレはここだあっ!!」
ベイクの声に空気は震えレアは耳を塞ぐ。だが叫ぶベイクを見るレアの表情には喜々とした笑みがあった。まるでこの叫びが彼女の後悔や恐怖を吹き飛ばしたかのように。
やがて肺の中の酸素を全て吐き出し終えたベイク。そして繰り返される深い呼吸には火の粉が混じり散っていた。
すると二体の耳に枝を踏み折る音が届く。
「驚いた。凄い大声だな。びっくりしたよ」
それは背後からで二体が振り返るとそこにはわざとらしく耳を塞いだゴルドンの姿があった。耳から離した手で前髪を退ける彼の顔には笑みが浮かんでいる。二体は唸り声を上げ構えた。
「なるほどね、やり合おうってワケか。うん、悪くないんじゃないか。私たちはお前たちを傷つけられないわけだし……」
ゴルドンはそう言って一緒にいる白ずくめに下がるよう命じた。白ずくめは何も言わずに彼に従い、数歩ほど後退する。
「ただ後悔はするなよ」
言って歯を見せて笑うゴルドン。彼が頭部を持ち上げて前髪を跳ね上げると、それに合わせて口元を狼の顎を模した面頬が覆った。彼が纏う鎧殻の戦闘形態である。
ベイクはレアへと目配せをすると、雄叫びを上げてゴルドンへと駆け出した。握り締めた拳を携え、それを振るう腕に力を込めて。対してレアはその場に留まりつつも、彼女は深呼吸をして何やら精神統一や集中を高めるような仕草をする。
ゴルドンはそれらを前にしてなお余裕で、ふむと面頬に保護された鼻を鳴らす。彼の纏う濃紺の鎧殻が差し込んだ陽光を受け止めて煌めいた。
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