他愛ない事

 藍と別れた後、この前の帰省以来に実家に舞い戻った。そこにいたのは、最後に会った時より幾ばくか皺の少ない父と母だった。

 父と母は、僕を温かく迎えてくれた。実の息子が学校から帰ってきたのだから、当然だ。

 久しぶりに食べる母の手料理は、美味しかった。ただまあ、贔屓目抜きに藍の方が料理は美味かった。惚気ではない。断じて。

 そんな懐かしの風景を見ながら夕食を味わっていると、なんだかタイムスリップをした気分になった。今更だが。


 我が家なのにどこかぎこちない気持ちを抱きつつ、時間を過ごした。

 風呂に入って、寝間着に着替えて、ベッドに横になったのはいつもなら藍と一緒にリビングでテレビを見ている時間だった。


 大体、僕が家に帰宅するのがこの時間だったのだ。だから必然的に、この時間は藍と夕食を共にしながら、テレビを見ていることが多かったのだ。


『お行儀悪い。テレビ見るかご飯食べるか、あたしと話すかどれかにして』


 そうして二人きりの食事の中、思えば藍はいつもそんなことを言っていた。そこで僕は、渋々ご飯を食べる、と彼女に伝えたのだが……その度藍は、何故か一層機嫌を悪くしたこと数知れず。

 多分、良い大人になっても行儀が悪い僕に呆れていたのだろう。


 ……少し、彼女に謝罪をしたい気持ちに駆られていた。


「……目が覚めたら、全部夢だったなんてことはないだろうか」


 天井を見上げながら、呟いた。

 夢にしてはリアルな状況。でも、じゃあこれが現実なのかと問われればそうだと言える自信はなかった。


 僕は目を瞑った。

 この後、目を開けたら全部夢でした。


 そんな展開を期待しつつ、眠りに付いた。


 朝。


 実家の自室で目を覚ました僕は、やっぱりどうやら、この状況が夢ではないのだな、とそう結論付けさざるを得なくなった。


 朝ごはんを軽く食べて、家を出て、学校に着いたのは朝練に勤しむ生徒達が登校してくるような時間だった。

 さすがにまだ、教室には誰もいないだろう。


 そう思いながら、教室に向かった。




 ベージュのカーテンが、風に揺れていた。




「おはよう」


 藍だった。

 教室にいたのは、藍だった。

 いつかの時よろしく、僕は言葉を彼女に奪われた。まだ誰もいないと思ったのに、不意打ちも良いところだ。


 パタパタ。上履きの鳴る音。


 しばらくぼんやりとして、眼前に藍が迫っていることに気付いて。


「いたい……」


 頬を抓られ、僕は目尻に涙を蓄えながら言った。


「寝ぼけた顔してるから」


 藍が僕の頬から手を離した。


「そんな顔、してない」


「してた」


 ……今、眼前にいる少女は藍ではない。

 藍ではあるが、藍ではない。十年来、酸いも甘いも共にした、藍ではない。


 そんなこの少女に、僕の何がわかる。

 僕達はまだ出会って数日。それなのに、どうして僕がそんな顔をしていたと、断言できる。


 口から出まかせを言うな。


 そう言おうと思って、藍の瞳をジッと見た。

 不思議な気分だった。文句を言おうとしていたのに、その言葉が空を切ることなく引っ込んでいくのだ。


 藍ではないとわかっている。

 なのに僕は、どうしてかこの藍の言う言葉に強い説得力を感じてしまっていた。藍が言うなら、まあそうなのだろう。

 そう、思ってしまったのだ。


「まあ、別にあんたが寝ぼけてようが寝ぼけていまいが、どうでも良いんだけどね」


「そっか」


 無関心を装いながら、なんと藍らしい物言いだろうと思った。


「それより、ちゃんと考えてきたんでしょうね」


「何を?」


「ロングホームルーム、何をやるか」


「……ああ」


 そう言えば、そんな話あったな。すっかりと何も考えてこなかった。


「ちょっと、しっかりしてよ」


 どうやら僕の状況は、藍に筒抜けらしかった。少しだけ驚いた。


「ちゃんと放課後までには考えておくさ」


「授業はちゃんと受けなさいよ」


「わかってる」


「他愛事で頭がいっぱいで、テストの成績落ちたとかになったら、元も子もない」


「だから、わかってるよ」


 かつてから藍は、少しお節介だと思うくらいに僕を律しようとした。ツンデレな彼女がそうして心配してくれること、最初は嬉しかった。でも途中から、それが鬱陶しいと思うようになった。結婚して、同じ立場になって、共に支え合う立場になって。それでもなお、他人にお節介を受けることは気持ちの良い話ではなかった。


「……どうだか」


 藍は、それ以上の詰問は無意味と思ったのか、さっさと自席に戻った。

 僕もしばらくその場で立ち尽くして、気が紛れた頃に自席に向かった。


 他愛事に気を取られる内に、他のことで失敗するだなんて、そんなこと心配される覚えはない。これでも精神年齢は、藍よりも十は上。本来はまもなく三十歳になる身だったのに、たかだか十五の少女にそんなこと言われたくない。


 しばらくムカムカした気持ちがあったが、徐々に僕は手持ち無沙汰になっていった。さすがに、早く登校しすぎた。


 仕方なく、後の授業の予習でもしようと思った。さすがに十年前の勉強なんて、まったく覚えていなかった。


「あ」


 鞄を漁り、僕は気付いた。


 今日の授業で使う日本史の教科書が、鞄の中になかったのだ。


 ……朝は、この二度目の高校生活が夢ではないことに。他愛事に、気を取られていたから。


「どうかした?」


 後部席に座る、藍に問われた。


「別に」


 ぶっきらぼうに返事をし、僕は職員室に日本史の教科書を借りに向かった。 

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