懐かしの学び舎
幼げな藍。
見覚えのある制服姿の男女。
そして、教室。
ここがどこなのかはすぐにわかった。
だけど、理解しても理解出来ないことがあった。
それは一つや二つの話ではなかった。幾重にも折り重なった縫物のように、頑丈で、強固で、思わず目を奪われてしまうようなこの光景に、僕の思考は遂に停止した。
ここは、恐らく僕が通った高校だ。
電車通学に憧れ、中学時代までの友人と疎遠になっても良しと思って進んだ学び舎だった。
未だ混乱し停止する思考で、僕は現状を理解していた。
ただ、不思議に思わずにはいられない。
それは先ほどまでの事。
愛した人である藍と、一つ屋根の下で喧嘩をし、ふて寝をし始めた時の事が、未だ脳裏にあるからそう思わずにはいられなかったのだ。
何せ、藍と結婚を果たしたのは社会人になって三年が過ぎた頃。
その後、今日? もとい先ほどふて寝を敢行するまでに至ったのは、結婚から更に三年を要した。
大学生活四年を換算すると、つまり高校を卒業してもうまもなく十年が経過しようとしていたのだ。
それにしては校舎はかつて見た時から損傷具合だとか、劣化具合がまるで進んでいないように見えた。築十年の違いと言えば、賃貸で言えばグレードが一つ変わりそうなものなのに、大きな建物だから劣化の進みも遅いのだろうか。
いや、普通早くなるだろう。僕が在学していた頃も、この学校は体育館を改修工事していた。新体育館を使える新入生達を、かつては酷く羨ましく思ったものだ。
それに、だ。
そんなことよりも腑に落ちないことがあった。
見知ったクラスメイト。
幼い藍。
そして、僕の肌だ。
最近ではデスクワークで陽の光に当たる時間が減ったというのに……なんとこんがりと焼けた健康的な肌だろう。
額。
頬。
顎。
両腕に腹。
ようやくまともに稼働し始めた思考に基づき、怪訝に首を傾げる藍を他所に、僕は自分の体をペタペタと触った。
間違いない。
この状況に理解は追いつかないが、どうやら間違いではないらしい。
わ、若返ってる……!
夢でも見ている気分だった。
いや、むしろ丁度目を瞑った瞬間だったのだから、これは夢なのかもしれない。そうだ。これは夢だ。
そうだ。これは夢だ。夢に違いない。
最近疲労が溜まっているからなのか、寝ている時間を一瞬だと感じるようになった。だから唐突に夢を見たって、何もおかしくはないじゃないか。
ふう良かった。
これは夢。夢だったか。
当然だよな、こんなの昭和のトレンディードラマでもないと拝めない光景だもの。いや僕は、ドラマだとかそういうものはあまり見るたちではなかったのだが。
と、とにかく安心した!
ようやく安心した僕は大きなため息を吐いた。すると、頬に痛みが走った。
眼前には、藍の大きな瞳。
「痛いじゃないか」
僕は目を細めて、僕の頬を抓る人に苦言を呈した。
「人の話、ちゃんと聞いてないからでしょ」
「それは……まあ、ごめん」
「……わかればいいのよ」
藍が離した頬が、ヒリヒリと痛んだ。擦っていると、目から涙が零れた。昔から僕と言う人間は、痛みに弱い。
いや、痛みに強い人間ってなんだよ、と思うかもしれないが、これは事実。
今でも僕は注射は嫌いだし、健康診断で採血される度に薄く涙を零す。だから未だに献血は理由を付けて断っているし、それを藍にガキっぽいと文句を言われることもしばしば。
『武の分も、あたしが二倍血を抜かなきゃいけないじゃない』
夫婦になったある日、そう言えば藍はそんなとんでも理論を振りかざして僕に苦言を呈してきた。
思えばかつてはそう文句を言う藍に、僕の嫌がることを強要しない良い人だと思ったものだが、最近ではそれもただ言葉通り、苦言だと取るようになった気がする。単純に、そう言われる頻度が減ったからか……はたまた、倦怠期だったのか。
倦怠期、というワードは最近鬱憤を溜めていた藍に対する感情に置いて、妙に腑に落ちた気がした。
どれだけ燃え盛る炎も、長い年月をかければ消火されるもの。
火だけではない。それは恐らく、人の燃え盛る情熱だって変わらない。
好意的に受け止めていた何かが、ほんの些細な拍子で崩れた……いいや、本当の素性に気付いた、とでも言おうか。
他人の本性なんて、他人が知れるはずがないと良く言うが……藍とは長い付き合いだし、例外だろう。
「また余計なこと考えているでしょ」
「鋭いね、あ……坂本さん」
藍を旧姓で呼んだ時、背中に違和感による鳥肌が巡った。
その鳥肌の不快感に顔を歪めて、ふと気付いた。
僕の肌、ちと敏感すぎないか。
セクシャルなことではない。
頬の痛み。
鳥肌でピンと立つ背筋。
夢の中の感覚は、相場が鈍感なものと決まっている。それにしては随分と、感覚は明確だった。
「何よ、寝起きみたいな顔して」
「寝起き……?」
寝起きみたいな顔。寝て、夢から覚めて、起きた顔。
……もしかしてこれ、夢じゃないのか?
ツーッと冷たい汗が、額に伝った。感覚は研ぎ澄まされ、不快感が再び巡った。
「……変なの」
藍は訝し気な目で言った。
「保健室、行く?」
「え?」
「勘違いしないで。ただこのままクラスに病人がいると、気が散ると思っただけ」
サバサバした口調はいつも通りだ。
藍はいつだってそうだった。
言葉はいつも無関心を装う。だけどいつだって彼女は献身的だった。風邪を引けばいくら僕が大丈夫と言っても、
『あたしが移されたくないだけだから』
と言って、会社を休んで看病してくれた。
傘を忘れて出社した日には駅まで迎えに来てくれた。
『あなたが風邪引いたら、あたしに移るかもしれないでしょ』
確かその時も、似たような文句を言われた記憶があった。
思い出すだけで思わずほっこりする思い出だった。
藍と過ごしたあの時間は、まるで陽の光を精一杯浴びて背高く成長した草原の向日葵のように、僕に親しみと胸の温もりを与えてくれたものだ。
本当に、藍と過ごしたかつての時間は、忘れられないかけがえのない時間だった。
……ただ。
そんな愛した彼女が、少し冷たくなったように思えたのはいつ頃だったか。仕事が忙しくなった辺りを境に、その辺の記憶は曖昧だった。
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