倦怠期の妻と一緒にタイムスリップしたことを、僕はまだ知らない。
ミソネタ・ドザえもん
帰ってきた高校時代
燃え盛り鎮火したそれ
妻と出会ったのは、高校生の時だった。
電車通学にそれなりの憧れを持っていた僕は、親しい友達が多く進んだ最寄りの公立高校ではなく電車で三十分くらいの高校に進学した。
当然、初めて出会う人が多い環境下へ飛び込んでしまったため、幾ばくかの不安を僕は当時抱えていた。
そんな僕に真っ先に声をかけてくれたのが……まあ、妻ではなかった。
妻。
旧姓、坂本藍は、選民思想を持つ人だった。つまりはまあ、自分の好む人しか寄せ付けない人だった。
彼女が好んだ人は、言うなれば口数が少ない人。言うなれば一緒にいて苦でない人。言うなれば空気のような人。
そう、当時の彼女の友達と呼べる人は、空気しかいなかった。誇張でもなんでもなく。
故に、僕と妻が三十人近くいたクラスメイト内でいの一番に交友を深めただなんて、そんな眉唾ものの話、小説であったとしてもありえはしなかった。
「青山、あんた今日日直なんだけど」
藍との初めての会話は、思い出しても今の現状に結びつかないような、そんな面白みもないことだった。
日直の仕事を忘れ、いつもよりもむしろ少し遅い時間に着いた僕を、藍は叱責したのだ。
藍は、周囲に怖がられている人だった。
当時から子供とは思えないような、綺麗な顔立ちをした人だった。そして、他人に無遠慮に文句を言える精神性は、同学年の連中から見たら大人であり、畏怖する存在であったことだろう。
故に彼女は、周囲に怖がられ、ともあれその顔立ち故に注目を集めやすいという、矛盾を体現したような人であった。
知らない人しかいなかったものの、ようやく慣れ始めたクラスにて、妻より受けた叱責は。
僕の言葉を、奪った。
僕は、感情表現豊かではなくいつもしかめっ面をしているように見える藍に、何も言うことは出来なかった。
浮かぶ言葉浮かぶ言葉、全てを眼前にいる藍に吸い取られていくような。
言葉だけではない。
四肢の自由。
五臓六腑。
視線。
全てを奪われていた。奪われてしまっていた。
今思っても、あれが所謂一目惚れ、だというやつであることは明白であった。
だからそれから、僕は藍にずっとゾッコンだった。
どうやらそれはクラスメイトにとって周知の事実だったらしく、周囲は僕を冷やかしたり、心配したり、十人十色の反応を見せてくれた。
ただ、大多数が止めておけ、と僕に言ったことだけは未だ覚えている。
どれだけ顔が良くても、藍はかなり気難しい人だったから……だから、そこまで言ってくれたのだろう。
ただ僕は、それだけ言われようと藍への気持ちを捨てることはなかった。
藍のことを皆が偏屈だと言うのなら、僕も大概、同じくらい偏屈で頑固者だったのだ。
藍と僕が結ばれたのは、僕達が高校を卒業する最後の冬。
彼女と同じ大学に受かった拍子に、昂った気持ちが抑えられず僕は彼女に告白した。
「まあ、いいんじゃない?」
照れてそっぽを向いた藍の顔は、未だ忘れられない。
そして僕達は恋人という段階を経て、社会人になって三年になった頃に結婚した。
契機は、結婚してすぐだったような気がする。
この世知辛い世の中、一人で彼女を養うような甲斐性は僕にはなく、僕達は共働きで生計を成していた。
終わらない仕事。
かつてに比べて減ってしまった藍との時間。
純愛まっしぐらだった僕達の恋愛模様は、時間と共に姿かたちを変えていったのだ。
倦怠期。
一言で言えば、まさしくそれ。
些細なことで藍は怒るようになった。
「仕事仕事って、そんなに忙しいなら辞めればいいじゃない」
「お父さんに相談したら、武一人くらいお父さんの会社で雇ってやるって言ってるって言ってるでしょ」
「お父さんの会社は零細ではないし福利厚生もしっかりしているって言ってるでしょ」
「お父さん好待遇で迎え入れるって言ってるでしょっ!」
ずっと我慢出来ていた藍の怒声に、遂に怒ってしまったのは先程のことだった。
そのまま、藍と話したくなくて寝室へと僕は向かった。
嗚呼、どうしてこうなってしまったのか。
かつてはあれほど燃え上がった熱情も、今となれば全て後悔へと繋がっている。
いつか、周囲に心配された。確か、高校の時の話だ。
藍へ抱いた筒抜けな感情を、僕はクラスメイトに心配されたのだ。
「彼女と結婚しなければ良かったのだろうか……」
当時心配されたことを思い出し、思わず口から漏れた。
小さな疑念は、まるで徐々に領土を広げ拡大していく暗黒宇宙のように僕の精神を蝕んでいった。
もう一度、人生をやり直したい。
藍との関係云々だけではない。
今の辛い現状。
今となれば眩いかつての記憶。
遂、僕は魔が差してしまったのだ。
目を閉じた。
そして、喧騒とした周囲に気付き、目を開けた。
夢でも、見ているのだろうか。
懐かしい光景だった。
ワックスが塗られたばかりの机。
木製の、少し硬い椅子。
そして、上履きと床が擦れる音。
「青山」
その声に、僕の心臓は鷲掴みにされた。
顔をあげた先にいたのは、さっき話したくないと思った人。
さっき、喧嘩別れした人。
「……藍」
しかし、さっき喧嘩をした彼女よりも、眼前にいる藍は……幼げだった。
「あんた、今日日直なんだけど」
四肢の自由。
五臓六腑。
視線。
そして、言葉。
僕は再び、藍に全てを奪われていた。
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