友達いたの?

「何一人で物憂げな顔してるのよ」


「いてて……」


 両頬に、再び痛みが走った。

 痛みを与える主は、またも幼げな藍。今も昔も変わらないしかめっ面は、彼女の不覚を知らない人にはただ彼女が怒っているだけに見えることだろう。


 しかし、今や彼女の性格も、表面性も、背中のほくろの数さえ知っている僕にとっては、彼女が別に怒っているわけではないことは……明白と思ったが、そうでもない気がしてきた。


 結婚して三年。

 燃え盛る感情のまま、彼女の一挙手一投足全てを好意的に解釈してきた。しかし最近、疑心暗鬼と言うか、とにかく藍の気持ちが僕が思っていた通りなのかどうなのか、それがすっかりわからなくなっていた。

 いやそもそも、人の気持ちなんてわからなくて当然で、それをわかっていると思っていたこと自体自惚れなのだろうが……藍を愛したからこそ、僕は自惚れてしまったのだろう。


 虚ろな瞳でぼうっとしていると、再び頬が痛くなった。


「いたい……」


「話、聞きなさいよ」


「ごめん」


 うん、間違いない。

 これは怒、だ。怒っている。怒っていなきゃ、こんなにも強い力で頬を抓らないだろう。高校生活で藍にアプローチした回数は数知れないが、こんなにも痛いのは初めて。


「日直のお仕事、なんで忘れたのよ」


 そう言いながら、藍は僕の頬を離した。


「ごめん。寝坊」


 何せ、十年分時間が遡るくらいの事態に見舞われている。最早大学生活、社会人生活、そして藍との生活全てが夢だったのではないかと思う始末だ。


「ちょっとたるんでるんじゃないの」


「ごめん」


「謝るくらいなら、最初からしないようにしなさいよ」


「返す言葉もない」


「まったく」


 藍は不服そうに腕を組んでいた。


「そ……そんなんじゃ、誰か目覚まし係がいるんじゃないのっ」


 藍はそう言って、照れながらそっぽを向いた。


 ……かつてなら。


 彼女のこの言葉、あたしが毎朝起こしてあげるから携帯番号教えなさい。くらいに受け取って舞い上がったのだが……藍と関わる時間が長くなり、どうも彼女の言葉を字面通りに受け取れなかった。

 ああ、いや……字面通りに受け取ったから舞い上がらないのか?

 わからん。


 目覚まし係を買ってくれそうな人はいないのか。

 藍の真意。


 それを考えるように僕は腕を組んで唸った。


「……あたし、携帯買い換えたんだ」


 藍がしばらく無言の僕に言った。字面通りなら、アドレス交換の誘いだろう。いや、字面通りならただの携帯変更の報告か。

 わからん。


「まだ全然、友達とアドレス登録してないの」


「え。アドレス登録するような友達、いたの?」


 思わず口から漏れた。慌てて僕は口を塞いだ。


 藍は、わかりやすく頬を膨らませていた。今にも割れそうな風船を思わせるくらい、ぷくーっと。


 弁明の余地はない。

 あるのはただ、一度は彼女と三年間学生生活を送った事実に基づいた感想のみ。


 選民主義。言い換えればツンデレの彼女に、友達らしい人の影はかつて一度も見たことはなかった。


「もういい」


「あ」


 藍が自席に戻っていった。僕はそれを、ただ見送った。


 しばらくぽかんと口を半開きにしていて、気付いた。


 さっきまで喧騒としていた教室が、気付けば静かになっていたのだ。


「武」


「……ん? おお、もしかして平良君か」


 最期に会ったのはいつだったか。朧気な記憶の中の彼よりも幾ばくか若い平良君が、野次馬のような好奇な瞳を見せながら僕に近寄っていた。


「もしかしてって……何、記憶喪失にでもなった?」


 僕にとって平良君との再会は数年ぶり。

 でも思えば、平良君から見て僕との再会は昨日ぶり。そりゃあこんな反応されるわ。


「あ、えぇと……そうそう。記憶喪失になったんだ。今戻った」


「都合の良い頭だな」


「返す言葉もない」


 適当な会話に、高校時代の調子が蘇ってきた気がした。


「それよりさ。なんだよ」


「何がなんだよ?」


「いつの間に坂本さんと仲良くなったんだよ」


 坂本……ああ、藍か。

 藍といつの間に仲良くなった、か。


 そりゃあ、かれこれ十年来の付き合いだし、仲良くなるのも当然だ。最近は色々わからなくなってきていたが。


 っと、それは平良君には言えないな。また馬鹿なこと言ってると白い目をされるだろうし。


 ……って言うか。


「え、あれ仲良さそうに見えた?」


 ただ頬を抓られ、苦言を呈されただけだと思うのだが。


 ……ただ、待てよ?


 確かにそうだ。

 すっかり忘れていたが、高校時代の僕と藍は、卒業間近に交際を始めるまで、好意のベクトルは僕の一方通行だった。選民主義な彼女に好意を向けられないイコール腹を割った会話をする機会にも恵まれることはなかった。


 たださっきの会話。

 確かに高校時代の藍としたかつての会話よりかは、建設的と言うか、世間話的だったと言うか。


 とにかく壁のない会話だった気がする。


 ま、まさか……。






 思わず壁を失くした会話をする気になるくらい、僕は彼女に嫌われたと言うことなのか……!




 だってそうだ。

 彼女のこと、僕は良く知っている。そりゃあ現状疑心暗鬼な部分もあるが、少なくともこの平良君よりは詳しい。


 その僕を以てして、藍の特徴をあげると言うのなら。


 可愛い。

 しっかり者。

 スタイルが良い。


 そして、仲良い人以外との会話を極端に嫌う、なのだ。


 高校時代の僕と藍の関係は、冷え切ったものだった。

 それなのにあんな壁のない会話。

 そんなの嫌いな人を拒絶する意図以外あるわけないじゃないか。


 それこそ、僕同様、実は藍も若返っているとかそんな話でもない限り、そうとしか思えない。




 ……凹む。




 ただ。

 ただ、これで良かったのかもしれない。


 高校生活から十年。

 酸いも甘いも藍と共に経験してきた。


 そして、どういうわけか再びの高校生活。


 これは夢なのか現実なのか。結局定かではない。

 でも、もしこれが現実だと言うのなら、もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない。


 失敗を成功にさせる、チャンスなのかもしれない。




 いや、これは酷い言い方か。

 これではまるで、藍との十年が失敗だったみたいだ。


 ……藍と育んだ十年は、成功だったのだろうか。それとも、失敗だったのだろうか。




 成功だとかつては思っていた。即答だって出来た。


 しかし十年経ったあの日、かつてと同じように藍との人生を成功だったと即答することを、果たして僕は出来るだろうか。


 一生を添い遂げる。

 そんな覚悟を誓った彼女に、今の僕のこの想いは、最低なことこの上ないだろう。

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