第36話 隊長命令

 このミラベルという人が何者なのか、確証があったわけじゃない。だが予想する材料ならいくつかあった。

 そもそも触れられるのも嫌なくらい女性が苦手なヒューゴと関わりがあるという時点で希だし、それでいて交渉材料に使えるくらいに親しい人となると、最初はまるで思いつかなかった。


 だが、必ずしも親しい間柄でなくてもかまわない。良くも悪くも、その名を出せばヒューゴは動揺せずにはいられない。そんな人物が、一人だけ思い浮かんだ。

それが、ヒューゴの母親だ。


 そしてロイドは、彼女とヒューゴの事情を知っている。だからこそ夜会の時その名を出してヒューゴの動揺を誘ったのだ。

 ならばここで、またそれを利用したとしても不思議じゃない。

 どうにかして居場所を突き止め、ここまで連れてきた。それが、クリスの立てた予想だった。


 相変わらず、ミラベルは何も答えない。だが今までにないくらい狼狽えていて、この予想が真実であると、言外に伝えているかのようであった。

 だからこそもう一度、今度はよりハッキリと言い放つ。


「ミラベルさん。あなたは、ヒューゴ様のお母さんですね」

「違う────!」


 ようやく返ってきた声は、まるで悲鳴をあげているようだった。


「あんなの、ただ産んだだけ。もうとっくの昔に売った子じゃない。なのに今さら親子だなんて言われて、どうしろっていうの!」


 違うと言いながら、ようやく認めてくれた。ヒューゴは自分の産んだ子なのだと。

 だが同時に、売ったという言葉が、ズキリと胸に突き刺さる。

 話には聞いていた。この人が、お金のためにヒューゴの父親の愛人になったことを。その人が亡くなった後、ヒューゴをアスターの家に引き渡し、その見返りとして大金を得たことを。

 ロイドも、それにヒューゴ自身も、その出来事を、親に売られたと言っていた。だが当の本人の口からそれを聞くと、これまでにない嫌な気持ちが広がっていく。


「ヒューゴ様を手放したこと、後悔はしてないんですか?」

「後悔? するわけないじゃない。だって元々お金のために産んだ子よ。向こうだって、私のことなんてもう親とも思ってないんじゃないの。もしかすると、恨んでいるかもね」

「そんな……」


 自分で聞いておきながら、耳を塞ぎたくなる。それでヒューゴがどれだけ苦しい思いをしてきたのか、言って聞かせたくなる。


 なのにそうしなかったのは、この場においては彼女も被害者だからだ。無理やり誘拐されてただでさえ不安だろうに、さらに追い込むようなまねをするわけにはいかない。

 そんな思いが、出かかった言葉を辛うじて押し留める。


 しかし彼女は、そもそも自分がここに連れてこられたことに納得がいってないようだ。


「それなのに、いきなりこんなところに連れてきて、交渉材料にしようとする? バカじゃないの。そんなの、うまくいくわけないじゃない!」


 吐き捨てるように言い放つ。

 確かに、ヒューゴが彼女のことを今でも母親として大事に想っているかと言われると疑問だ。ロイドも、ヒューゴに関わりのあるというだけで、とりあえず拐ってきただけなのかもしれない。


 だが、本当にそうなのだろうか。

 抱く感情が何であれ、ヒューゴにとって彼女がとても大きな存在であるのは間違いない。


 でなければ夜会の時、名前を出されただけであそこまで動揺することはない。ヒューゴが異様なまでに女性が苦手なのも、元を辿ればこの人が原因だろうと言っていた。


 そんなのがいきなり出てきたら、きっと冷静ではいられない。そして人は、冷静さを失った時、最も隙を作るものだ。

 ヒューゴに揺さぶりをかけることがロイドの狙いなのだとしたら、偽の恋人である自分なんかより、よほど役に立つかもしれない。


 そうクリスは思ったが、ミラベルはそんな議論をする気もないようだ。


「やめましょう。こんなこと話したって、ここから出られるわけじゃない。あいつらの気分次第で、殺される時はあっさり殺されるんでしょ。だったら何をしたって無駄よ」


 そこまで言ったところで、これ以上話す気はないというように、背中を向けて座り込む。

 投げやりなその様子は、もうすっかり諦めているようだった。


 確かに、ヒューゴが自分達を助けてくれるかなんてわからないし、そもそも生きている可能性すら低いというのが現実だ。正直なところ、クリスだって心が折れそうになる。

 それでも、背中を向けたままのミラベル向かって言う。


「私は、諦めませんから。絶対、助かるんだって信じます」


 それを聞いても、ミラベルは振り向きもしなかった。だが背中を向けたまま、ポツリと呟く。


「どうしてこの状況でそんなことが言えるのよ」

「ヒューゴ様に言われたからです。何があっても諦めるな。決して心折れるな。総隊長命令だって」


 山道で賊に襲われ、逃げることも叶わない中、それでもヒューゴはそう言ってくれた。

 自分自身は既に無数の手傷を負い、クリス以上に絶望的な状況だったというのに、最後まで励ますのをやめなかった。


 それを、ただの強がりと言うのは簡単だ。だがそれなら、自分もヒューゴのように、最後まで強がっていたかった。


「なによ、それ」


 ミラベルは呆れたように言う。だがクリスにとって、諦めない理由なんてのは、それで十分だった。


(もっとも、私はもう隊員じゃないんですけどね)


 しかも、クビにしたのはヒューゴ本人だ。

 そんなことも忘れて言ったのならば、色々物申したくもなる。


(だけどまあ、総隊長命令なら従うしかないかな。その命令、確かに聞き届けました)


 こんなことを思うあたり、まだ全然隊員気質が抜けていないのだろう。だが今は、その方がいい。


 今どこにいるのか。そもそも生きているのかどうかもわからぬヒューゴに向けて、改めて誓う。


 何があっても、絶対に諦めないということを。

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