第37話 悪魔の小瓶

「……九八……九九……百!」


 目標回数である百に到達したところで、クリスは続けていた腕立て伏せをやめる。その様子を、部屋の外にいる見張りの男はポカンとしながら見つめていた。


「お前、こんなところ飽きもせずによくやるな。これで何日目だ?」


 クリスが、このほとんど牢屋と言っていいような部屋に閉じ込められてから、数日が過ぎた。


 その間、今やっていたような腕立て伏せをはじめとするトレーニングは、毎日続けている。

 見張りの男は、当初クリスがいつこの状況に絶望するのかを、楽しみに待っているようだった。だが毎日この様子を見続けた今では、もうすっかり呆れ返っているようだ。


「こんなところだから、少しでも何かしないと体が鈍るでしょ。出られた時、動けなくなったら困るもの」

「出られた時、か。おめでたい奴だな。そっちの奴みたいに、少しは大人しくできねーのか」


 そう言って男が指差したのは、ミラベルだ。彼女も、クリスと同じくずっとこの部屋に閉じ込められているが、ほぼ座っているか寝転がったまま。

 四六時中一緒にいるというのに、クリスとの会話もほとんどない。それが、この状況に諦めているためか、それともヒューゴのことに対する気まずさからかはわからない。


 というわけで、クリスがこの数日最も話をしているのは、この見張りの男だったりする。

 もっとも、だからといって仲良くなるなんてことは一切ない。


「言っとくが、逃げ出そうなんて思ってもムダだぞ。それに、助けが来るのも無理だな。警備隊の奴らはロイドの旦那の指示で見当違いのところを探しているし、あんたの恋人の総隊長殿も見つかってない。あれからずいぶんたったし、もうとっくに死んでるんじゃないのか」


 ヒューゴが死んでるかもしれない。それを聞いて、ズキリと胸が痛む。それでも、そんな不安を必死で押さえ込む。


「まだ見つかっていないのなら、どうなっているかなんてわからないでしょ」


 嫌がらせか、この男からこういうことを言われたのは、今回がはじめてじゃない。

 それでもクリスが男と話をするのは、少しでも外の情報が欲しいからだ。

 情報を知ったところで、何かできるというわけではないかもしれない。だが何かやっておかないと、それこそ心が潰れてしまう。日々体を動かしてるのだって、そうすることで気を紛らわす目的もあった。


 しかし男の言うように、ヒューゴは本当に死んだのだろうか。死体が見つかってない以上答えは出ないが、あれからもう何日も経っている。もしも生きているのなら、とっくに警備隊なりどこかの病院なりに姿を現していておかしくない。


 ロイドも、ヒューゴの行方そのものは気がかりだろうし、その辺はしっかり捜査しているだろうか。

 できればもっと詳しく知りたいが、そのロイドはというと、クリスがここで目を覚ました日に会って以来、一度もやって来てはいない。


 しかし幸か不幸か、この日は違った。部屋の外がにわかに騒がしくなったと思ったら、扉の窓から、今最も憎たらしい顔が覗き込んできた。

 ロイドだ。それに周りには、この家の主である商人や、盗賊達もいる。


「久しぶりだな。気分はどうかね?」


 いいわけがない。そんな思いを込めて睨み付けるが、ロイドはそれが愉快でたまらないといったように薄ら笑いを浮かべていた。


「ヒューゴ様はまだ見つからないの?」

「ああ。隊員達が必死で捜索しているが、残念ながら手がかりすら掴めていないよ。何も知らずに私の指示に従う奴らを見るのは滑稽だが、こうも進展がないと私も困ってね。早く死体を見つけて、捜査を次の段階に進めたいものだよ」

「──っ! そうですね。ヒューゴ様が生きていたら、あなたの企みも全部暴かれてしまうかもしれませんから、何としても見つけたいでしょうね」


 いちいち神経を逆撫でしてくるロイドに、せめてもの反撃にと思い、言ってやる。

 それでも、ロイドの余裕な態度は変わらない。


「言っておくが、かなりの傷を負った状態でこれだけの間見つかっていないんだ。生存は絶望的だよ。そうなると、もはや君達を生かしておく理由もないわけだ」

「なっ──!」


 ロイドがクリスやミラベルを拐い、ここに閉じ込めているのは、ヒューゴが生きていた時を考えてのことだ。もしもヒューゴが死んでいたら、あるいはロイドがそう判断したら、自分達をどうするつもりなのだろうか。


「私達を殺すつもり?」


 捕まってから、いつかそういう時がくるのは覚悟していた。そのいつかが、今だというのか。

 だがロイドは、実に意外なことを言い出した。


「いや。万が一ということもあるからな。もう少しの間、殺すのは待っておくとしよう。それにだ、このまま殺してしまうのは、さすがに哀れだからね。少しは楽しい思いをさせてやろうじゃないか」

「…………は?」


 おそらくここに来て以来、最も間の抜けた声を出しただろう。まさかロイドの口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。

 しかし、すぐに警戒心が溢れ出す。楽しい思いをさせるなんてのを、言葉通りに受けとっていいとは到底思えなかった。


「何をする気なの?」


 嫌な予感がしつつも、訪ねずにはいられない。するとロイドの側にいた商人が、彼に小さな小瓶を手渡した。


「これがなんだかわかるか? 精製したホムラを水で溶かしたものだよ。これだけでも、かなり値がはる高級品だ」


 数ある麻薬の中でも、最も高値がつくもののひとつであるホムラは、高級品といえばそうなのだろう。だがいくら価値があろうと、所詮は麻薬。クリスにとっては取り締まる対象であり、何の魅力も感じない。


 だがこの状況でわざわざそれを見せてきたのだ。これから何をするつもりなのか、悪い想像が広がっていく。


「あなた、まさかそれを……」

「察しがついたようだな。そう。今からこれを、君達に飲ませよう。そうすれば、天にも上るような快楽が味わえるぞ」

「──っ!」


 冗談じゃない。そんなもの、飲めるわけがない。

 しかし、ロイド達がそんなことを聞き入れてくれるはずもない。扉の鍵が開けられると、何人もの男達が入ってきて、クリスとミラベルの二人を無理やり外へと連れ出そうとする。


「離せ! 離して!」


 もちろんクリスも抵抗するが、あまりにも数が違いすぎる。あっという間に四方から取り押さえられてしまった。

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