性別を隠して警備隊に入ったのがバレたら、女嫌いの総隊長の偽恋人になりました

第32話 何があっても諦めるな！

　自分達だけで逃げる。そう決意したクリスは、御者に問いかける。

「今の話、聞いてましたね。走れそうですか？」

「は……はい。なんとか」

「大丈夫。きっと、逃げ切れますよ」

　御者の声は震えていて、どれだけまともに走れるかはわからない。大丈夫と言ったのも、なんの根拠もないただの気休めだ。それでも、やるしかないのだ。

　右手に剣を。そして、左手に御者の手をとって、準備は完了。ヒューゴはそれを確認すると、一言だけ告げる。

「頼んだぞ！」

　それからは、返事も聞かずに賊の元へと突っ込んでいく。

「はぁぁぁぁっ！」

　まずは、力任せに剣を振るう。相手も剣を使ってそれを受け止めるが、力任せに押さえ込み、地面に押し倒す。

　慌てて他の賊が止めに入ろうとするが、ヒューゴもすぐさまそれに反応し、近づいてくる奴らに向かって、剣を振り回す。

　クリス達を逃がすため、少しでも多くの敵を引き付けようと、あわよくば倒そうと、必死になって立ち回る。

　賊達も、その様子に危険なものを感じたのだろう。

　誰もがヒューゴに注目し、一瞬クリス達から目が反れる。

　その時を待っていた。

「今です！」

　賊の少ないところをめがけて、御者と共に走り出す。さすがにすぐ気づかれるが、だからといってスピードを緩める気はない。むしろどんどん加速させる。

「やぁぁぁっ！」

　行く手を阻む相手に向かって、渾身の力で剣を打ち付ける。その一撃は相手を倒しはしなかったものの、怯ませるには十分だ。その隙に、クリスのすぐ後ろを走っていた御者が、一気に側を駆け抜ける。

「あっ──待て！」

　賊が怒声を飛ばすが、もちろんそんなもの聞きはしない。むしろ御者に気をとられたのは、クリスにとってはチャンスだ。剣での押し合いを続けながら、注意が疎かになっていた足下に蹴りを放つ。

「ぐわっ！」

　叫びながら、崩れ落ちるように膝をつく。このまま追撃を与えれば、戦闘不能にさせることも可能かもしれない。だがクリスは、すぐさま御者の後を追うように再び走り出す。これ以上こいつに構っていると、他の奴らがやってくるのは明らかだ。

　事実、走るクリスのすぐ後ろには、早くも数人の賊が迫ってきていた。

（急がないと！）

　もしもここで追い付かれたら、逃げるどころかまともに戦うことすらできずにやられてしまうかもしれない。

　そんなことにならないよう、精一杯足を動かし、ひたすらに走る。

　だがそれは、無情な結果に終わることとなる。

　今のクリスの格好は、丈の長いスカート姿。元々走るのには適してない服であり、クリス自身、未だそのような格好に慣れているとは言い難かった。そんな状態で、全力で走ればどうなるか。

　生地が足へと絡みつき、僅かに速度が落ちる。だがその僅かな違いが焦りを生み、気がついた時には大きく足がもつれていた。

（しまった！）

　体勢を立て直そうとしたが、もう遅い。なんとか踏ん張り、転倒するような事態にはならなかったが、命がけの逃走においてこの失敗はあまりにも致命的だった。

　追ってきた賊が、瞬く間に周りを取り囲む。

　道の先で、異変に気づいた御者が、こちらを振り返るのが見えた。それに向かって全力で叫ぶ。

「あなたは逃げて！　早く！」

　せめて彼だけでも逃がしておきたい。それに言っては悪いが、もしもここで戻ってきたとしても、足手まといが増えるだけだ。あらゆる意味で、彼にはこのまま走り抜けてくれなければ困る。

　クリスの思惑をどこまで理解してくれたのかはわからないが、その言葉を聞いた御者は、ほんの少しだけ躊躇ったものの、すぐに道のり向こうに走り出していく。

　幸いだったのは、賊がクリスに集中したおかげで、御者を追いかける者がほとんどいなかったことだ。これなら、彼は逃げきれるかもしれない。

　だがその分、クリスが逃げるのはより困難になる。

「くっ──！」

　取り囲む賊を蹴散らそうと剣を振るが、そう何度も上手くいくはずもない。受け止められたところを、後ろにいた別の賊の刃が襲ってくる。

　なんとかそれをギリギリで避けるが、続けざまに、別の方向から思い切り殴りつけられる。

　今度は、避けきれなかった。

「くぅっ！」

　短い悲鳴をあげ、クリスの体が大きく揺れる。

　なんとか、倒れはしなかった。殴られたのは肩であり、顔や腹といった急所と比べると、まだマシだったかもしれない。だが、ダメージにはなる。

（痛い……）

　殴られた肩が、熱を持ったようにジンジンと痛む。反対に、体全体は水でもかぶったようにブルリと震えた。

　怖いのだ。

　いくら元警備隊員で、厳しい実戦を潜り抜けてきたといっても、決して戦いへの恐怖がない訳じゃない。もしもやられたら、ケガをしたら、捕まったら。そんな恐怖は、常にある。

　さっきまでは気を強く持つことでそれを押さえてはいたが、逃げられる可能性がほとんど潰えたこの状況は、そんな心を挫くのには十分だった。

「あぁっ！」

　また、襲ってきた相手の剣を受け止めるが、痛みで力が入らず、握っていた剣が弾き飛ばされた。

　確実に、敗北が近づいてきている。

　だがその時、遠くからヒューゴの声が響いた。

「クリスーっ！」

　見ると、ヒューゴはそれまで戦ってた敵を強引に切り抜け、一直線にこちらに向かって駆けてくる。

「総隊長！」

　ヒューゴはそのまま、クリスを囲んでいた奴らも力任せに突破したかと思うと、彼女を守るように隣に立つ。

「しっかりしろ！　心が折れたら、勝つことも生き残ることもできんぞ」

「でも……」

　このままだと、どのみち勝つことなどできないのではないか。思わずそんな言葉が出そうになるが、ヒューゴはそれを許しはしなかった。

「弱音を吐いてなんとかなると思うなら、いくらでも吐け。だが、そうじゃないだろ！」

　こんな時でも、ヒューゴのかける言葉は、苛烈で厳しい。いや、こんな時だからだろうか。

　だが彼の様子を伺い、気づく。身に纏っている衣服が、赤く染まっていることに。

「もしかして、ケガを？」

　いったいいつの間に。一瞬そう思ったが、すぐに思い出す。

　ヒューゴは、かなり強引なやり方でここまで駆けつけてきた。そんな無茶なことをして、無傷でいられるわけがなかったのだ。

「総隊長……」

　どうしてそんな無茶をしてまでここに来たのか。その疑問に、ヒューゴが答えることはなかった。

　ただ今までと同じように、叱咤を、そして鼓舞を続ける。

「言っておくが、俺は諦めるつもりはない。だからクリス、お前も諦めるな。本気で生き残りたいなら、最後まで、自分に何ができるか考え抜け！」

　そこまで言ったところで、ヒューゴは再び、賊相手に立ち向かっていく。

　傷を負い、戦力差は絶望的。なのに少しも臆することなく、むしろその戦いぶりは、これまで以上に激しく勇猛だ。

　そしてそれは、クリスにも再び奮い立つための力をくれた。

「やぁーっ！」

　クリスもまたヒューゴの隣に並ぶ。ヒューゴにばかり気をとられていた相手を投げ飛ばし、地面に叩きつける。

　賊も、二人のここまでの奮闘は予想外だったのだろう。ほんの一瞬恐怖心が芽生え、その隙をついてさらに数人を薙ぎ倒す。

　今や数の不利など関係なく、二人の方が優勢。そうんな風にすら思えてくる。

　しかしそんな思いは、あっという間に終わりを迎える。

　ヒューゴめがけて飛んできた一本の矢が、全てを変えた。

「くっ……！」

　気がついた時には、腕に突き刺さっていた。

　目の前の敵に集中しすぎて、反応が遅れたのだろう。急所にこそ外れたものの、その拍子に剣を落としてしまう。

　むろん、賊達がそれを見逃すはずがない。それまで距離をとっていた奴らが、ここぞとばかりに一気に押し寄せてくる。

「総隊長ーっ！」

　クリスも助けに入ろうとするが、あまりにもそれに気をとられすぎた。

　突如衝撃が走り、次の瞬間には地面に転がる。後ろから頭を殴られたのだと気づいた時には、何人もに上から伸し掛かられ、身動きがとれなくなる。

「この……離せ！」

　なんとか体を起こそうと暴れるが、男数人に押さえられては、単純な力で敵うはずもなく、まともに身動きできなくなる。

　そんな中、ヒューゴの声が耳に届いた。

「いいかクリス。何があっても諦めるな！　決して心折れるな！　総隊長命令だ！」

　こんな時だというのに、まだ諦めるのを許してはくれない。

　矢が刺さりながら、何人もに取り囲まれながら、彼はいったいどんな思いでこれを言っているのだろう。

　だが、それ以上彼の言葉を聞くことはできなかった。

　力を振り絞り、僅かに体を持ち上げると、ヒューゴが敵の一人に殴り飛ばされ、その体が大きく揺れるのが見えた。

　よろけた体は山道から大きく外れ、脇にある急な斜面へと差し掛かり、そして、落ちていく。

「総隊長ーーーーっ！」

　これまでにない絶叫が、山道にこだまする。しかし、それも長くは続かなかった。

　再び頭を殴られ、目の前が真っ暗になる。覚えているのはそこまでだ。

　ヒューゴがどうなったのか。それを見届けることのないまま、クリスの意識は完全に途絶えた。