第19話 特訓の成果を見せる時
それにしても──訪ねて来る人や、広間に集まった人達を見て、クリスはある違和感を覚える。
本来いなければおかしい人物の姿が、どこにもないのだ。
やって来る人が途切れたところで、そっとヒューゴに囁く。
「あの、ヒューゴ様のお爺様は、アスター辺境伯はいらっしゃらないのですか? 挨拶に行かなくて大丈夫でしょうか?」
この夜会の主催者である、アスター辺境伯。そして、ヒューゴにとっては、祖父にあたる人物だ。
ヒューゴの恋人という設定であるクリスとしては、この館についてすぐにでも挨拶にいかなければならないような相手なのだが、未だその姿すら見ていない。
「お爺様は、一応は主催者と言うことになっているが、実際に取り仕切っているのは他の親戚達だからな。むしろ本人は、最近こういう場にはあまり顔を出さなくなってきている。場合によっては、夜会の後、改めて挨拶に行くことになるかもしれん。その時は、よろしく頼む」
「はい、わかりました」
どうやら夜会が終わっても、クリスの務めはもう少し続くらしい。
気が滅入るが、今はそれを気にしている場合ではない。まずは、目の前のことに集中しなければ。
これまでクリスは、ほとんどにこやかに笑っているだけでなんとかなっていた。だが間も無く、そればかりではいられなくなる。
そう思ったその時、柔らかな音楽が聞こえてきた。待機していた楽団の演奏が始まったのだ。
そしてそれは、ダンスの始まりを意味する。
演奏が始まると同時に、既に示し合わせていたであろう何組かが、このために用意された、広間の中央の空間へと集まっていく。
「少ししたら、俺達も混ざるぞ。お前という恋人がいるということを、ここにいる全員に教えてやるんだ」
「はい」
いよいよかと、思わず手に力が入る。
クリスは最初、こういった社交の場でダンスが必須だと聞いた時、なぜそこまで重要視されるのかわからなかった。
しかし元々社交界というのは、貴族同士が新たなコネクションを作る場だ。そして、自分達がいかに親密であるかを、他の者に伝える場でもある。そこで、大きな役割を持つようになったのがダンスだった。
ダンスという共通の興味対象があることで、話をするためのきっかけを作るための口実を作りやすくなる。
そして大勢が見守る中で踊るというのは、二人に繋がりがあるのだという事実を、時として言葉で語るよりも、見ている者に強く伝えることになる。
故に、貴族の紳士淑女にとっては、ダンスは単なる趣味にはとどまらない、社交のための大事な技術となっている。
そんな舞台に、自分も立つのだ。
「クリス、手を」
ヒューゴの差し出した手をつかみ、広間の中央に向かって歩き出す。一歩踏み出すことに、これまで感じていた視線が、より一層強くなるのがわかった。
誰もが、自分達に注目する中、ゆっくりとステップを踏み始める。
(大丈夫。練習通りにやればいいだけだから)
ここで大きな失敗をしたら、自分だけでなくヒューゴにまで恥をかかせてしまう。
不安と緊張が胸の中で大きくなるが、不思議と、それで動きが悪くなるということはなかった。むしろ体が勝手に動いているかのように、幾度となく練習した動きを、完全に再現している。
何度も失敗し、直前になってようやく形になったダンスではあるが、その積み重ねは、しっかりと体に染み付いていた。
いける。そう思ったとたん、一気に気持ち軽くなる。今までの頑張りが報われるこの時間が、心地よいとさえ感じた。
奏でられた曲も、いよいよ終盤だ。最後のターンを決め、ヒューゴの腕に抱かれると同時に、演奏が終わる。
(私、うまくできましたよね?)
ヒューゴにそう聞きたくなるが、ここで下手なことを言ってしまっては、全てが台無しになってしまう。ぐっと言葉を飲み込むが、拍手を送る人達に向かって一礼をしたその時、他の誰にも聞こえないくらいの小さな声で、ヒューゴが囁いた。
「よくやってくれた」
思わずヒューゴを見るが、彼は何事もなかったように、素知らぬ顔をしている。多分、もう一度言ってくれと頼んでも、二度と言ってはくれないだろう。
だがその小さく一度きりの一言が、クリスにとっては、とても心地よく思えた。
そうして二人は、広間の端の方へと下がっていく。
だがその時、とうに鳴り止んだはずの拍手が、広間に響いた。そしてその送り主である、一人の男が姿を現す。
「素晴らしいダンスを見せてくれてありがとう。ヒューゴ、君の恋人、ぜひ私にも紹介してはくれないか」
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