第10話 これでお前は、俺の恋人だ

 元々、嫌な予感はしていた。だからこそ、それを受け入れたくなくて、何も気づいていないふりをした。


 しかし、ヒューゴから告げられた言葉が、そんな必死の現実逃避を全て無に返していた。


「一応言っておくが、恋人といっても、本当にそうなってくれってわけではないぞ。ただ、見合いを断るための口実として、そのふりをしてほしいというだけだ。できることなら、結婚の約束をしている程度の設定が望ましいな」

「いちいち説明されなくてもわかります! わかった上で無理だと言ってるんです!」


 再度告げられた言葉を、またも全力で拒否する。


「恋人のふりなんて、そんなのできるわけないじゃないですか。私、今まで恋のひとつもしたことないんですよ」


 自慢ではないが、本当に自慢にもならないが、クリスにはまともな恋愛経験など皆無だった。

 にもかかわらず恋人のふりをしろなど言われても、どうすればいいのかわからない。

 しかもその相手は、昨日まで自分を男だと思っていて、さらに尋常でない女嫌い。あまりに無茶苦茶で、まるで悪い冗談だ。


 いや、冗談ならまだマシかもしれない。本気だから質が悪いのだ。


「その点については俺も不安がある。だがそれを考慮しても、断る具体的な理由があるというのは心強い。試してみる価値は十分にある」

「ありません。って言うか、たとえ価値があったとしてもやりません!」


 こんな異常なアイディアを実行しようとしているあたり、ヒューゴもかなり追い込まれているのかもしれない。

 それでも、できないものはできない。そう言おうとしたが、そこでヒューゴは、一転して憂いを帯びた表情へと変わり、頭を下げる。


「頼む。力を貸してはくれないか」

「そ、それは……」


 頭を下げたところで、言ってることは今までと何も変わらない。しかしその様子を見たクリスは、思わずたじろがずにはいられなかった。


(ヒューゴ隊長。その顔の作りと表情で頭を下げられたら、すっごく申し訳ない気持ちになるんですけど!)


 いつも近くにいたため意識することも少なくなっていたが、ヒューゴは相当な美形であり、クリスも初めて見た時は思わず見とれたほどだ。

 それがこんな憂い顔で頭を下げてきたものだから、まるで舞台の中の一場面のように様になっていた。


 だからだろうか。なんだか、なんとも言えない罪悪感が湧いてくる。それに、胸の奥が妙にうるさくなってくる。


「俺の恋人になってくれ。俺にはお前が必要だ。お前じゃなきゃ、ダメなんだ」

「ふぇっ! で、でも……」


 いかに恋愛経験がないとはいえ、クリスも女の端くれだ。これだけの美形に迫られこんなことを言われては、平常心ではいられない。


(落ち着け私。恋人になんて言っても、これはあくまでふりなんだから。毅然とした態度で断らなくちゃ。だいたい、ドキッとすることなんてないでしょ。いくら美形とはいえ、相手はあのヒューゴ総隊長なんだよ。女とを見ると問答無用で拒絶する人だよ。そんなの絶対無理。あっ、でも普段キツい人だからこそ、意外な一面を見せたらそのギャップにキュンとくるってこともあるかも……って、なに考えてるの!)


 混乱しながら、それでも胸は徐々に高鳴り、体に熱が灯っていく。しかしそれも、ヒューゴが次の言葉を発するまでだった。


「引き受けてくれたら、礼金を払うぞ」

「れ、礼金……?」


 その瞬間、それまで感じていた胸の高鳴りも、熱も、一気に静まる。


「あの、それって、お金を払うから恋人になってくれってことですか?」

「そうだ。お前にとっても、悪い話ではないぞ」


 実に良い顔で言うヒューゴ。だが、つい数秒前に情熱的な愛の告白的なことを言っておきながら、急にお金とちう現実的な話を出されると、どうにも温度差を感じずにはいられない。


「やっぱり、ヒューゴ総隊長はヒューゴ総隊長ですね」

「なんの話だ?」

「いえ、いいんです」


 もしもヒューゴがもう少し女心を理解し、あのままの調子で迫ってきていたら、ひょっとしたら雰囲気に流され、落ちていたかもしれない。

 が、今ので一気に冷めた。


 しかし冷めたことで、さっきまでより少し冷静に事態を見ることができそうだ。


「あの、礼金って、具体的にはどのくらい頂けるのですか?」


 冷めておきながら、それでもしっかりお金の話に食いつく辺り、クリス自身もなかなかだ。

 だが、それもある程度仕方のないこと。なにしろ彼女は、今日から無職の身。いくら退職金が出るとはいえ、もらえるものはもらっておいて損はない。断るにしても、その前に金額を聞くらいならやってもいいだろう。


「具体的な金額はまだ決めてはいないが、納得いくだけのものを支払えるよう努力しよう。とりあえず、今協力してくれたら、これくらいは出せるかな」


 告げられた金額は、予想していたものよりも、ずっとずっと多かった。


「そ、そんなに……」


 もちろん、いくら金を積まれたところで、恋人のふりなんてものに抵抗がなくなるわけじゃない。うまくできる自信なんてないし、嘘をつくことへの罪悪感もある。

 しかしそれでも、これからの金銭面の不安を考えると、今収入を得られるというのは非常に魅力的だった。


 悩んだ挙げ句、結局クリスはそう答えた。


「えぇーい、決めた。私、やります!」


 不安も抵抗感も、これからのしかかる生活への不安には勝てなかったのだ。


「契約成立だな。これでお前は、俺の恋人だ」

「はい。がんばって、隊長の恋人を務めさせていただきます!」


 一度決めたからには腹をくくろう。そう思い、力強く答える。

 その様子は、とても恋人になりたてのだとは見えないだろうが、とにかくこれで、二人は恋人同士となった。少なくとも、設定の上では。


 後にクリスは思う。もしもこの時自分が違う選択をしていれば、その後の人生は、大きく変わっていたかもしれないと。

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