第23話 南里アキト「いつかきっとオリオン座へ行く人々のように」
かわいそうなミヤコ。
僕のせいで変わってしまったミヤコ。
不安になると僕の唇を塞ぎに来たね。そんな君を愛おしいと思ったんだ。そんな僕を許してほしいと思ったんだ。
昨日は家に来なかったね。理由を聞いたらたぶん僕は死んでしまうだろうと思ったから、ただ「いいよ」としか言わなかったんだ。
親友という女が君に腰にいやらしく手を回していても、僕は仕方がないと思っていたんだ。
ハルカを見る目が変わったことに気がついても、僕はしょうがないなと思ったんだ。
もう別れてくれと言っても君はさらりと「いいよ」と言うだろう。そうでなくても、前よりは重くないはずだ。
君は僕に囚われちゃいけない。こんなどうしようもない僕を放っておいて、たくさんの世界でたくさんの人たちと触れ合ったほうがいい。いろんな恋を知るべきだ。そう願ったんだ。そのせいで君は変わってしまったんだ。
君に嫌われたかった。
これは僕が望んだことなんだ。
それでも僕はどこか寂しいんだ。
あの日、いつものように夕飯を作る準備をしていたとき、ミヤコはうちの両親がふいに現れたときも「ご無沙汰しています。おじさま方」と礼儀よく返事をしていたね。前はこんな環境に僕を置いた両親へひたすら怒ってくれたっけ。あのときのことを覚えていたから、両親が「これから家族の話をするから、君は帰りなさい」と当然のように言ったとき、僕はハラハラしたんだ。でも、君は「アキト、冷蔵庫になすの揚げびたし入ってるから」とだけ言って、丁寧にあいさつしてから帰っていったね。僕は本当のことを言うと、この後に起きることを考えて、そのままミヤコといっしょに出ていきたかったんだ。
両親はね、僕のことはもういらないって言ったんだ。君にはとても聞かせられないな。また僕の代わりに怒るだろうから。年が明けたら両親は離婚する。この家もなくなる。高校は卒業まで行かせてもらえるそうだが、そのあとは一人で生きていけ、と言われた。ああ、たぶんもうちょっとひどい言葉だったよ。もともと僕は彼らの興味の外だった。だからこうなることはわかってた。だからただ「わかりました」とだけ言えたんだけど、それでも沈む気持ちは強かったよ。
ミヤコはもうご飯を作りに来れなくなるだろう。この家そのものがなくなるから。君が少しやけどしたフライパンも、シミをちょっとつけてしまったテーブルクロスも、もうみんな消えてなくなる。このままなら君の家も僕らに興味を無くすだろう。もうすぐみんなそれぞれの道を歩くことになる。その道に追い立てられ、そして強制的に歩かされていくんだ。
ミヤコ、僕たちはもうすぐ自由になれるよ。温かく楽しかった束縛は消え、冷たく何もない空虚な自由になるんだ。
僕が好きなだったものは、いつも取り上げられた。父と本の話をするのは好きだった。母と料理の話をするのが好きだった。でも、そんな日々はもうなくなった。好きなものはいつかなくなってしまう。だからこの気持ちも、烏丸先輩がなくしたピアスのように、いつかなくしてしまうんだろう。それでいいと思ってた。でも、いまは、それが苦しくてつらいんだ。どうしたらいいんだろうな。僕もたぶん君に変えられてしまったんだろうな。
ねえ、ミヤコ。あの日、両親から少しのお金をもらうだけでぼんやりとしていたあの日、「ダメだよアキト。ご飯は食べなくちゃ」と言って、僕の手を引いてくれたね。最初は不器用な手で一生懸命、僕のためにご飯を作ってくれた。あのときどれだけ僕は救われたんだろう。あの温かいごはんをひと口食べることに、僕は君に助けてもらえていたんだ。そんなことができる人に始めて会えたよ。ミヤコ、君は気高くてやさしくて僕のようなちっぽけな人間には似合わないよ。
それでも、そう思い込もうとしても。僕は寂しくて仕方がないんだ。
ミヤコ、学校で久しぶりに会った烏丸先輩にこう言われたんだ。
「大学に入ったら家を出て一人暮らしするつもりなんだ。新しい部屋は、ここからも近いぞ。南里、いっしょに暮さないか?」
「え。ついに僕を拉致監禁ですか?」
「そうだよ。幸せになるまでいっしょにいてやる」
「どうして…」
「お前が好きだからだよ。こんな世界とは早く別れたほうがいい」
「こんな世界でも僕は案外住みやすいなと思ってますよ」
「南里、もうよせ。自分を偽るのは」
「偽ってますか?」
「ああ、偽って傷つけて、お前はもうぼろぼろなんだ。だから私が救い出す」
「そんな、どこかの勇者みたく。本の読みすぎですよ」
「好きな人のために、悪者になるのを覚悟して剣をふるう勇者はそんなに悪い奴か?」
「悪くはないですよ。ただ、びっくりしてしまって…」
「クリスマスには返事をくれ。頼む」
僕は烏丸先輩にわかりましたと言うのが精いっぱいだったよ。その差し出された手を握るべきどうか、秋の羊雲を見上げながらぼんやりとしていたよ。
ミヤコが家に来なかったあの日、久しぶりに刊行されたクルム=ヘトロジャンの新作『アジマ』をリビングのソファーで読んでいたんだ。地球に見捨てられた人々が、自立して宇宙の果てで暮らしていく物語。巨大な移民船が月の軌道からオリオン座へと飛び立つとき、船から遠ざかる地球を見ていた主人公がこう言うんだ。「僕たちは捨てられたんじゃない。これから旅立つんだ。わくわくしながらまだ見ぬ星を目指していくんだ。さよなら地球。僕たちを育ててくれた世界。いろいろあったけれど、それでも僕はあなたたちが好きだったよ」って。
うっかり自分に重なってしまって泣いてしまったんだ。驚いたよ。僕はいつも現実から本に逃げていたから。本が語る世界が僕の仮住まいのようなものだ。そんな本が、僕に重なってしまった。始めてだったよ。読み進められなくなったのは。クッションにシミをつけてしまったのは、そういう理由だった。ミヤコに見つかったとき素直に言えなくて悪かったと思ってるよ。
泣きすぎて目が痛くなったとき、ハルカからスマホに連絡があったんだ。「アジマ、面白い?」って。どう返事をしようと考えていたら、ハルカが学校で告白されているところをふと思い出したんだ。みんなハルカが大好きだったと思う。その中の誰かが、ハルカの手をちゃんと握るかもしれない。ハルカの僕への好意に気づかされたとき、それもいつかなくしてしまうんだろうとすぐに思ってしまったんだ。ハルカもミヤコも烏丸先輩も、みんなああは言ってくれるけれど、それでもいつかきっとオリオン座へ行く人々のように、僕を地球に置いてけぼりにする日が来るんだろうね。それを僕は望んだけれど、それでも…。
「ハルカ、寂しい」
うっかりバカな返事をしたもんだと思ったよ。少し後悔したんだ。ハルカとはたくさんいろんな話をしていた。いつでもミヤコのことを思っていたよ。僕たちのことを心配していたんだ。たぶんハルカは僕より君のことが好きなんじゃないかな。だってハルカとの関係は、僕が本に寄せるのと同じ思いだったから。つらくなったら逃げ込めるそんな場所。ハルカもそれがわかっていた。「そんな関係でもいいよ」って言ってたけど、僕を愛してるとは言ってこないんだ。そんなふうにひどい関係に追い込んだ僕が、寂しいなんて言っちゃいけない。そう思ってたら、ハルカは一言こう返したんだ。
「そっか、私もだよ」
僕はスマホを握りしめて、すごく安堵したんだ。ねえ、ミヤコ、同じ気持ちでいられるのって、どうしてこんなにも安心するんだろうね。
「あれ、電気ぐらいつけなさいよ」
「ごめん」
「すぐご飯の支度するから」
「ゆっくりでいいよ」
「昨日はごめんね。芝原が落ちちゃって。私も悪いことをしている自覚はあるんだ。でも、どうにもならなくて。手を差し伸べたいけれどその手が好きな人を苦しめる、それがつらいってずっと泣かれちゃって。なんで人を好きになると、こんなに傷だらけになるんだろうね」
「僕らもだろ?」
「そうだね。私たちもずたぼろだね」
「…」
「ねえ、泣いてるの?」
「そんなことないさ」
「ひとりで黄昏ないでよ」
「ふたりならいいのか?」
「そうだね。ふたりならいいよ」
「ミヤコ、ごめん…」
「いいよ、いいって。ああ、もう、仕方ないな」
「ごめん…」
「明日、クリスマスだから何かご飯を食べよ。いっしょにご飯を食べよ。おいしいご飯をたくさん…」
僕たちはようやく手を握り合った。
推薦BGM
坂本真綾「僕たちが恋をする理由」
---
次話はいよいよクリスマス! それぞれの想いがイルミネーションのように輝きます! アキトは? ミヤコは? 烏丸先輩は? そしてハルカは…。
良かったら「応援をする」を押したり、フォローをお願いします!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます