第18話 春川メグミ「なら、もう舞台に上がったよ」



 「それでね、烏丸先輩の間に星野さんが入って、アキトのことひっぱたいちゃって」

 「へえ、そう…」


 眼福である。あれから兎賀には私の部屋を貸して、必要に応じて着替えに使ってもらっている。いまこうして役得として兎賀がキャミソールを脱いでいくのを間近に見ている。視姦していると怒られても言い訳できない。仕方がないだろう。男の体ではまったくないが、女の柔らかい体以上に艶があって、なんというか…。なんにしても…。


 「眼福」

 「眼福?」

 「あ、いや…。徐眼福という人がいてな。紀元230年ごろ、呉の国にいた軍師で…」

 「それで?」

 「いや…、なんでもない。星野はどうしたんだ?」

 「それからちょっと休まして、いっしょにご飯食べて仲良くなりました」

 「へえ、面白い取り合わせになったな。笑裏蔵刀ってところか」

 「まあ、私の体は男だしね」

 「は?」

 「キスまでしちゃったし」

 「はああ?」


 待て待て待て。今なんて…。理屈はそうだけど、いや、ちょっと、どういうことだ?


 「…私ともキスできるのか?」


 ちっがーう。なんていう心の声を口にしてしまったのか…。

 兎賀は驚いた顔をしたあと、しゅるりと目を細めて楽しそうな顔になる。猫が新しいおもちゃを見つけたような。


 「そうなら、どうする?」

 「いや…、悪かった。忘れてくれ」

 「春川さん、キスしてほしいの?」

 「違う違う、そんなんじゃ…」

 「違わないでしょ?」

 「違うって」

 「あんな視線でいつも見られていたら、私、勘違いしちゃうな…」

 「それは…」


 うっかり拾ってきた子猫がハドラーだった気分だ。いやミストバーンか。どうすればいい、どうすれば…。あ、いや、どうもしなければいい。


 「いやいやいや。ほら帰った。姉ちゃん来るし」

 「お礼なら何でもするよ」

 「そういうお礼はいらないから」

 「どういうの?」

 「もう…」


 いつもの黒いパーカーに着替えた兎賀を私は玄関に引っ張っていく。靴を履きながら兎賀は言う。


 「君の望みが叶えばいいね」


 どっちのだ。いや、どっちとは?

 口に手を当て、くすりと笑ったあと兎賀が出ていく。閉じられた玄関の扉を見つめる。私は男同士のアレが見たいだけ。推しは眺めるだけ。呪文のようにそう唱える。




 圧倒的じゃないか、我が軍は。兎賀と南里の恋愛関係における対星野戦においては、そんな常套句を思い浮かべた。星野と南里の間はボロボロ、星野は兎賀が篭絡、兎賀は南里に気持ちを伝えている。烏丸先輩はまあ…、よくわからない。でも、どこかがおかしい。このセリフを言った人間は、のちに味方に捨てられ「謀ったな」と言って死んでしまう。私もそうなる恐れはじゅうぶんにある…。


 「ねえ、聞いてる? メグミ?」


 姉に腕をゆすられて、意識が戻る。イベントも終わり仕事が一段落した姉は、久々に家に帰ってきて、これからの話を私としていた。


 「あ…。悪い姉ちゃん。考え事してた」

 「こないだのイベント疲れかな…。やっぱりどっか行って休んできなよ」

 「いや、悪いよ」

 「大丈夫だって。イベントは当社比180%の売り上げだったし。お金なら平気だよ?」

 「まあ…」

 「そうそう。編集部の人から、出版社の保養所を紹介されてね。奥多摩のほうにあるんだって。いいとこみたい」

 「へえ。温泉も?」

 「もちろん」

 「おお。すごいね」

 「だけど日程が厳しくて。姉ちゃん、いっしょに行きたいんだけど、ほらすぐ次の日取材で朝早くから北海道行くでしょ」

 「ああ、この日ならそうだね」

 「だから行ってきなよ。17歳の夏の想い出を友達と作ってきな」

 「うん、わかった…」

 「よかった。じゃあ担当さんに連絡しておくね。あ、この保養所、4人からの利用みたいだよ」

 「まあ集めてみるよ。姉ちゃん、ありがとな」




 旅行当日の駅前。集まっていたのは。


 「どういうことだァ兎賀ァ!!」

 「来ちゃった」

 「来ちゃったじゃねえぞ、オイ。4人って言ったじゃないか!」

 「春川さん、ガラ悪いー。てへぺろ」


 南里が言う。


 「ハルカから誘われた」


 星野が言う。


 「私もハルカから誘われたよ。なんか人数足りないって言ってたから…」


 芝原が言う。


 「ミヤコがそう言ってたからジュンを召喚した」


 甘楽が言う


 「チカ姉ちゃんの専用抱き枕なので」


 烏丸先輩が言う。


 「南里から聞いて」


 はああ?


 「どうして烏丸先輩までいるんだよ! ほら、兎賀がビビってんじゃねーか」

 「大丈夫だ。私は南里の愛の力で綺麗な烏丸になったのだ」

 「信じられるかよッ!」


 心の中で精神的にかぶっていた帽子をスパーンと地面に投げ捨てる。

 なんで、みんないるんだよ。しかも、全員バチバチにやり合ってる仲じゃないか。

 兎賀が私の袖を引っ張る。


 「春川さん、もう電車来るよ」


 どうして…、どうしてこうなった…。


 「はああああああ。いいかお前ら、この旅行のスローガンは『面倒を起こすな』だ!」

 「「「「はああい!」」」」



 みんなを乗せた電車は街を抜け、緑の山の中を駆け上がっていく。モーターがうなりだし、カーブでは車輪が鳴き始める。木々が作れ出すこもれびの中をぐんぐんと力強く進んでいく。流れる車窓を見れば、深緑の山々がどんどん近づいてくる。そのふもとには清流がキラリと見えてきた。

 窓辺で頬杖ついて、そんな外の風景を見ている兎賀が目の前にいる。夏の日差しで髪がまぶしく光り、目はうっとりと細めている。少し嬉しそうだ。

 南里が私に声をかける。


 「いいよね」

 「ああ」


 そこは同意だ。とても絵になる。作画資料用にこっそり写真を撮らしていただく。

 電車は速度を落として、ホームに滑り込む。


 「ついたぞー」


 私はみんなに声をかけ、めいめいにホームに降り立つ。ログハウスのような作りの駅舎を通ると、道路を挟んだ向こう側に涼しそうな川が流れていた。


 「へえ、すごくいいとこじゃない?」


 星野がにっこり笑ってる。まあ、それは私にもわかる。



 地図をたどり保養所につくと、さっそく中の人を捕まえていきさつを話す。


 「さすがに当日にご予約人数が増えるのは、いささか難しく、たいへん申し訳ございませんが…」

 「まあ、そうですよね…」


 仕方がない。増えた人数ぶんはほかの宿に泊められないか、いまから連絡を…。肩を叩かれる。星野が私を見つめて言う。


 「あ、大丈夫だから」

 「何が大丈夫なんだァ!星野ォ!」


 星野がどこかに電話をし出す。


 「どうもー、父がお世話になってますー。はいー、実は近くにいるんですが、ちょっと困ってましてー、はいー、そうなんですー、あ、代わりますね」


 そのままスマホを保養所の人に渡す。みるみる顔色が変わり、やたらペコペコしだした。電話しながら何度もお辞儀している。


 「星野ォ!」

 「ほら。これから大丈夫になるよ?」




 保養所の脇にある木々に囲まれた坂道を少し下ると、目の前が開けて河原に出た。土手から見るその清流は、流れる水が夏の日差しに照らされてきらりと光り、静かな音が響いている。その横には。


 「でかいな」


 言ってみればテントなのだが、モンゴルの遊牧民でも使っているような、何人も入れる大きさだ。下には幾何学模様の厚手のじゅうたんが敷かれ、大きなベッドといっしょに、ふかふかしてそうないくつものクッションがまとめて置かれている。


 「グランピングって言うらしいよ。保養所の人に言って隣に建ててもらったの。みんな『お世話になった人』が貸してくれるって」

 「貸す? これを?」


 えええ…。金持ちはこれだから…。




 水着に着替えた奴から、順に河辺に繰り出していく。ひゃっほー、水着回だ! 私の中に巣くう心の中のオヤジが舐めるように女子たちを見つめる。

 芝原は高い身長を生かして、白いビキニをモデル風に着こなしている。対する烏丸先輩は、髪の色に合わせて黒いビキニだ。胸元がちょっとヒモで編まれていて、谷間がチラチラ見える。自分の体の使い方をよく知ってる奴はやっぱり違うな…。甘楽はフリルが付いた花柄のワンピースで、妹キャラらしいかわいめのデザインで、これもとても似合っている。3人は集まると水をぱしゃぱしゃと掛け合って遊んでる。まさに納涼。実に良い。たまらん。

 そして大取り、大本命は…。


 「ごめん、春川さん。これで大丈夫かな…」


 こいつ本当に男なのか? 思わず率直な感想が出てしまう。

 兎賀の水着は私が選んでやった。胸元は少しタンキニぽい形で胸がなくてもさほど問題にならないものだ。下は端に黒いレースが付いた長めのパレオを付けて、一応隠してやった。色は少し明るい紫。うねるパレオと合わせて、何かを捕食する夜の二枚貝のように思わせた。妖艶という形容詞が似合う兎賀には本当にぴったりだ。よかった。私は自分を褒め称えたい。くうう。


 「どちゃシコだよッッッ」

 「え、四股? 相撲がなんで?」

 「いや、なんでもない」

 「あれ、春川さんは? 水着忘れた?」

 「持ってきてるよ。ただ、ちょっと疲れたんだ。少し休ませてくれ」

 「そっか」


 そこに南里がやってくる。平凡なトランクスタイプの水着を着やがって。あれ、うっすら筋肉あるな、こいつ。本ばかり読んでるくせに。さて、どうする、この渾身の一品。さあ南里、悩殺されろ。


 「…似合うぞハルカ」

 「えへへ」


 いいぞ、いい雰囲気だ。もっとやれ! さあ抱け! 嫁には見せられないあられもない姿を!

 って、あれ星野は?




 河原の端には屋根のついた調理場があり、そこで星野が奮戦していた。見てみると、にんじん、じゃがいも、パプリカ、とうもろこし、かぼちゃ、キノコ…、たくさんの食材が所狭しと並んでる。私に気がついた星野がうれしそうに言う。


 「今日はバーベキューだよー。前から作りたかったんだよね。2人きりだと、ちょっとできなかったから」

 「この山になってる食材、どうした?」

 「保養所から分けてもらったり、『お世話になった人』からいろいろもらえたんだ」

 「どういうことだァ星野ォ!」

 「たぶんこれおいしいよ」


 布に巻かれた巨大なカタマリを見せられる。ぴらっと布をめくると、白い脂身が網目のように入った見事な肉だった。


 「このあたりで飼育している秋川牛だって。『お世話になった人』が持ってきてくれたんだ」


 すげえ…。たしかにあんな牛肉は、基本アメリカ産の我が家では見たことない。そもそもこの世に存在していたのか…。


 「さて、やりますか」


 星野の目と持ってた包丁がキラリと光る。テキパキと食材がさばかれ、次々と串に打たれていく。さすが嫁と呼ばれた女。しかもベテラン。まったく作業によどみがない。


 「…星野、何か手伝う?」

 「必要になったら呼ぶから。みんなと遊んできなー」


 オカンだ、オカンがいる…。




 ぶらぶらと川沿いを下っていく。みんなと少し離れたところに水着姿の烏丸先輩が、川に向かって立っていた。近づいてみると黒くて細い釣り竿をその手に握っている。


 「烏丸先輩、この釣り竿、持ってきたんですか?」

 「いや、なんか知らないおじさんがくれたんだ。この出会いに乾杯とか、よくわからないことを言ってたな」

 「はあ?」


 ふと足元を見るとバケツが2つある。中にはすらりとした魚がたくさんうねっている。


 「どうすんですか、これ」

 「食うけど?」

 「どう食うんですか」

 「そりゃさばいて…。あ、やったことないな」

 「烏丸ァァァ!」


 仕方なくバケツを2人で抱えて星野のところにやってきた。

 ひたすら何かを刻んで、沸騰している鍋をかき回している星野に、おずおずと話しかける。


 「悪い星野、魚さばけるか?」

 「うん、大丈夫」

 「あっさりおっけーかよ」


 星野は鉄串をどこからか取り出すと手で握りしめる。


 「ウルヴァリン」

 「さみーいよッ。なんでいまやるんだよッ」

 「だって、こういう串を見るとやりたくならない?」

 「ならないわッ」


 そんな話をしている間に瞬く間に魚がさばかれ串が打たれていく。1匹当たり30秒かからない。すごいな…。前世は魚屋か何かか。


 「春川、炭起こしてー」

 「ああ、わかった…」


 と言ったものの、よくわからない。


 「烏丸先輩、やりかたわかります?」

 「いや、わからん」


 バーベキュー台の上に炭を並べて火をつける。あっちっち。ライターで炭をあぶっても火はつかない。あれえ…。仕方ないからやり方をスマホで調べるかと思ったとき、芝原がやってきた。


 「お、火おこし? やらして、大好きなんだ。こうやって炭で壁を作るようにして…」


 炭を立てて円形に置き、真ん中に新聞紙を置いて細かい炭の欠片をそこに振りかける。それから新聞紙に火をつけた。それは最初は少し燃え上がったが、やがて炭のほうが赤く光り出してきた。


 「なんで、わかんだよ」

 「ああ、うちの総菜屋、休みの日によくバーベキューするんだよ。従業員の人たちと」

 「アットホームな職場かよッ」




 少し陽が陰って外を赤く照らし出したころ。みんな水着から楽な格好に着替えた。外に置かれた巨木でできたテーブル。そこに並ぶ夕飯たち。黒くて長い瀬戸物のお皿に、塩焼きされた川魚。下には青モミジのあしらい。近隣で取れた天然物きのこの炊き込みごはん。串に刺さった照りの良い焼き物各種。クルミだれで和えられた湯葉といったいろいろなおかず、そしてお椀には白くてまるいはんぺんのようなものが入ったお吸い物。え? お吸い物? わけがわからず一口すする。口に含んだ瞬間、唾液がじゅわっとあふれ出す。くーっ。身がよじれるほどおいしい…。なんだこれ。みんな呆然としている。どうなってんだ、おい…。


 「これ、我が家の味なんだけど、ダメだった? ねえ、アキト、どっか変?」

 「いや、変わらないが?」


 いやいやいやいや。なんで、こんなシンプルなのものがめちゃくちゃおいしいんだよ。

 烏丸先輩は「これって和懐石…」と箸を握りしめて言う。芝原が「うちだって…」とか、うわごとのように何か言い出してる。


 「星野ォォォ! これはバーベキューじゃねえだろ! もっと雑でぐちゃぐちゃでいいんだよ。焦げて残念なことになったりしろよ。ベタベタする味付けでいいんだよ。だいたいな、こういうときはメシマズな彼女が作った紫色の得体のしれないものを、主人公が無理に食べてレインボー吐くのが相場なんだよ。なんでこんなにうまいんだよ。もっとこう…」

 「てい」

 「あひゃ。…んまぁーい」


 星野によって焼きたての肉を口に突っ込まれる。とろけるー。少し甘いんだ。柔らかい。大きなカタマリのくせに、すぐ口の中から消えていく。


 「やっぱり地の物はいいね。おいしいな」


 星野が肉を少しほおばりながらニコニコして言う。ベテラン嫁じゃない。スーパー嫁だ。




 おいしいものがあれば話が弾む。みんなで話しては笑っている。しばらくして烏丸先輩が変な動きで踊りだした。美人がやると破壊力が違うなあ、と妙に感心する。

 甘楽が「やりません?」とやたらたくさん花火を持ってきた。すっかり暗くなった河原で、花火の鮮やかな光が照らし出される。兎賀はそこから少し離れたところで線香花火をしていた。思いつめた表情が照らされている。私はただそれを眺めていた。浴衣を着させたら似合うだろうなあ。朝顔柄とか。矢絣もいいな。髪も結ってあげて。おそろいのかんざしつけて…。あれ。いま、やたらひどい悲鳴がした。ああ、南里が甘楽が抱える20連発花火の的にされ逃げまどっている。あっはっは。復讐されろ。包丁を持ちだされるよりはずっといい。




 暴れてた甘楽が眠そうに目をこすりだしたので、お風呂に入って寝ようという話になった。保養所の露天風呂を目指してみんなで行くという。南里だけは保養所の部屋で寝るらしく荷物をまとめていた。まあこっちは女子しかいないしな。

 ゆっくりしたかった私は、あとで行くとみんなに言い残して河原に向かう。あたりはすっかり暗く、あんなに遊んでいた川はいまではただの黒い流れになっている。適当な石に腰かけて、それを見つめてることにした。

 今日はいろいろ疲れたな…。なんだかんだ思い通りにはならなかったけれど、みんなのおかげで結局楽しいことになった。張り巡らされた陰謀は、人員と状況で容易に覆される。でも、それもまた、いいもんだな。推しが楽しんでる姿を見れるだけでも、じゅうぶんだ。くすりと笑う。まあ、いいか。心の奥がじんわりとする。うっかり星野に詰められたときのことが目の前にまたたく。舞台に上がれか…。




 テントに戻るとみんなベットで寝ていた。遊び疲れて倒れるように寝るなんて、ガキかこいつら。ベットの端を手で押さえる。ふかふかだ。ぬうう。確かにこれは抗えない。自分が寝てしまう前に着替えを持って保養所の露天風呂に行く。ひどい目にあったが、これでチャラだ。脱衣所でメガネを外し、ショーツをおろす。扉をガラガラと開くと、ホカホカの岩風呂が出迎えてくれる。かけ湯をして湯につかると…、ふわわわわ。溶けてく…。ああ、やっぱり温泉はいいな。にんまりとした顔をざぶざぶとする。折りたたんだタオルを頭にのっけて、体を伸ばしていく。


 「いいな、いいぞ…」


 あれ、誰かいる。


 「春川…さん?」

 「え? 兎賀?」

 「ごめん、いま男湯の時間だと思うけど?」

 「はあああああああ!?」


 なんじゃこりゃ、イベントかよ。なんで私なんだよ。だいたい攻略不可の親友キャラだろ、私は。


 「…近づかないからさ、一緒にはいろ?」


 少しおびえたように言う兎賀に、私は「ああ」とだけ返事しておとなしくする。肩までつかりながら上を見上げたら、瞬く星がたくさん降り注ぐように見えた。


 「春川さん、奇麗だね」


 私のことではないのはわかってるが、その声はASMRとしてリピしたいな。


 「メグミでいいよ。そう呼んでもらったほうが嬉しい」

 「じゃあ…。ねえ、メグミ」

 「なに?」

 「最近メグミ、心の声が出過ぎだよ。ガラ悪いし」

 「はは、気を付けないとなあ」

 「いろいろありがとうね」

 「兎賀には幸せになってもらいたんだよ」


 そうしないと男同士のアレが見られないからな。


 「あのね、私ね…」

 「なんだ、聞いてやるぞ」

 「前にいた学校で、先生に告白されてね。まだ若い男の先生。女の子として私を愛してくれていて。隠れてキスしたりとか、ずっとドキドキしてた。

  学校の駐車場で激しめなキスをしてて、たぶんこのまま最後までされちゃうんだろうな、というとき、先生の奥さんにばったり見つかってね。先生たちは離婚、先生自身はそのまま学校を辞めせられてしまって。うちの親にもバレたけど、父がこっそり私に触ってたのもいっしょに発覚して。母が激怒して父を追い出して。私自身は未成年という理由で、なんの罰も受けさせてもらえなかった」


 …。

 …だらだら。

 温泉のせいではない、たくさんの汗をかく。いま私は何を聞かされた…。こいつ天然物のご家庭クラッシャーか。やべぇ、こいつはやべぇ。野に放っちゃダメな奴だ。


 「私が女の子になったらみんな壊れちゃった。だからもうそうなっちゃだめなんだ。夏が終わったら髪も切って男の子に戻るよ。みんなにも謝んなきゃ。春川さん、いままでありがとう…」


 はあ…。もう。こいつは。


 「おい、そんなに苦しそうに言うなよ」

 「え…?」

 「泣いてんのか?」

 「あは…、私ってなんだろ。なんでこうなっちゃうんだろ。本当の女の子だったらいいのに…。自分の体がずっと気持ち悪くて仕方ないんだ。もうやだよ…。もう…」


 水を叩きつける音がする。

 私は湯舟の中で立ち上がる。いまからすることは春川緊急事態法に基づく、超法規的救命活動だ。恋愛感情などに基づいたやましい行為じゃない。断じて否。


 「ほら、来いよ。女の子同士だから、抱きついても問題ないぞ」


 まあ、すっぽんぽんで抱きつくなんて女の子同士でもそうそうないが。

 兎賀が立ち上がる。ゆらりとこちらに近づいてくる。私は迎えるように手を伸ばす。兎賀の体がゆっくり私にもたれかかり、私はその重みをただ感じていた。


 「兎賀は女の子だから。絶対に女の子だから。私がお前をちゃんと女の子にしてやる」


 そうなだめると、ふえええんと兎賀は泣き出した。ガキかよ。でも…、私もガキか。




 ゆっくりできなかった。ちっとも。まあ、ホカホカにはなれたけど。

 保養所から出て、兎賀の手を引っ張って夜道を歩く。だいぶ落ち着いた兎賀から「さっきはごめん…」とやたら謝られている。まあ、いいさ。気にしてないよ…という言葉と裏腹に兎賀に抱きつかれたときの体温を思い出していた。

 もうすぐテントというなか、ばったり星野に出会った。


 「どうした?」

 「んー、私は帰り道。それより春川、ハルカにいやらしいことしていないだろうな」

 「するかよ」

 「やたら、げっそりしてるぞ」

 「疲れたんだよ。お前こそキスマーク付けやがって」

 「え?どこ?」

 「ブラフだよ、なんで首筋だってすぐわかんだよ!」

 「あ、ついてない? 良かった。そんなに激しくしてないから…」

 「してんのかよ!」

 「ここだと後始末がたいへんだから最後までしてないよ?そもそも私たちまだ…」

 「もういい黙れ、クソビッチ!」

 「はああ?なんつった星野ォ!」


 兎賀が2人の袖を引っ張る。


 「もうふたりとも。ガラ悪いよ」

 「「ああ、ごめん…」」


 今度は星野が兎賀の袖を引っ張る。


 「こっち来なハルカ」

 「え?」

 「どっちで寝るか困っていたろ?」

 「…うん」


 ああ、そうか。気が付いていなかった。




 「ていっ」と寝ている烏丸先輩たちをごろごろと端に動かす。空いたところに星野と私が人ひとりぶん空けて寝っころがる。ふたりの腕を伸ばして枕になるようにしてやると、そばで見ていた兎賀に声をかける。


 「さあ来い。こっちゃ来い」

 「なんかごめん」

 「そこはありがとうだ」

 「…そうだね。ありがとう」


 兎賀が私たちの間におずおずと寝る。3人で寝ながら空を見上げる。そこには、黒いキャンバスに銀の刺繍。天の川はうっかりこぼしたミルクのあと。そんな満天の星空に吸い込まれていく錯覚を覚える。このまま銀河の果てまで持っていかれそうだ。ベッドごと飛び上がって、星の海原を渡っていく。星雲の波を飛び越え、駆け抜ける流星たちを追い越しながら、3人はいろんな星々を見ていくんだ。星空のその先の遠く遠く果ての果てまで。


 「すごいね…。露天風呂で見上げたときよりも、なんかすごくなってる」


 兎賀が喜んでる。私は空いている手を上げ、星空を指さした。


 「あそこに結構目立つ星があるだろ。左上からはくちょう座のデネブ、わし座のアルタイル、こと座のベガ、これが夏の大三角形って言われて有名なんだ。歌にもなってるぞ」


 星野があぜんとした声を上げる。


 「春川、どうした? 頭打ったか?」

 「なんでだよ。昔、星が好きな男がイケメン宇宙人に犯される漫画を描いたときに調べたんだよ」

 「なんだそれ…」

 「兎賀、創作はいいぞ。なんか書け。そうしたら気持ちが楽になる」

 「春川が悪の道にハルカを誘おうとしている」

 「ああ、そうだよ。永遠に続く地獄の道だよ。でもな、それで救われる魂もあるんだ」


 そのとき、兎賀がこちらを見て私のパジャマの端を遠慮がちに引っ張る。


 「…ありがとう、メグミ」


 なんじゃそりゃ。かわいすぎかよ。はううう。心の中で顔を手で覆って天を仰ぐ。

 それからはただ黙って星を見ていた。つい、うとうとしだす。疲れていたから仕方がない。でも、ああは言ったけど隣の奴は体は男なんだぞ…、私はもうちょっと危機意識を…、うにゃうにゃ…。




 うなぁ…。寝ちゃってたか。体を起こして見渡すと、空には黒と青のグラデーションがかかってる。まだ黒が70%ぐらいかな、とか職業病的に思う。ふと横を見ると、星野と兎賀が抱え合って寝ていていた。こいつらがいっしょになっているのはちょっと面白いな。仲良しのライバルとか兎賀は言ってたっけ。幸せな奴らめ。このままずっとくっついて寝ててくれれば平和なのに…。

 ベットから這い出ると、外がちょっと寒くて上着を羽織る。みんな起きてくるにはまだ時間があるだろう。所在なさげに早朝の川べりを散歩する。足元を気を付けながら少し進むと、小さな灯りがぼんやり見えた。近づいていくと、そこには南里が座っていた。私は小さく声をかける。


 「どうした、早いな」

 「春川さんも早いじゃないか」

 「なんか目が覚めたんだ」


 灯りはラジウスとか呼ばれる登山用のコンロの火だった。上には縦に長いやかんのようなパーコレーターが乘ってて、注ぎ口から蒸気が漏れだしていた。


 「飲む?」

 「ああ、もらうよ」


 薄緑色のホーロー引きカップにコーヒーが注がれて南里から手渡される。近くの岩に座るとカップを両手で抱えて少しずつ口をつけていく。温かみがうれしい。

 ざあざあと流れている川は、眠る前にはあんなに黒かったそれは、少しずつ色を取り戻していった。朝霧が川辺にゆるりとたゆたう。ほのかな空の明かりがそれを薄紫色に染め上げていた。

 …きれいだな。

 コーヒーを一口すする。ふわりとした吐息を流しながら南里に聞いた。


 「南里。お前、どっち選ぶんだよ」

 「おすすめは?」

 「はあ、ふざけんな」

 「僕はたぶん逃げたいんだと思う」

 「どこに?」

 「ここじゃないどこか遠くへ。そうしたらみんな幸せになれる」

 「ふふ。逃げてもそこには楽園なんかないんだぜ」

 「それでも楽園があると信じて人は生きてくしかないんだ。そうでなければこの世界は苦しすぎる」


 ふたりで水の流れをただ見つめる。ざあざあと。とおとおと。

 陽が出てきた。太陽が私たちを容赦なく照らしていく。分け隔てなく平等に照らしていく。


 「私のお勧めは兎賀だ。兎賀を助けてやってくれ。南里、お前ならできる」

 「それはかいかぶりすぎだ。ハルカは強いよ。泣いても前に行ける」

 「だが…。いや。お前がそう思うなら私は別のことを考えるだけだよ」


 空になったカップを石の上に置く。


 「コーヒーありがとうな。ごちそうさま」


 座り続ける南里を残して、私は立ち上がり、そして歩き出した。




 テントに戻ると、兎賀が起き出していた。ぽやぽやとしたこの生き物はなんだ…。私を見つけると、少し嬉しそうに声をかけてくる。


 「おはよー、メグミぃ」


 はうわっ。かわいすぎてもう…。尊みがあふれてどうにかなってしまう。これがてぇてぇって奴だ。


 「どうしたのぉ?」


 兎賀が私の体を無意識につかんでくる。裸で触れた感覚を思い出す。はうううう。フラッシュバックてぇてぇ!


 「何かが殺しに来てる!」

 「え、殺し屋?どこ?」


 はうううう。ぷしゅー。




 「ごめんねー。朝は簡単でいいかな」


 そういって星野が作ってきた朝ごはん。おにぎりは塩焼きした川魚をほぐし入れて、さらにあぶってる。お味噌汁は野生のセリがアクセント。いつのまにか作ってた絶妙な味加減の浅漬け。しその実が入っていて、ぷちぷちしておいしい。

 烏丸先輩が一口食べて「料亭の味…」と言って固まっている。芝原が「いやだから、うちだって…」とか、うわごとのように何か言い出してる。


 「おい、星…、いや、おいしいよ。すごくおいしい」

 「どういたしまして」


 星野が嬉しそうに笑う。たいした嫁さんだよ、お前は…。




 陽が高く登り夏の暑さにみんなが思い出したころ、帰り支度をそろそろしないといけないのに、烏丸先輩と芝原が川に入って水をかけ合い出した。つられて甘楽も加わる。星野と兎賀も輪に入っていく。みんなで遊び始めたのを私はぼうっと眺める。はあ…。


 「メグミは遊ばないの?」


 いつのまにか来ていた兎賀が上目遣いで私の手を引っ張る。はうう。私は兎賀に引っ張られながら起こされると、そのままみんなの輪の中に連れていかれる。


 「春川が来たぞ、みんな総攻撃だ」

 「おいまじでやめろ、殺すぞ」

 「烏丸先輩、こっちです。やっちゃってください!」

 「ひどいな、おい」


 どうすんだよ、びしょぬれじゃないか。まあ、いいや。…あはは。結構楽しいな。



 片付けをしてほうぼうにお礼をしたあと、私たちは帰る道についた。駅に戻る途中に見つけたそば屋はあたりだった。くるみそばだったのだが、使ってるくるみは周辺に自生しているものだそうだ。なめらかにすられたそれは独特の香りとわずかな苦みを感じられた。とてもおいしい。烏丸先輩はおかわり3回目をしている。意外とよく食べるな、この人。

 腹ごなしにぶらぶらとしていたら、兎賀に引っ張られて店先に入る。なんだ?と思ったら、小さな漬物屋さんだった。兎賀が目を輝かせて言う。


 「これ!拝島酒造の酒粕使ったやつだ! ほんのり琥珀色しているの」

 「へえ、おいしいのか?」

 「うん、とっても! あ、とりあえず10個買います」

 「は?」


 店番しているおじさんがどこが喜んでいた。


 「お姉ちゃん気っ風がいいね。1個おまけするよ」

 「メグミ、私のことお姉ちゃんだって」


 振り返りながら私に微笑む兎賀。意図とか考えとかそんなものがない純粋に私だけに問いかけてくる笑顔。はううう。どうしようもないじゃないか、こんなの。私は良かったなと言えないまま微笑み返す。




 ようやく帰りの電車に乗った。どっせい…。席に腰降ろすときについおっさんくさく呪いの言葉を口にしてしまう。どっと疲れが押し寄せる。はあああ…。兎賀が当然のように横に座る。すぐにうとうとしだして、私の肩に頭を預ける。すっかりなつかれたな…。なんで私が主人公やってんだ。隣は男の役目だろ…。

 空いてる隣に星野が座りに来た。


 「ありがとうな、春川」

 「はは。明日は槍が降るな」

 「素直な感謝だよ。みんな喜んでた。私もうれしかった」

 「そうか…。それはよかったな」


 私は星野を見ずに言った。


 「そういえば星野。前に私を詰めたときに言ってた舞台ってなんだ?」

 「…誰かに恋することかな」

 「なら、もう舞台に上がったよ」

 「そっか。おめでとう」

 「なんだそれ」


 笑うんじゃなかったのかよ。




 夜半に我が家に帰ったら姉が出迎えてくれた。


 「おかえりー」

 「ただいま」

 「疲れた…。慰めて…」

 「あはは、でも面白かったでしょ?」

 「うん…、まあ…」

 「そかそか。よしよし」


 姉に頭をなでられながら、兎賀のことを思い出す。

 食卓に座ると、姉が出してくれたお茶をすすりながら、旅の思い出を語っていく。スマホでそのときの写真たちを見せると、ふと姉が気づいたように言う。


 「メグミぃ、あきらかにこの子だけ写真が多いんだけど。…そっち?」

 「どっちだよ! そいつは男だよ」

 「え、嘘?」


 猛烈な勢いでスマホの画面をスクロールさせていく。


 「あ、こら、人の写真漁んな」


 姉が私を真顔で見つめる。


 「資料です。寄越しなさい」

 「はいはい」




 朝に起きたらもう姉の姿はいなかった。羽田に朝7時だもんな。家には私ひとりだけ。時計の音だけが響いている。

 やっと泣けるな…。

 そう思ったらもうダメだった。自分でも情けないほど、大きな涙が流れていく。顔をぐしゃぐしゃにして、えっぐえっぐと泣きだした。あのときから、好きになったあのときから、ずっと我慢していたものが止めでもなくあふれていく。

 恋したときから失恋していた。

 お前を女にする、そう言ったからには、いくら自分が好きでも兎賀を求めることはできない。女である私が求めてしまったら、それは兎賀が男であることがわかってしまうから。愛し合うことはできない。できないんだ。

 そんなのくやしいじゃないか…。つらいなあ。つらすぎる。なんで私にちんこないんだ? ひどいなあ、神様。なんとか言ってよ。なんでこんな想いをさせるんだよ。おい、ふざけんな! ふざけんなよ…。ふええええん。うえええええええん…。



 ひとしきり泣いたら、疲れ果ててベッドに潜った。好きな人に幸せになって欲しい。なら、こうするしか…。スマホを手を取り、旅行中に取った兎賀の写真をクラスの男子が多くいるグループにこっそり流していく。南里以外にも男はいるさ。逆に気がついて南里が焦ってくれればそれでもいい。

 種は蒔いた。好きな人よ幸せになってくれ。お前が幸せになれるなら私は何でもするよ。それが私のせいいっぱいの愛だ。




推奨BGM

ねごと「黄昏のラプソディ」(全編テーマ曲)

ねごと「endless」

リリィ、さよなら。「その手にふれたあの日から」

鹿乃「Stella-rium」

メロキュア「Agape」




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次話は多少改善された烏丸先輩が南里アキトとデートします。お互いすれ違った会話を続けて、アキトは…。

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