第17話 甘楽ジュン「だって私は主人公だから」



 デートがしたかっただけ。せめて1回ぐらい。それだけのこと。叶えたらいけない恋だとしても。

 私が南里先輩を連れ出せたのは、本当に偶然だった。「もう読む本がない」というネットで適当につぶやいたことを南里先輩が拾ってくれた。あれを読めこれを読め、という南里先輩の無邪気なアドバイスに歯がゆい思いをして、つい「わからないので本を見ながら教えてください」と答えてしまった。返事は「明日は用事があるけれど、それまでなら」。私はすかさず「なら、駅の大きな本屋でぜひ!」と、つい言ってしまった。「いいよ」と返ってきた。ひゃー。うれしくなってくる。はしゃぎたくなる。

 その日のことをいろいろ考える。どんな恰好すれば喜んでもらえるかな。ご飯ぐらいいっしょにできないかな。疲れたから休みましょう、とか言って誘えばいいのかな。チカ姉ちゃんにバレないようにしなくちゃ。ほかの先輩たちにも秘密だ。ああ、私も妖魔司教ザボエラになっているな…。好きな人のためにいろいろ考えを巡らすのって、どうしてこんなに楽しいんだろう。



 眠れない夜を過ごしたあと、私はちょっと早めに支度を始めた。部活で走るために短くしていたボブショートの髪は、辞めてから3か月経ってもまだまだ長くならない。それでもかわいくなろうと、ひまわりの髪留めを付けたりした。服は何がいいだろう。夏っぽい白いワンピースか、それとももっと大人っぽいロングスカートにキャミソールか。うーん。ボーイッシュなのが今の私にいちばん似合っているけど、デートという雰囲気じゃないし…。あ、もうこんな時間。結局ワンピースにして、しぶしぶ大丈夫かなと思いながら支度する。あ、ペディキュア忘れてる! もう時間ない…。先輩が足元を見ませんように。大人っぽい黒い紐で編み上げたサンダルを履き、玄関を出たのは待ち合わせにギリギリに間に合う時間だった。



 駅前にあるビルまるごと本屋さん。その入り口の前には南里先輩が立っていた。

 

「先輩!」


 声をかけて軽く手を振る。気がついてくれた南里先輩が振り替えしてくれた。うひゃー。それだけでとってもうれしいな。


 「ごめんなさい、南里先輩、遅れちゃって」

 「大丈夫だよ。息を切らしているじゃないか。水でも飲むか?」

 「平気です。私は元陸上部ですよ」

 「そうか。甘楽は元気でいいな」

 「それが私の取り柄ですから」

 「はは」


 南里先輩が少し困ったように笑う。笑うとちょっとだけえくぼができる。かわいいな。やっぱり私、大好きだ…。



 店内に入るとまるで津波のように本が襲ってくる。どの棚にも本しかない。本だらけ。あ、本屋だから当たり前か。南里先輩がフロアマップとにらめっこしてる。


 「どんな本がいいかな…」

 「甘くて苦いのがいいのです」

 「それはまた、たいへんなお題だな。そうだね…。もうだいぶいろいろ読めるようになったかな?」

 「先輩のご指導のおかげです」

 「はは。じゃあ、まずは古典から行ってみようか」

 「古典ですか?」


 文庫本のコーナーにやってくる。昔の話ばかりの本を出してる出版社の棚に来ると、南里先輩が1冊の本を取った。


 「この『若きウェテルの悩み』はだいたい苦い恋のお話で、この手の基本と言えば基本だ。若者の悩みは、これかヘルマンヘッセでも読んどけ、と父に言われて育ったが…。まあ…、はは」

 「何がおかしいんです?」

 「いや、僕にはぜんぜん役に立たなかったなって思って」

 「それじゃダメじゃないですか」

 「読んで理解した恋愛と、現実に体験した恋愛では、いろいろと違うんだ」

 「そうなんですね…。私にもわかるんでしょうか?」

 「わかるさ。その日が来たら、震えることになるよ」

 「以前、先輩は、『恋はいつか誰かに奪われるもの』とか言ってましたが…」

 「ああ、そうだな」

 「一生そばにいますけどね。私は」

 「そうはならないこともあるんだよ」

 「私にはわかりません」

 「はは」


 隣の棚まで2人でブラブラと歩く。距離が少し近いかな…。大好き…。どんどん気持ちが募っていく。止められない。


 「甘楽、もう少し新しい作品がいいだろう? 『春の雪』とか『ノルウェイの森』とか…。うーん、有川浩や綿矢りさ、『いま、会いにゆきます』もいいが…」

 「先輩、なんで、こんなに恋愛小説があるんですか?」

 「みんな恋をしたがっているのさ。恋をしていない人も、いま恋をしている人も、昔恋していた人も」

 「なんだか欲張りですね」

 「そんなものさ。そのくせ自分が恋をすると臆病になる」

 「それって先輩のことですか?」

 「どうだろうな。僕は…」


 私は立ち止まって先輩のほうを振り向く。それに気が付いて先輩も本棚から私のほうへと目を移す。

 その言葉はただの好奇心のつもりだった。そう見せかけていた。


 「先輩の好きな人って誰ですか?」

 「その質問には答えられないな」

 「どうしてです?」

 「目下思案中だからね」

 「私とか、わりとおすすめですよ」

 「そうだな、うん…。あ」

 「あ、だけですか?」


 私はいたずらっ子になった気持ちで笑いながら、先輩の返事を待った。

 ふたりで見つめ合う。言葉が欲しい。いらないかも。怖いな。でも、うれしいな…。

 あきらめたように言う先輩の言葉は、私にはよくわからないものだった。


 「ああ、この世にすべての罪悪を煮詰めた物があるのなら、僕もそこに行かなくちゃな。僕のもそこにあるだろうから」

 「なんのことです?」

 「僕は君が思うほど良い人ではないよ。宝石のようなその気持ちは、誰かのためにとっといたほうがいい。僕のせいで、砕け散らせることはないさ」

 「私はそれでもいいって思ってます」

 「それは苦しくならないか?」

 「一度そうなってしまったら、もうどうにもならないんですよ」

 「ああ、それはわかるが…」


 先輩が押し黙る。愛していると伝えた。そして、私はふられたのだろう。

 でも、それでも、何度でも。

 ああ、好きな人を困らせるのは、ちょっと楽しいな。


 「先輩、まだ本を選んでくれていません」

 「そうだな。今日はそれが目的だったな」


 置いてある本が黒かったり青かったりする棚にやってきて、南里先輩は本を棚から1冊抜き出した。


 「しょせん僕はSFオタクだ。だから恋もSFを通じて語ってしまう。この新井素子の『ひとめあなたに…』を渡しておくよ。新井素子はライトな文体なくせに、やたら人が持つ泥を丁寧に描く。恋も友情もこの人にとってはどろっとした何かがだ。それがやがて『結婚物語』につながっていく。いまの君に必要なものはその道筋だと思う」

 「それって…。私に大人になれってことですか? 先輩、もっと…」

 「アキト」


 声を掛けられた。振り向くと、そこに星野先輩が立っていた。その隣には、私より大人びたワンピースを着たもうひとりの女の子。ああ、あれってもしかして兎賀先輩…。


 「ああ、悪い。もう時間か」

 「遅かったら迎えに来たよ。ごめんね、甘楽さん」

 「いえ、大丈夫です…。星野先輩」


 3人が楽しそうに話してる。お互いの境界線なんかないように。私にはあったそれがないように。

 ああ、もう、そうだね。

 あの輪のなかに、私はいないんだ。

 私は失恋したんじゃない。あの人たちに負けたんだ…。


 「大丈夫?」


 兎賀先輩が私に声をかけてくれた。

 あれ…。私、いまどんな顔をしているんだろう。

 頬に一筋だけ流れる何かを感じている。

 違う。違うの。

 南里先輩に手をゆっくり伸ばす。

 最初で最後のお願いだから。だから…。


 「泣いてるよ?」


 私と南里先輩の間に、星野先輩が立ちふさがる。取り出したハンカチを手にして私に近づき、耳元でささやく。


 「ありがとう、そしてさようなら」


 え…。

 ハンカチを私の手に握らせる。


 「返すのは今度のときでいいから」


 それだけ言うと、星野先輩が南里先輩と兎賀先輩のところへ戻っていく。私を、冷たく、無視して…。


 「じゃあまたな、甘楽」


 先輩は本当に何もなかったようにお別れのあいさつを私にする。

 …ああ。私、終わったんだ。

 このまま走り出して逃げたりなんてするもんか。そんなこと絶対。だって私は主人公だから。自分自身の人生の主人公だから。


 「はい、南里先輩! また!」


 私は元気よく返事する。まだ、だめだ。まだ…。



 本屋から出たら南里先輩がいないことを確かめた。それから走り出した。少しずつスピードをあげる。闇雲に走る。アスファルトを蹴るたびに、景色が次々流れていく。「わぁぁぁっっっ!」。叫ぶ。気持ちがあふれだす。それは水のしずくに変わっていく。止まらない。つらくて、悲しくて、悔しくて…。でも、私は恐れない。怖がらない。私はまっすぐに見つめる。南里先輩が好きだった自分のことを。私は走り出すんだ。いま、これからも、ずっと。





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次話は春川メグミがみんなを旅行に連れてく水着回です。旅先でメグミがハルカに思うことは…。

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