第16話 南里アキト「僕はミヤコが好きだから」
嫌われるというのは、思ってもみないほど心が傷つくことだった。たぶん、ふたりとも。
僕の頬を叩いたあの日、ミヤコは謝らなかった。ただ、うなだれ寂しそうにしていた。夕飯は頑として作ると言うので、これはミヤコなりの仲直りの方法なんだろうと勝手に思った。僕はただそれを受け入れた。湯気が立ち上る出来立てのご飯を見ながら、これが幸せなんだろうなと思う。僕はこの幸せを壊すことがミヤコの幸せになると思ってた。なのに…、こんなに心が苦しいのはなぜなんだろう。
朝からどんよりとした濁色の雲が立ち込めていたその日、ハルカの服を春川さんの家に届けていた。あの日、買ってきたハルカの服を本人に渡しそびれた僕は、ハルカに連絡したら「春川さんちに預けておいて」と一言だけもらった。自分とこにおいて置けばいいのにと思ったけれど…。
そこは古いマンションの一室だった。扉の横の呼び鈴を鳴らす。あれ、出ない。もう一度鳴らす。反応がない。留守かな…と思ったら、扉が開いた。髪はボサボサ、服はヨレヨレ、右手は白いテープだらけの春川さんがそこにいた。
「あの…。ハルカの服をここで預かって欲しいと言われて…」
春川さんがメガネをクィっと直す。ヒュン。そのまま僕に渾身の右ボディーブローを繰り出す。
「ぐほっ。なんで? いったいなんで?」
「お前は今から私のサンドバッグだ。そうなる理由がお前にはたっぷりとある。私を私としているすべてを賭けて、お前をぶん殴る」
「はい?」
「兎賀の服をくれ」
「これです…」
持ってきたたくさんの紙バッグを春川さんに渡す。玄関先にそれを置いて、春川さんが中身を見ていく。
「どれどれ…。くそ、金持ってんな。なんだこのレース…。ひいふいみーと、ああ、確かに兎賀に言われたとおりあるな」
「春川さん、ハルカはなんでここに服を…」
「私はいま忙しいんだ。線1本で数万円の世界にいる。というわけで、アリーヴェデルチ、だ」
「え? 何?」
「さようなら、だ」
「ちょ、ちょっと」
思わず締まりかけた扉を手で押さえる。扉の隙間から、春川さんが僕をにらみつけて早口で言う。
「お前に足りないものは、それは情熱思想理念頭脳気品優雅さ勤勉さ。そして何よりも。…勇気が足りない」
パタン。扉が閉じられる。その扉をただ見つめる。なんなんだった、あれは…。
いまにも雨が振り出しそうな空の中、ギリギリ傘を差さずに家に帰れた。殴られた腹が痛い…。さすりながら部屋の中に入ると、ミヤコがリビングのソファーで横になって倒れていた。
「どうしたミヤコ?」
「頭が痛くて…」
「薬は?」
「さっき飲んだ」
「ミヤコは昔から天候がおかしくなると体調が悪くなるからな…」
「ごめん…。今日の夕飯は出前か何かで…」
「気にするなよ。適当にやっとく。あっさりしたものでいいか?」
「うん…、ごめん…」
ミヤコが手をおでこに置いて、少しうめいている。
遠くで雷が鳴った。
会話らしい会話は、あれ以来久しぶりな感じがした。苦いことも甘いことも何でも当たり前にミヤコと話していたあの何気ない日常は、もう戻らない。僕は…。
ピシャと閃光が走る。雨がポツポツと音を立て始めた。
「ミヤコ、僕の首に手をまわして」
「え、あ、ちょっと」
ミヤコの前のかがみこむと、そのまま体を抱き寄せて持ち上げる。
「…重いよ」
「ミヤコは軽いよ」
自分の部屋まで運ぶと、扉を開け、ミヤコをそっとベッドに寝かせる。
「ソファーで寝るよりはいいだろ」
「まあ…」
ぐったりしながらとまどうミヤコに、薄い毛布をかぶせる。
「何かして欲しいことある? 水とか…」
「嫌いになりたくない」
絞り出すように言ったミヤコの言葉に僕の胸は締め付けられる。
「…どうすればいい?」
「こっち来て」
ミヤコが僕を引き寄せる。かわいいその顔が近づく。当たり前のように唇が重なる。何度目かのキス。互いを静かに吸い合う。唾液がいやらしく絡み合う。
ミヤコは唇を離しながらみだらに言う。
「もっと仲良くしてもいいんだよ…」
はわわわわ。だめだめだめ! 病人を襲うわけには! がんばれ僕の自制心! 発動せよ僕の自制心!
「くわっ!」
「くわ? あ、何すんのアキト、だめだって、そこはだめって、弱いの知ってんじゃん、や、待って、脇腹はだめだって。きゃははは」
「まだやるか」
「ごめん、もうしない…」
「病人はおとなしく寝とけ」
「わかった…」
「おやすみ」
灯りを消して扉を閉めるとき、ミヤコがそっけなく言う。
「ごめん、愛してる」
ようやく聞けたその素直な言葉を、僕はどうすればいいのかわからない。
雨音は激しくなり、水のしずくが乱暴に窓へ叩きつけられていた。ときおり稲妻に照らされる暗い部屋で、僕はどうにもならず、ソファーで横になって天井をぼんやり眺めている。
唇を手で触れる。どうしたら…。
スマホが短く震える。ハルカから通話したいという知らせだった。僕は適当に操作し、耳元にスマホを置く。そのまま寝ながらハルカの声を聴いた。
「やあ、旦那さん。ご機嫌はいかが?」
「ハルカ、つらい…」
「おやおや、嫁に嫌われてしまいましたかな?」
「嫌われることはつらくて…。嫌われていないことに安堵して…。そんな自分が嫌いで…」
絡んだ思考をそのままとりとめもなく話す僕をハルカはただ聞いていた。言葉が途切れると、ハルカが心配そうに言う。
「まだ言わないの?」
「言うのは怖いな」
「私も怖いよ」
「そうなのか?」
「誰だってそうじゃない?」
「そうか、そうかもな」
ビリビリとした音を感じたあと、窓の外が瞬き光る。ミヤコは寝られるだろうか…。
「なあ、ハルカ。あのあと、ミヤコに何かあったのか?」
「そうね、少し緊張をほぐしたというか…。後押ししたというか…」
「さっき、愛していると言われて…」
「やや、これは先手を取られましたな。そうなんだよ。私たちは敵同士からライバルに昇格したんだ。恋のライバルだよ」
「ライバル? ミヤコと?」
「ライバルってのは、仲良しなんだ。でも戦いについてはあるゆることを真摯に尽くす。そんな関係なんだよ」
僕はあきれたように目をつぶる。
「…ハルカも言うようになったな」
「くふふ。気が付いた?」
「ああ。そういう目で僕を見てるのか?」
「そういう目で見てほしいな」
「そんなさらりと告白するなよ」
「なら校舎裏で告白すればいい? 烏丸先輩のときみたく」
「見てたのか」
「安心して。私はいまの生活をアキトに取ってほしいから」
「そうなのか?」
「うん。いまは」
いまは、か…。
ハルカが聞いてくる。
「烏丸先輩とはどうなの?」
「3日に1回デートすることになった。そんな約束をさせられた」
「へえ、おめでとう。続けられるの?」
「最近ちょっと面白くなってきた」
「そっか…。まあ、あんまり私はお勧めしないけど。私はライバルの味方だから」
「それはなんか言葉がおかしくないか?」
「おかしくないよ。ちっとも。私はミヤコも好きだから」
こいつは…。
僕はひとしきり苦笑いをする。
「ハルカがミヤコを奪っていったら少し驚くな」
「それだけ? くふふ。好きな人にはいじわるしたくなっちゃうな…」
「持ってくなよ」
「ひとりにされるのも怖いでしょ?」
「まあ、やっぱり怖いな」
「そうしなければいいのに。ねえ、ミヤコをたいせつにしたら?」
「たいせつに思うからこそ別れたほうがいいんだよ」
「また、そういうこと言う」
「僕はミヤコが好きだから」
「そうだね。君はミヤコの旦那さんなんだから」
…。そうだな。
ふうと冷たい息を吐き、僕は手で顔を覆う。
「ああ。ハルカ、悪い、少し眠い」
「またね旦那様。甘くて優しい夢を」
スマホが枕元から床に転げ落ちる。まるで僕のように転落していく。白い閃光がそれをただ照らしていく。
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次話はあんだけ止めとけと言われた甘楽ジュンが南里アキトをデートに誘います。アキトに好意を匂わせる会話をしながら…。
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