第12話 南里アキト「まだ少しはわかるんじゃないか」
ヤバい。ヤバい。かなりヤバい。ヤバヤバヤバ。ミヤコふわふわだった。唇も柔らかかった。勢いで舌入れちゃった。なんかすごかった。ざらっとして滑らかだった。はううう。どうしたらいいんだこれ!
耳の先まで真っ赤に沸騰させながら、まだ暑さが残る夜の街を小走りに歩いていた。ありがとう自制心、ふざけんな自制心、という相反する気持ちを抱えながら、必死に落ち着こうとしていた。そりゃ今までにミヤコと行き過ぎたスキンシップはなかったとは言わない。でもあそこまで気持ちが昂ぶったのは…。はわああああ。立ち止まって顔を手で覆う。そのとき、ようやくスマホに連絡が来た。画面に顔を青白く照らされながら、ぼそりとつぶやく。
「ごめんな。いま僕は、お前しか頼れないんだ」
坂の途中にある別所坂公園。狭い階段を登れば、広がる砂場と広場の風景。夜の公園はとても静かで、どこかの異世界のように感じられた。山の途中にあるこの場所からは街の夜景がよく見える。少しせり出したところから夜景を眺めていたその人に、僕は声をかけた。
「ハルカ、急に呼び出して悪かった」
「どうしたん?」
点々と光るビルや家々の灯りを背景に、つややかな髪をふわりと舞わせて、ハルカは僕のほうを振り向く。
ハルカを見たら、どこをどう話したらいいのかわからなくなってしまった。ふと、ミヤコの顔が重なってしまう。はううう。
「…なんか、あったの?」
「さっきミヤコに抱きつかれて…」
「ノロケですか、旦那さん?」
「違うんだ、その…」
諦めたように僕は言う。
「女の気持ちを教えて欲しいんだ」
ハルカはそう言った僕をただ見つめていた。
何かを訴えるような目線で、僕はじりじり炙られていく。
何かこうどうにもいたたまれなくなり、少し早口で話し始めた。
「ハルカならまだ少しはわかるんじゃないかと思って。あ、いや、嫌だったらいいんだ。でも、自分でどうしたらいいのか、わからなくなって、そんなときハルカの顔が浮かんで。僕にはぜんぜんわからなくて。それで…」
「うん、いいよ。聞くよ」
ハルカはそう言うと少し寂しげに笑った。
2人で夜の公園のベンチに座る。少しずつ話していく。烏丸先輩に部室で襲われたこと。ミヤコに嫌われて欲しくて、烏丸先輩と付き合いだしたこと。ミヤコとさっきあったこと。たぶん僕は「女ってわかんねーな」とか言って欲しかっただけかもしれない。ハルカはそんな僕に怒っていた。
「頭おかしくない?」
「いや…」
「2人とも、かわいそうでしょ?」
「それはわかってる。でもな…」
「女の子には優しくするもんだよ」
「それもわかってる」
「女の子の気持ちっていうけどさ、それだけ気が付いているのに、なんでそうなるの?」
「わからないんだ」
「はあ…。それはわかろうとしていないだけなんじゃない?」
「烏丸先輩にも同じことを言われたよ」
「うーん…」
ハルカはあきらめたようにそれだけ言うと、黙って足をぶらぶらとさせた。そんな足先を見つめながらぽつりと言う。
「わかってしまったら、いけない理由があるんだろうね。愛したらよくないことが起きるとか、なんかそういう…」
「そうだな…」
話していいか迷ったが、ハルカには聞いて欲しいなと思った。ぽつりぽつりと少しずつ話していく。
「ミヤコの家とうちは『仲良く』成りたがっている。商売的なところもあるけれど、ある意味で家族になりたがっているんだ。父方の祖父がある新聞社を作った人でね。母方は政治家が多いし。だからミヤコがほぼ毎日僕の家に来ていても、僕らに文句ひとつ言わない。檻にいっしょに入れられて、いつ子供が出来るんだと観察されてるパンダみたいなものだ」
「それで?」
「でも、うちはそろそろ家族として維持するのがむずかしい。親が別れたら、いまの家業が維持できるかどうかわからない。そうなったらミヤコの家から利用価値がないと見られるだろう」
ため息をひとつだけついて、次の言葉をひと思いに吐き出す。
「檻が消えてしまうんだ。檻が消えたパンダたちは最初とまどうだろう。でも、やがて見てしまう。今まで愛し合おうとしていた人が元気よく外の世界へ歩き出すのを。ミヤコには幸せになってほしいんだ。僕よりももっといい人と。檻の外にたくさんいるいい人と」
情けない奴だとか罵られたかった。ハルカはそんな僕に静かに声をかけた。
「やさしいね」
「そんなにいい男じゃないさ」
「星野さんのこと、好きなんだね」
「それは…」
ハルカの白い手が僕の頬にやさしく触れる。
「愛してあげたら。こんなに両想いなんだから」
「むずかしいことを言うなよ」
「置いていかれるの怖い?」
「怖いな。ああ、怖い」
「そう…」
ハルカがすらりと動いた。両手を僕の頭に絡めて、ゆっくり引き寄せる。ハルカの胸で僕が抱きしめられる。少しびっくりしたけど、僕はそれに身をゆだねた。ハルカの心の音が聞こえてる。とてもやさしくて、おだかな音が流れている。
「いつかそうなるとしても、好きな人と愛し合った気持ちは、とても大切なものだよ。その日が来るまでは、たくさん愛してあげて」
「そうだけど…、それでも…」
あ、あれ…。なんで泣いてるんだ。なんで…。じわじわと顔から水が流れていく。
「悪い…、なんか…」
急に恥ずかしくなった僕はハルカに詫びる。ハルカが少し強く抱きしめる。
「大丈夫…。大丈夫…。きっと大丈夫…」
ハルカは自分にも言い聞かせているようにそうつぶやく。ぽんぽんとゆっくり僕の背中を叩いている。僕はただ声を押し殺してすすり泣く。
「出すもの出しときな」
「そんな何かみたいに」
二人で少し笑う。
僕を抱きしめていたハルカの腕が静かに緩む。体をゆっくり起こすと、ハルカがこっちを向いて言う。
「じゃあ私からアドバイス。これ」
「なにこれ?」
「買い物袋」
渡されたそれは、ひげ面の男がニヤリと笑った写真が袋一面にプリントされていた。
「たまにハルカはすごい趣味してるな…。で、これをどうするんだ?」
「遅くまでやってるそこのスーパーに行こう。いっぱい食材を買うんだ。お肉もおさかなも…。たぶん星野さん泣きまくってると思う。おなかが空くんだ、たくさん泣くと」
「なあ、ハルカ、お前は…」
なんでそんなことを。僕の気持ちを察したかのように、ゆっくりと振り向きながらハルカは言う。
「いつか話すよ。でも、いまはそのときじゃないから」
僕の腕をハルカが引っ張る。
「ほらほら、買い物してご飯作ってあげな。それぐらいはできるでしょ? ちゃんと優しくしてあげて」
ハルカが少し笑う。僕はハルカの手を握る。ありがとうと声に出さずに言った。
部屋に差し込む朝の陽ざしが夏を告げてる。キッチンでサラダ用のレタスをちぎっているとき、リビングからミヤコがふらふらとやってきた。泣き腫らした目は眠そうに半分閉じてて、髪の毛はぼさぼさだ。手には背中にかけといた薄手の毛布を握っている。これはなんか小動物ぽいかわいさがあるなあと、ぼんやり思う。
「ごめんなミヤコ。リビングからベッドに連れて行こうとしたけど、起こすのもアレかなと思って。しんどくないか?」
「ううん、平気」
「良かった」
ミヤコが首をゆっくり振ってあたりを見回す。しばらくして状況がわかったようで、ぽつりとつぶやく。
「外泊したのに…。いちばん無意味な外泊だな、これ…」
「そんなことないさ。朝ご飯を一緒に食べられる」
「そうね…」
「もう少しでできるから。ちょっと待ってて」
「うん…」
ミヤコがぽたぽたと戻っていく。食卓から小さな音が流れ出した。
「あ、ミヤコのスマホ、さっきから鳴っているよ」
「え、あ、芝原からだ。ちょっと電話するね」
キッチンから見えるところで、ミヤコがスマホを手に話し始める。
「芝原ごめんー。朝一緒に行くのすっぽかしたー。え、いま? …。アキトの家…。ちょ、勘違いしないでよ!だーから違うって!ほんとだって!信じてよ!赤飯なんかいらないって。そりゃあんたんとこの赤飯はおいしいよ。だーかーらー。ああもう。うん、うん、続きは学校で。うん、わかってる。それじゃ」
ふうとため息をもらすミヤコ。なんかこう、ちょっとかわいそうに思って声をかける。
「たいへんだな」
「いや、まあ…」
ばつが悪そう、ってこういうことなんだろうな。勉強になる。
「ご飯食べられる?」
「うん」
お味噌汁にご飯、焼き鮭に目玉焼き、味付け海苔、サラダにお漬物。昨日ミヤコが作って作り置きしておいた僕の好きななすの揚げびたしも。
テーブルにみんな並べて、いただきます。
「目玉焼き美味しい。黄身がトロトロ」
「それは良かった。ちょっと買い物してきたから、あとで冷蔵庫見てくれ。今日の夕飯はそっからでいいから」
「うん…」
ふと、ミヤコの箸が止まる。
「ごめん…」
「気にしてないからさ。あー、気にしたほうが良かったか? …はは。さ、食べよ」
それからはあまり話さず、もそもそとふたりでご飯を食べていった。
バタバタと支度して玄関先にやってきた。学校には少しギリギリだが、まあ間に合うだろう。
目の前でミヤコが靴を履いて、足をとんとんとしている。
「そのままでいいのか?」
「ちょっと汗臭いかな…。まあ、着替えに戻ってたら遅れちゃうし、1日ぐらいならなんとか」
「そうか」
「…結婚して一緒に暮らしたら、これが毎日になるんだね」
「え? あ、そうかもな…」
お互い顔をあちらに向いて伏せる。いまどんな顔になっているんだろう…。
「遅れちゃうね。じゃ、行こうか」
ミヤコが扉を開ける。夏の熱気がふたりを包む。
「今日も暑くなりそうだね…」
ミヤコがそういうと、僕の手をやさしくつかむ。ふたりで歩き出す。夏の暑い日差しが僕らをゆっくり焦がしていく。
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次話は星野ミヤコが取った手を知った兎賀ハルカが動き出します。それを見たミヤコは歯噛みして…。
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