第7話 春川メグミ「男同士のアレが見たい」
交差点、俯瞰した街並み、学校の校舎、古い家の軒先、ひたすら背景絵を液タブで描きながら、痛くなる指先と肩、かすみだした目を感じていた。もう午前2時だ。学校に行くまでには描き終えるが、具合が悪いと言い張って保健室で眠るコースだろう。
つらい。
創作は苦痛しかない。
どんなにいい絵を描いても世界からは無視される。ほめてもらっても、その人は5秒過ぎたら違う絵師のほうを向いている。好きな絵を描いていたい。でも見る人に向けたものを描けと強要される。神絵師という言葉があるが、私は仏絵師と言いたい。この地獄のような苦界が永遠と続く世界で、どうして彼らは飄々と歩いていけるのだろう。
右手の親指に巻き付けていたテーピングがゆるくなる。にぶい痛みが頭に伝わって思考を邪魔してくる。仕方なしに手を休め、すぐ近くに置いてあるテーピングテープを取り出した。指にテープを張りながら、PCをふと見る。通話の知らせがポップアップされていた。ヘッドセットを付け、通話を受諾する。つながったら、すぐに相手へ声をかけた。
「あ、姉ちゃん。そっち大丈夫?」
「メグミー、ごめんね。急にこんなことになっちゃって」
「私は平気だけど、キャラのペン入れとか間に合うの?」
「そこはほら、絵師としての意地があるから」
「そっか。私だと姉ちゃんの線は真似できないからなー。あんな艶のある線はむずかしいよ」
「背景を私よりうまく描ける人が何言ってますか」
「でも、たかが背景だよ?」
「されど背景よ。白い原稿にならないから緻密感も出るし。私の作品の売り上げはメグミに支えられていると言っても過言ではない」
「はいはい。いつもどうも」
「あはは。それで先生、進捗は?」
「朝の6時には渡せると思う。クラウド経由でいいんだよね」
「ありがたやー。それで大丈夫だよ」
「ほかの作業は? アシの人たち、みんな間に合いそう? なんなら手伝うけど」
「なんとかなりそう。表紙をちょっと遅らせてもらったりしたから」
「急な代原はたいへんだね。あちらもこちらも」
「休んだ原沢先生もたいへんだよ。お子さんあんなことになっちゃって」
「そういや仲良かったね」
「まあ同じ号でデビューした同期だからね。いっしょに表紙飾ったときはうれしかったな」
「どっちがより実用的か暴れてたくせに」
「BLはねー。使えるかどうかが重要なんだよ。そうじゃないと売れないから」
「そうだね。いつも学費をお支払いいただきありがとうございます」
「くるしゅうない。…もうふたりきりの家族なんだから、気にしちゃダメだよ」
「そうだね…」
黒縁の重たいメガネを外し、目元を押さえる。眠気はなんとかなりそうだが、蓄積した疲労はどうにもならない。学校を早退して液タブの前に座ってからすでに20時間が過ぎていた。
「姉ちゃん、仕事場から帰ってこれる?」
「これ終わっても表紙をやらないとだから、そうだなー、あさってぐらいかな」
「よかった。ちゃんとベットで寝なよ」
「おまえもなー。あはは。古いね。少し元気出た。ありがとうね」
「うん、じゃ作業に戻るよ」
「お願い」
通話が切れる。手でヘッドセットをばさりと取り、ベットに放り投げる。ふううと深く息を吐き、気持ちを切り替える。
姉は壁サーから商業に移り、それなりに名前が売れている漫画家だ。その腕一本で私と生活を支えてくれている。ただ、雑誌の原稿料や単行本の売り上げだけではむずかしい。VTuberたちのキャラデザ、グッズ、商業連載の話を使った同人誌といったものを作って売ることで、どうにか暮らしていける。
いつしかこの姉を超えたいと思っていた。姉より売れて姉を楽にしたい。そうしなければ父と同じように倒れるのは必然だ。あのときの茫洋とした不安がよみがえる。
いかんいかん。いまはこっちに集中だ。
液タブに向かい合う。資料用に撮った写真から、いま作業しているコマに合いそうなものを探す。スクロールしていくと、教室で撮ったもののなかに兎賀たちが映っていた。
あの会合。あのふたり。
…なんだあれ、なんだあれ!
思い出して笑いがこみ上げてくる。何が恋愛は戦いだ。アホらしい。
あのバカ女たちを騙しつつ、私の願いを叶えさせてもらおう。
私の願いはただひとつ。
男同士のアレが見たい。
これしかない。
姉を超える絵師になるためにはどうしても必要だった。匂い、音、声、みんなリアルに感じたい。間近でひたすら観察したい。動画ではわからないそのすべてを。それを元に絵を描けば、きっと姉を超えられる。姉の領収書を整理していたとき、ゲイ風俗の店のものがまぎれているのを見つけて直感した。しかもふたりぶんの料金。何をしたのか私でもわかる。
聞けば南里と兎賀は仲が良いそうじゃないか。嫁と恋人が焦るほどの。なら、あのふたりをくっつけてしまえばいい。目の前で始めてもらうにはどうすればいいだろうか。簡単なことだ。彼らの協力者の位置に居続ければいい。二人にとって親密な友達以上になりさえすれば、あとはどうにでもなる。
はは。何がクラウゼビッツだ。それならこっちは孫子だ。韓非子だ。中国戦国時代こそ、すべての軍略の源よ。「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」。お前たちが愛しているものをみんな奪ってやる。
たぎる。最高にたぎる。心のちんぽがおっきする!
「ちんぽ、ちんぽ、ちんぽっぽ。ちんぽの国からこんにちわ~♪」
下品な歌を歌うと気がまぎれる。苦痛が少し遠のく。魔剤よりはだんぜんいい。液タブの上を通るペン先のスラスラとした音だけが、味気のない虚ろな部屋に響いていく。
「よっすー、兎賀さん。帰るとこ?」
「あ、春川さん。体は大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。寝たら治った」
「くふふ、元気だね。あ、こないだはありがとう」
「いえいえ。役に立ったら何より」
「女の友達っていなくて。星野さんや烏丸先輩には聞きづらいし」
「そうだよね。化粧、服装、アクセ、なんでも聞いていいよ。…いろいろ相談に乗るから。誰にも言えないことでも」
私たちは微笑み合う。それはやがてゆっくり曇っていく。
「アキトは…。喜ぶんだろうか」
「奇麗でかわいいものを喜ばない人なんかいないよ」
「そうだったらいいね」
「別にいいじゃない。
好きなことをすればいいんだよ。女になろうが男になろうが」
「そう簡単にはいかないんだ」
「簡単だよ。最近は社会も変わってきたよ」
「社会は変わっても、私は許されないから…」
「こんなにかわいくて奇麗なのに」
「それがいいこととは限らないんだよ」
兎賀は何をされてきた? なんでそんなに自信がない?
「ねえ、兎賀さんはどうなりたいの?」
しぼんでいくようだった。とても困ったように顔をゆがめてうつむいた。踏み込みすぎた気もするが、ここで真意をはっきりさせたほうがこれからの展開にもいいだろう。
「…あいまいなままでいられたらよかったのにね」
それは私が許さない。ここは押すに限る。
「アキト君を独占しちゃえば?」
「それは…」
「そうすれば君の悩みもだいぶ減ると思うんだけどな」
「それはまた別の悩みが生まれるだけだと思う」
「そんなことないよ。聞いて、会って、確かめて。2人でそれを繰り返していけばいいんだよ」
「そうだね。それができればね…」
ため息をつかれる。少し押しすぎたか。
「私は君たちの味方だから。何があっても」
念入りに笑っておく。兎賀は迷っている顔をしている。そうだ、考えろ。ほかに道はないんだ。
星野たちは勘違いしている。彼らは恋愛としてはまだ双葉が芽生えたところ。いま枯らしてしまうわけにはいかない。兎賀が何にとまどっているかわからないが、相手はこれだと言い続け、道を間違えないように導びいていく。ジョウロで水をやるように育んでやる。二人が結ばれるまで。
「ありがとう」
兎賀が目を細めて笑う。とても艶がある。それは、どこから来ているのだろう。細い首筋か。それとも揺れるつややかな髪か、整えられた指先か。私でも持っていかれそうになる。…待て、何が持っていかれる?
「じゃあ、春川さん、またね」
「あ、うん。またね」
小さく手を振って、兎賀を見送る。
推しに触れようと思うなんて、私もまだまだだな。はは…。
少し離れてから私も歩き出す。歩きながら次の手を考える。やはり南里にもリーチをかけたほうが…。
「ひッ」
廊下を曲がった先に、烏丸先輩がいた。
目が笑っていない。聞かれたか。
ゆっくりとした話し方で烏丸先輩が私を問いただす。
「お前、何をしている」
「何って、あなた方がフェアに進むよう…」
バンっ。
なるほど、これが壁ドン。参考になる。
おいおい、衝撃でメガネがずれたじゃないか。
烏丸先輩が怒気を隠さない低く静かな声で言う。
「余計なことをするな」
「余計なことをしないと、相手にされなくなりますよ。烏丸先輩」
「な…」
お前が後生大事にしている女のプライドというものをくすぐってやる。
「先輩は恵まれた容姿をお持ちなんですから。あとはわかりますよね」
「く…」
「そのための露払いはしておくので、どうかご存分に」
烏丸先輩が壁についてた手をゆっくり降ろす。
「小細工はいらない」
「それは失礼しました」
「アドバイスはもらっておく」
見捨てるように一瞥したあと、廊下を歩いていく烏丸先輩。その後姿をしばらく立ちすくんだまま見送る。
メガネをかけなおしたら、自然と笑みがこぼれた。
あはは。怖かった。
さあて。
踊れ踊れ。私のために。
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次話は春川メグミにアドバイスを受けた烏丸先輩が暴走します。何をしでかすのでしょうか?
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