第3話 烏丸スバル「綺麗だから言うことを聞いてくれる」
弓道場には凛とした空気が満ちていた。弓に矢をつがえ、それを頭の上までゆっくり上げる。弓を引き分けながら体につけるように矢を下ろし、まっすぐ的を見る。息を整え、的が大きく見えた瞬間、矢をつまんでいた手を離す。矢はうなりをあげて飛び、ストンという小気味良い音をさせて的に刺さる。ゆっくり息を吐きながら弓をおろす。ああ、今日はちょっと調子がいい。このときだけはまっすぐでいられる。
後ろにいた後輩の部員たちから少し歓声があがる。手を振ってあげると、さらに歓声が大きくなった。
こうしていられるのは夏休みまで。それからは受験勉強に時間を割くと決めていた。大学は「容姿が奇麗」では入れてくれないから。
好きだと言ってたくせになかなか会おうとしない南里にイラついていた。返事が来ないスマホを眺めながら、どうしたものかと考える。こんなことは今までなかった。どんな男でも喜んでいたのだ。奇麗な私と一緒にいられることを。
小さい頃から奇麗だった。「奇麗なお嬢さんですね」と言われ続けた。だから自分に自信を持てた。髪を美しくし、似合う服を探し、笑顔でいた。そうしていれば、勝手に男たちがいろいろ世話を焼いてくれた。奇麗だからこそみんなが言うことを聞いてくれる。それはちやほやされない同性達を見ながらそう思った。
中学に上がってからは、それが度を過ぎた。何人もの男が私が好きだという。叔父もそうだった。「お前が奇麗だから悪いんだ」と言われた。それを知った母に叩かれた。女はみんなそうだ。いつだってそう。
岡部に告白されたときは体を触ろうとしてきた。
鈴川に告白されたときは視線はいつも胸を向いていた。
長谷野に告白されたときは叔父と同じ欲望を巧みに隠した言葉使いをしていた。
何度もわからせられた。好きだって言っても、どうせ奇麗なものを汚したいという衝動に駆られているだけだ。
高校に上がる頃には、男たちと折り合いをつけられるようになった。みんなに言うことを聞いてもらうためには、奇麗な私を続けなければならないから。
南里はちょっと今までにないタイプだった。今までの男たちのような気持ち悪い言葉も探るような視線もなかった。生徒会の仕事を同性から押し付けられたとき、南里はただ黙って仕事を私と半分に分け、黙々とこなしていた。私を気遣い、作業が遅れていたものも引き取ってもらった。今までそういう男に出会ったことがなかった。素でやさしいのだろうと思った。この不思議な男をそばに置きたい。そんな気持ちが出てきたときに告白された。まるで恋をしていないかのように告白された。
スマホが震える。ようやく来た返事に少し胸をなでおろす。そして気がつく。これではまるで恋する乙女ではないか。私がそんなことになっているなんて、なんだかとても新鮮だ。
お互いのことを知りたい、というので、南里が選んだのが図書館だった。おいしい料理も美しい夜景もない。デートの場所にしてはずいぶんだなと正直思ったが、それはそれで面白いと感じていた。
土曜の昼下がり。夏の日差しがそろそろ全力になって照りつけていた。南里に言われた区の中央図書館に向かう。有名な建築家が立てたそうだが、大きいばかりで、導線が整っていないから玄関にたどり着くまで苦労するようなとこだ。閉口しながら歩くと、建物に入ったところに南里がいた。ラフめな明るい色のシャツがよく似合う。「待った?」と声をかけると「大丈夫です!」と言われた。何が大丈夫なんだろうか。彼はうれしそうに続けて言う。
「烏丸先輩、これから5冊だけ本を選んでください」
「え、何かのゲーム?」
「先輩のことを知りたいんです。僕にはこれぐらいしか知る方法が見つからなくて」
「うーん…。そういうなら付き合うよ。どんな本でもいい?」
「はい、先輩が気に入ったものでいいです」
「そうか…」
案内板の前で立ちすくむ。部活に関する本はそれなりに読んでいるが、それはたぶん間違いだろう。何が正解なのかわからない。私を知りたいという南里にどんな本を渡せば私を知らせることができるのか…。現文の授業で読んだ本とか記憶を総動員してみても、どれがその正解になるかわからない。固まっていたら南里が助け船を出してくれた。
「悩みますよね。僕もそうでした」
「僕も?」
「ハルカが…兎賀さんが、この方法を最初に教えてくれたんです。わりと楽しくて。あんまり考えず適当にフィーリングで選んでいいですよ」
「そうなのか」
それから純文学のコーナーを最初にめぐり、目に付いた本を拾っていった。高いところにある本は、南里が自然に取ってくれた。基本的にはやさしい男だ。ただ、行動や気持ちがよくわからないが。
いくつかの棚を巡ったあと、閲覧用の机の上に持ってきた5冊の本を並べる。
「先輩、教えてください。一冊ずつ」
「ああ、これはそうだな…。『春琴抄』は谷崎潤一郎の課題が授業で出たときに読んだ本で、怖い話のように最初は思ったけれど、読み返すとなんてまっすぐな純愛なのだろうと思った。何より2人の関係がとても奇麗で美しく感じたんだ」
「なるほど。これは?」
「この『後宮小説』は基本的には主人公が後宮という異世界に触れる話だが、それよりは最後に皇帝を受け入れるところの印象が強くてな。
『また、同じ夢を見ていた』は自分にとっての幸せはなんだろうと読後に考えさせられた。人に望まれる幸せと、自分が良しとする幸せにはだいぶ差があると気が付いたんだ。それからは同性の小言も無視できるようになった。…つまらないか、こんな話」
「大丈夫ですよ。楽しいです」
「そうか…。『夜は短し歩けよ乙女』は基本的には作者得意のドタバタとした話だが、ここまでする男に追いかけられたいと思ったんだ。
『言の葉の庭』は映画が気に入って小説も読んだ感じで、小説のほうが内容が細かくて好きになれた。とやかく言われるが、あの二人の関係に憧れたんだ。ああ、そういえば舞台となった新宿御苑にも行った…」
そこまで言って思った。これは。…かなり恥ずかしい。自分の頭の中をさらけ出しているようで、今この場で全裸になるよりも恥ずかしい。
「先輩。顔真っ赤ですよ」
「いや…、ちょっと…」
「なんだか先輩って、とても女の子なんですね」
南里の顔を見上げる。その顔はにこやかに笑っていた。なんだかとても理不尽だ。彼は続ける。
「尾崎翠もよいですよ。先輩を見ていたら彼女が描いた町子とかちょっと思い出しました」
「なあ、南里。お前は…」
言いかけて口をつぐんだ。お前は私の何なのだ。恋人ならもっとそれらしいことをしたらどうだ。でも、それを言ったら、もう関係は続けられない。あわてて話題を切り替える。
「…南里のも教えなよ」
「確かに。不公平ですよね。5分待ってもらえますか」
彼は本当に5分ほどで戻ってきた。私に読んでほしいものが元々あったのだろう。私のように本を考えながら選ぶことがなかった。丁寧に1冊ずつ本を机に並べると私と同じように説明しだした。
「『竜のグリオールに絵を描いた男』は僕が最初の頃に読んだSFです。悪い竜を完全に死なせることができず、毒の入った絵具を塗り込めてじわじわ殺していくというのが話の本筋なんですが、それをとりまく人間たちの本質に、僕が置かれている環境のことがわかったというか。わからせられたというか。
『リングワールド』はSFの大御所が書いた本で、ある惑星を探検する話なのに結局ひとりの女に振り回されてたというところが面白くて。すみません、先輩。SFばっかりで」
「いいや。大丈夫だ」
「良かった。続けますね。日本のSF作家では筒井康隆や小川一水、草野原々とかが好きな作家ですが、その中でも椎名誠の不思議な文体が大好きなんです。『アド・バード』は最初に読んだ本で、危険な生物がいる荒廃した世界を主人公たちが旅をするんですが、その中に出てくるキンジョーといういい加減な男がもうとにかく好きで。
横にある『闇の左手』はSFでは名作のひとつなんですが、読んだらSFの皮を被った山岳小説のように思いました。SFって何でもありなんだなと思えた作品でした。
『ぼくがハリーズ・バーガー・ショップをやめたいきさつ』は少年が異世界の人たちと触れ合ううちにその異世界へ旅立つことを決心する話なんですが、異世界側の人間から『お前はまだこの世界で知らない場所がたくさんあるんだぞ。それでも異世界へ行きたいのか』と諭されるところが刺さりました。…こんな感じです」
「あまりわからないが…。南里はどこかに行きたいんだろうな、きっと」
「…そうかもしれませんね」
笑顔が消えていく。旅立ちたい男。それはきっと今の場所から逃げたいだけなんじゃないか…。
イライラする…。なぜ私を置いていこうとする。
「なあ、南里。お前は…」
「先輩、僕の選んだ本を読みたいと思いました?」
「ああ、とりあえず何冊かは」
「そう…、ですか…」
私があまり読みたくないのを察したように見えた。仕方ないだろう。違いすぎるんだ。
「先輩とはたぶん見てるものが違いますね」
「そうかもしれないが…。そもそも男女なんて、同じものを見ていないだろう? そこから少しずつ歩み寄っていくものじゃないのか?」
「ハルカは違うんです。ハルカは…。あ…。ごめんなさい。僕は女の人がよくわからなくて」
なぜ、ここであれの名前を出す。もうだめだ。
「それは、わからないんじゃなくて、わかろうとしていないだけじゃないのか?」
「そうですね。そうかもしれません…」
南里が口をつぐむ。やりすぎた気もするが、私は間違っていない。間違っていないはず。はずだ。でも…。
すれ違う。
あらゆるものが何もかも。
私はいたたまれない気持ちになり、なんとか取り繕おうと純粋に思った。
「なあ、このあと、ご飯でも…」
「すみません、先輩。ミヤコがご飯作って待っているんで」
「そうか…。じゃ、来週の…」
カレンダーを見ようとスマホを取ったら、南里はそれを手のひらでやさしくゆっくり包み込んだ。
「先輩、また連絡します」
自宅に戻る。ガラスのテーブルと木の椅子。そっけないシンプルなデザイン。ひとり座る私。あれから連絡は来ない。選んだ本は失敗だったのか。それとも話した言葉が間違いだったのか。いいや、そんなことはない。でも…。
いろんな考えが頭をめぐる。何が正解かどうかわからない考え。
恋人なのか? 付き合ってると言えるのか? そもそも南里から告られたんだぞ。おかしいじゃないか…。
いままでふったことはあってもふられたことはなかった。
どうしてこうなった…。
はああ、と大きなため息をつく。机に突っ伏すとひんやりして気持ちいい。
誰かに話したい。話したら楽になる気がする。でも…。同性は私のことを嫌っている。男子たちに話してもあわよくば次の恋人には自分が…となるだろう。話せる人が思いつかない。
あ、そうだ。
「嫁にでも相談してみるか…」
次の日の放課後、学校の近くにある古い喫茶店に入ると、南里の嫁こと星野ミヤコが、クリームソーダのアイスを柄の長いスプーンですくって丁寧に食べていた。すまんな待たせて、と声をかけ、テーブルの反対側の席に腰かける。実に嫌そうな顔で私をにらむ。
「なぜ私に…」
「いや…、相談がしたくて。南里のことで」
「私のこと、知ってますよね?」
「ああ、嫁だろ?」
「…先輩、ちょっとズレてません?」
「そこだよ。南里とちょっとズレてて。なんかおかしいんだ…。私は間違っていないはずなんだ。でも、連絡が来なくて…」
「はあ。少しはいきさつをアキトから聞いてますけど」
「なんて言ってた?」
「図書館でデートしたぐらいですが」
「そうか…。なあ、私たちは本当に恋人同士なのか?」
「それを私の前で言います?」
「いや…、ほかに相談できなくて。あいつのことなら何でも知っているんだろう? なあ?」
「そりゃ…まあ…」
「私のどこを南里は気に入ったんだろうか?」
「知りませんよ、そんなの。本人に聞いてみてください」
「それができないから聞いているんだろう」
星野が握っていたスプーンをテーブルに置く。カチンと乾いた音がした。
「先輩は乙女なんですね」
「な…」
「私が二人の間を応援するとでも?」
「お前…」
「アキトはいつか私のところに帰ります。先輩に自信を持って言えるのはそれだけです」
「…ははは」
「おかしいですか?」
「あいつから告ったんだぞ。ありえないだろ」
「私は先輩のほうがありえなく見えますけど」
「どういうことだ?」
「もう…。いちいち言っても仕方ないですけど、アキトは本の虫で、できれば本に埋もれて暮らしたいとか平気で言う人間なんですよ」
「それが?」
「先輩がいままでに見てきた男たちとは違うんです。こまめに連絡なんかそうそう出来ませんよ。本を餌にしない限り」
「そうか…、そんな手が」
「なんで私がこんなことを…」
「ああ、そういえば本の話で、兎賀の名前が出てたな。あいつら本のことで結構やり取りしているらしく…」
「はああ?」
星野が心底嫌な顔をして驚く。私もそれを見て驚いた。
「初耳か?」
「いや…。最近、仲良くしているのは見てますが…」
「ははーん、心配なのか? 取られそうで。ははっ。男同士で恋愛できるわけないだろ?」
「先輩、それ本気で言ってます?」
「ああ。だって、おかしいだろ、そんなの」
「いやいや…。先輩はもっと危機感を持ったほうがいいですよ」
「まさか。あの男女に正真正銘の女が負けるわけがない」
「負けとか…」
星野が立ち上がる。レシートをつかむ。
「烏丸先輩、もう少しいろいろ見たほうが良いと思います。アドバイスしましたからね」
「ああ」
そのまま星野は、ずかずかとレジへと向かう。
よいアドバイスをもらえた。そうか本の話題をすればいいのか。たくさん読まなきゃな。男に合わせることはいままでにないことだった。いつだって男のほうが私に合わせてくれていたから。ようやく私は安心して笑えることができた。
---
次話は星野ミヤコが危険視した兎賀ハルカを排除しようという話になります。南里アキトから遠ざけることはできるのでしょうか…。
良かったら「応援をする」を押したり、フォローをお願いします!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます