第5話 家鳴

 ~家鳴やなり……日本各地の伝承にある怪異の一つで、家や家具が理由もなく揺れ出す現象。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、小さな鬼のような妖怪がいたずらをして家を揺すって家鳴を起こしている絵が描かれているが、現代では西洋でいうところのポルターガイスト現象と同一のものと解釈されている。なお、現代でも温度や湿度等の変動が原因で、家の構造材が軋むような音を発する事を「家鳴り」と呼ぶ。特に建材が馴染んでいない新築の家で起こることが多く、ひどい場合は欠陥住宅として建築会社と家主がトラブルになることもある。※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋~


 このマンションが新築されたと同時に入居して早十年になる。


 これまでずっと平穏無事に暮らしていたのだが、昨年に越してきた隣人家族の所為せいで、僕ののどかだった単身生活はぶっ壊された。


 前の隣部屋は女性の一人暮らしで、それはそれは静かなもんだった。しかし、此奴こいつらと入れ替わったその日から、丸で悪夢の様な地獄の日々が始まったのである。


 今現在の隣は旦那、嫁、生後間もない赤児の三人世帯。何度か階下ですれ違い、挨拶を交わした程度の関係性だ。


 一番辛く厄介なのが赤児の泣き声である。


 どうやら嫁の方は専業主婦で、赤児と四六時中、ほぼ自宅で引き籠もり状態らしい。従って、昼夜を問わずのけたたましさが延々と続く。


 実は自分もフリーランスの在宅ワークの為に、食料の買い出し以外は殆ど外出しない生活だ。なので、耳障りな音などは兎角気になってしまうし、とんだ迷惑なのである。


 そんな訳で、まずは耳栓や壁に貼る遮音シート等々を試してみる。結論から言うと駄目だった。これは隣の部屋が、ドアや窓をしっかりと閉めてくれれば成り立つ話で、ほんの僅かでも隙間があると、効果を半減させてしまう。本人はきちんと閉めたつもりでも、少しだけ開いていた何てケースもザラにあるので、皆さんもお気を付け遊ばせ。


 次にキツいのが衝撃音や振動音だ。


 何事の最中さなかなのかは謎であるが、隣は日毎夜毎ひごとよごとに、増改築工事でもしているのかと疑うレベルで騒々しい。こいつに到っては、前述の耳栓や遮音シート何ぞ、全く意味をなさない。


 ほとほと困り果てた僕は、この悩みを管理会社に訴えた。


 しかし、部屋の物音や、こと乳児の泣き声にいては、あまり強く注意は出来ないとの事。「それならば、せめて窓はしっかりと閉じて欲しい事を伝えてくれ」とお願いしたら、一応はその旨を伝達したご様子。……まあ、そもそもこの管理会社は何に関しても塩対応なので、然程さほど期待はしていなかったのだが……。


 案にたがわず、隣の喧騒が止む事は無かった。


 時折ニュースで報道される、近隣の騒音問題でのトラブル。時には殺人事件にまで発展する事もある社会問題だ。それで自分が当事者となった今、加害者側の気持ちも少なからず理解できる。正直に言ってしまうと、僕とて何度殺意を抱いた事か。


 でも、僕は必死に自制した。もしもやってしまったら終わり。僕の負けだ。


 世間に不名誉なエンタメを提供する事だって、平御免ぴらごめんだしね。


 しかし、この不快音がすっかり常態化して一年も過ぎた頃に、僕はストレスによる不眠症と、全身に重度の蕁麻疹じんましんを発症。時を同じくして白髪も増え、現在も通院中である。


 御陰で食事制限と言う名のドクターストップがかかり、大好物であるお菓子も自由に食べられなくなってしまった。僕の唯一の楽しみでもあったのに……。


 この事から担当のお医者様には、「引っ越しを検討されてみては?」とも提案された。もっと至極しごく。しかし、そうはしたくない理由が一つあった。


 今のマンションに移り住んで十年。おどろなかれ。何とこの場所で、ゴキブリに一度も遭遇していないのだ。超の付く虫嫌いの僕としては、最高の環境なのである。


 だから本物件を手放すのは非常に惜しいし、つ、どうして隣の連中の為に、この僕が撤退せねばならぬのかと考えたらば、途轍とてつもなく悔しかったので。


 そんな折、一ミリだって顔も見たくないのだが、隣一家とばったり邂逅かいこうする機会が有った。


 三人共に一年前よりも醜く肥えていて、あからさまに怠惰の象徴と言わんばかりだ。しかも旦那の頭頂部がハゲ散らかしているのを確認出来た時は、ちょっとだけ気分が晴れた。


 だが、そんなのは一時的な鎮痛剤みたいなもので、隣のは相も変わらずだ。


 有り体に申すと、この蕁麻疹がかゆすぎて、日常生活に支障をきたすレベルなのだ。これが原因で作業に集中出来ず、幾つか仕事に穴を開けてしまっていた。


 ここが個人事業の辛いところで、一度失った信用を取り戻すことは難しい上に、僕の代わりなんて幾らでも居るご時世だ。実際に依頼は激減してしまい、言わずもがなその分の収入は途絶え、まさしく死活問題である。


 決して大袈裟な表現ではなく、僕はによって人生を奪われたのだと思ったら、何だか無性に腹が立ってきて、再び憎しみの炎が燃え上がった。


 そしてこのタイミングで、過去最高の轟音ごうおんが響き渡ったのである。


 ……くっ、今日のは特に非道いな。宅配ピザのトッピング全部乗せってくらい、ノイズ音の大合唱じゃないか。


 ……あっはっは、オーケー、もう我慢の限界さ。ちょくで文句を言いに行ってやろうじゃないか。


 おうともさ、四の五の抜かしやがったら殺してしまうまでよ。まるっとまとめて皆殺しだ。明日のトップ記事は任せやがれ。


 僕は包丁を片手に自室を飛び出し、隣の玄関チャイム連打&部屋ドアを荒々しく叩きながら、「いい加減にしろや! 今すぐ出て来やがれ!」と怒号を放つ。


 そうすると、ゆっくりとドアは開かれ、中からのっそりと現れたのは、裸エプロンで片手にはガラガラ。頭部にはベビー帽子を被り、おしゃぶりを咥えた異様な出で立ちの旦那だった。


 旦那は甲高い裏声で、「お~よちよち、ママのおっぱいが欲しいんでちゅよね~」と喋った後に、「オギャー!」と赤ちゃんの泣き真似声を発する。そうして最後に野太い声で一言、「女房と子供に出て行かれて、一人三役も大変なんだよ!」とブチ切れられた。


 大変ってか変態だよ、とチープなツッコミを入れつつ、僕はその場で転居を決意した。

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