ロッティと眠りの小屋の姫

 2017年、春。身を凍りつかせるような冬が終わりを告げ、残った雪を溶かす春一番の大雨が降った。その恵みの雨によって撒き散らされた除雪剤も洗い清められる。


 それを合図とばかりに木々は新緑を蓄え、オートバイとそのオーナーたちは保護カバーは取り払い、一斉に道路へと駆り出すのだ。


 さてさて、付近の国道からけたたましいオートバイの排気音が聞こえる中、年度末期の職務に忙殺される俺にもようやく『彼女』を起こす機会が巡ってきた。


 残業という世のサラリーマンを苦しめる呪いを克服し、上司という悪い魔法使いをも退治し、ついに俺は彼女の待つ小屋へとたどり着く。


 錆びた錠前を外し、埃舞う小屋の中へ・・・・・・


 小窓から差し込む春の木漏れ日が、カバーのかかった車体に寄り添うように眠る彼女の横顔を映し出していた。


 美しく安らかな寝顔だった。これはさながら禁断の森で王子を待つ眠り姫のようではないだろうか?


「・・・・・・どうか目を覚まして下さいまし、麗しの姫君・・・・・・」


 気恥ずかしさを感じつつも、そう口にしてみれば自分が本当に姫を救い出す騎士なのではないかと錯覚した。彼女をどかし、車体へと跨がり、デコンプレバーとキックペダルを恭しく操作し、エンジン始動の準備を整えた。



 そして、古今東西・森羅万象・天地万物・一切合切・有象無象眠れる美女を目覚めさせるものは王子様の接吻、つまりキスであるとされている。


 しかし、


「んなわけあるかよッ‼‼」


 彼女を起こすのに必要なものはキッスではない・・・・・・


・・・・・・キックだ!


 勢い良くキックペダルを踏み抜いた。


Brrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrn‼‼‼


 始動成功である。あまりに勢い良く蹴ってしまったため、ペダルを即座に戻すことが出来ず、しばしキックギアを噛み合わせたままにしてしまいカラカラとネジを戻すような音が鳴った。


『・・・・・・ふん、相変わらず、下手ね。貴方』


 目を覚ましたロッティがお得意のジト目でこちらを捉えていた。当然だとも。悪態に笑顔で応じてやった。


 彼女は眠りの森の美女なんかではない。ヤマハ発動機とともに40年の歳月を駆け抜けてきた大人気オートバイ・・・・・・最高にクラシカルな深層の令嬢(最近そのことに対していささか疑問を持ち始めた俺である)『SR400』なのだ。


 親愛を込め『シャルロット』と名付け、略してロッティと呼んでいる。


「久々なんだからしょうがないだろ」


 寝違えた首をほぐすかのように頭を左右に振ってみせた彼女に俺は手を貸してやる。


「ん」


『・・・・・・ん』


 その手を掴み、彼女を立ち上がらせれば、その仮初めの姿は見えなくなって、いよいよ車体の方のエンジンにも熱が入ってきていた。


 発走の準備は万全に整ったと言えよう。


「んじゃ、行きますか!」


『何処へ行こうというのよ?』


 そんなこと訊くのは野暮ってもんだろ、相棒。


 バイクに乗り始めて・・・・・・つまり『彼女』に出逢ってから約1年、目的地なんて要らなかった。そんなものはバイクに跨って、エンジンを掛けて、走り出してから決めれば良いのだ。


「明日に向かって!」『おバカ!』


 朗らかな春の日和に祝福されながら、俺たちは出発するのであった。

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