第7話 金色の花
港の中央まで戻ってきた時、向こうから木村さんが、何人もの人とやってきました。足が不自由なのか、杖を持ったおじいさんを背負っています。
あと残っている家は、山にのびる石段の途中にある一件だけです。
「先生、こちらは全てオーケーです。この通り、皆さん、嘘みたいに病気が治ってしまいました」
「ご苦労さまです。では木村さんもヘリコプターで、この島を飛び立って下さい」
「しかし、先生は船をお持ちでない。もしもの時はどうされるのですか」
真剣な顔の木村さんに、父さんは大きく笑いました。
「ご安心下さい。入り江の向こうにあるので見えませんが、僕らには船があるのです。息子が乗ってきた、とびきりの船がね」
「わかりました。もしや、船を持っていない人もいるかもしれません。私はもう少し待ってから脱出します」
おじいさんを背負ったままの木村さんは、コツンと軽くカイトに頭突きをしてきました。
「坊や、君やお父さんみたいに勇気のある人と仕事ができて、僕は本当に嬉しいよ」
「僕も木村さんと一緒に仕事ができて すごく光栄です」
カイトはニヤついている父さんの横でしっかりと挨拶をしました。
… … …
「さあ、最後の一件だ」
深くうなずきあったカイトと父さんは、石段を登っていきました。
古くてひしゃげそうな家の前に立った時です、向こう側から先に戸が引かれました。
最初に診療所で薬を飲んで元気になったおじいさんでした。玄関には、目をつぶったままのおばあさんが倒れています。
「先生、ばあさんに薬を飲ましてやって下せえ。地面はゴウゴウと唸っておるし、居ても立ってもおれんで、先生の所さ、ばあさんを担いでいこうと思っていたとです」
おじいさんは祈るように手を合わせています。
「まあ、そんなことはなさらないで」
父さんは優しくおばあさんを抱きかかえると、ササッと口の中に薬を流しました。しわしわの口元は、すぐにもムニャムニャと動き始め、目が開かれました。
「はんれまあ、病気がどこかに吹っ飛んでしまったわ」
「船はお持ちですか」
おばあさんの声にうなずきながら、父さんはおじいさんに聞きました。
「もちろんですじゃ。歳は食っても 漁師ですからの」
「でしたら、それですぐに島を脱出して下さい。じきに島が噴火するのです」
「やはりのう。この地鳴りは、ただごとではないと思うておりました。さあ、行こうぞ」
おじいさんがおばあさんの手を引きました。ところが、おばあさんはその手を振り解いたのです。
「山にチロがおる。チロを置いていくことはでけん」
おばあさんが泣きながら言いました。
「チロって?」
「本土に働きに出た息子の代わりと、わしらが飼っている犬ですじゃ」
そう答えたおじいさんの目にも涙が光っていました。
『人間同士はもちろんだけど、そうでなくても、とても大切な関係があるんだ』
カイトには、おじいさんたちの思いが痛いほどにわかりました。
「安心して。チロは、僕と父さんが必ず助けるから」
その言葉に、父さんは驚いたように目を見張りましたが、すぐにカイトの頭をぐりぐりとこすりながら うなずきました。
「息子の言う通り、僕たちにお任せ下さい。それでチロはどこに?」
「家の裏の道を登っていった先の
腰を曲げて頭を下げているおじいさんとおばあさんに、「またあとで」と言い、二人は山の道に向かいました。
カタタ、コトト…
道は細くて険しく、地鳴りとともに小石が転がり落ちてきます。
両脇には段々畑があり、所々、むき出した岩の間から湯気が吹き出しています。二人は息を切らせながら、坂を登っていきました。
ドクドクと胸が激しく打ち始めた時、いきなり草原が目の前に広がりました。小さな犬小屋が、枝を伸ばしたカシの木の根元に見えています。
「あれだ、父さん」
カイトは犬小屋に駆け寄りました。
「チロ、助けにきたよ」
声が聞こえたのか、中で寝ていた犬が 力なく頭を持ち上げました。でもすぐに ぐったりと横になってしまいました。
「この犬も病気にかかっているんだ。薬を飲ませなきゃ」
「いや、チロにはもう少し我慢してもらおう。元気になって、どこかに走っていかれたらどうしようもない」
言いながら父さんは 手を伸ばして犬を抱き上げました。それは柴犬のような小型の犬でした。
その時でした。
夜の幕をさっと引いたように、朱色の光が草原に伸びてきました。はるか水平線の彼方に、太陽が顔をのぞかせていました。
辺り一面が、鏡を反射させたように、キラキラと輝き始めました。
バニラのようなあまい香りが漂ってきます。
「金色の花だ」
それは、つぶやいたカイトのすぐ足下にも、百合のような花びらを大きく広げていました。
…人や動物を病気にし、光の妖精の飛ぶ力を奪う恐ろしい金色の花…
…島が噴火する時に咲く、はかない命の花…
「美しい。こんな時にしか 見られないなんて」
父さんがため息をつきました。それを合図としたように、
ズゴッンーーー
ものすごい爆音が轟きました。巨大なハンマーが打ち下ろされたように、地面が揺れています。
よろめきながら、振り返った先には、太い火柱が立ち上がっていました。島の奥底にたまっていたマグマが、とうとう地上に吹き出したのです。
そして何ということ…ドロドロと燃える赤いマグマは、二人が登ってきた山道をふさぎ、川となって流れ始めていたのです。
山の反対側からは、黒い煙が矢のように空に伸び、またたく間にキノコのカサのように広がっていきます。
「ぼくらの逃げ道がなくなった!」
カイトは叫びました。
「こっちだ!行くぞ」
父さんが空の朝焼けにまぶしい方向を向き、走り始めました。
犬を抱いているので、ちょっとした地面のでこぼこでも、転びそうになっています。カイトは父さんを追い越し、降り口はないかと視線を走らせました。
「あそこだ、父さん」
草原の一部がえぐれている部分があり、そこに走りました。
目の前には、土がむき出した急坂がありました。
二人は、途中に突き出た石に、尻や腰を引っかかれながら、鬼のすべり台のような坂を滑っていきました。そして坂は、一本の松の木の 大きく生え伸びたところで終わっていました。
その先は…
『荒磯だ!』
五十メートル以上の高さはあるでしょう。切り立った崖の下に、黒い海が広がっていました。あちこちに白い波しぶきがあがっています。
きっと、海中には大岩がごろごろと転がっているに違いありません。
八海坊に助けを呼んだとしても、あの大きな体では、とうてい近寄れるものではありません。
「どうする?」
カイトは横に並んだ父さんに顔を向けました。
「道は一つだ、カイト。いいね、僕たちは生きなきゃだめだ。もちろん、このチロも」
「当たり前さ!」
父さんの言葉にカイトは力強く応じました。
飛び込める場所は一カ所だけです。波しぶきや盛り上がりのない、小さな部屋ぐらいの真っ黒な波のある所…
「じゃあ、先に行くね」
カイトは、父さんの腰をこぶしでゴツンと叩くと、空に向かって思い切りジャンプしました。
「・・!」
なんと、恐ろしいダイビングだったのでしょう。
狙った場所には、落ちていっていますが、果たして海は 体を受け止めてくれるほどの深みがあるのでしょうか。
バシャーンーーー
高い波しぶきをたてたカイトは、そのまま深みに沈んでいきました。
海面の平手打ちを受けた両肩がひどく痛みますが、大丈夫です。
上方に用心しながら水をかきました。すぐにも ズブーンと泡の雨が降ってきました。父さんです。
二人とも見事、海への脱出に成功したのです。けれど、
『父さん!』
カイトは海中で叫びました。
泡の消えたあとに漂う体は、ぴくりとも動こうとはしなかったのです。だらりと広がった腕から、小さな体が離れていきます。
ああ、チロを抱いて飛びこんだ父さんは、不自然な姿勢のままで海面に激しくぶつかり、気を失ってしまったのです。
『いま、助けるからね』
カイトは必死に水をかき、蹴りました。
やっと、父さんのズボンのベルトを掴みましたが、海面に近いところの流れは、あまりにも速いものでした。
いかに泳ぎのうまいカイトでも、重い体を引きながら前に進むことはできませんでした。離れていくチロまでは、近づくことさえかないません。
『約束したよね、皆で生きるって』
カイトは水を蹴ることをやめました。
ベルトを掴んでいる手を離し、両手で胸元のペンダントを探りました。
それは、決して開けてはいけないペンダント。もし開けたら、カイトは人間ではなくなってしまうのです。
『けど、これしかないんだ!』
ペンダントを握りしめ、決して切れることのないチェーンから、渾身の力を込めて引きちぎりました。
カチッ、
たちまち、ブクブクと無数の泡が生まれました。小さな渦となってカイトの足を包んでいきます。
『痛い』
燃えるような熱さと痛みが襲ってきました。
暗い海中でもわかります。薄れていく泡の中に、一本に合わさった足が見えました。てらつくような細かいウロコが、ふつふつと浮き上がってきます。
熱さの消え去る前に、すでにカイトは、ヒレの生えた尾で水を切っていました。
逆巻く海流をものともせず、再び父さんのベルトを掴んで折り返すと、岩に打ちつけられようとしていたチロを小脇に抱えました。
『とにかく、この岩場を抜けなくては』
沖に向かって、波を押し出したその時でした。
海中を、ズンッと突くような衝撃が走りました。
振り返れば、後にそそり立つ崖が割れ、数十階建てのビルのような大岩が、ゆっくりと倒れてくるところでした。
カイトは、尾ビレよ 折れん!とばかりに力強く波を切りました。
ですが、その上に、大小の岩をふくんだ大波が、怪物のように襲いかかったのです。
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