第5話 湯吹島へ

さすがに十一月でした。

昼間は暖かくても、夜の海には 氷からしみ出るような冷たい風が流れていました。時折、冷たいしぶきもかぶり、カイトの体は硬くこわばっていました。

「坊ちゃま、どうぞ横に」

八海坊が静かに言いました。

「うん」

言われるままに、カイトは珊瑚を胸におき、仰向けになりました。

なめらかな背中からは、ほのかな温もりが伝わってきます。

空に浮かぶ月や星々が、声のない言葉で何かを語りかけてくるようです。ゆったりとした波の調べが、忘れていた想いをさすってくれているようです。


「八海坊、こんなふうに君の背中に乗るなんて、何年ぶりだろう」

「かれこれ四年は過ぎたでしょうか。しかし、坊ちゃま。人間たちの目など、気にすることはありません。わしの背中は、いつでもあなたを待っておりますに」

そっと流れた息は、優しい衣のようにカイトの体を包みました。


… … …

小学生になるまで、カイトは毎日のように、八海坊の背に乗って遊んでいました。

父さんは診療所の仕事で忙しく、母さんには滅多に会えません。それに島には他に子どもはおらず、いつも寂しい思いで一杯でした。

そんなカイトを慰めてくれていたのが、母さんの代わりのお守り役、八海坊でした。

でも、小学一年の夏休み、いつも遊んでくれるお礼にと、磯辺から長いホウキで口の中を掃除していた時、島の漁師に目撃されてしまったのです。

「人喰いクジラがでたぞ!」

子どもが襲われていると思い違いした漁師は叫び、すぐに島中が大騒ぎになりました。

「そうじゃない。僕はクジラと遊んでいただけなんだ」

カイトは必死に言いました。父さんも一緒に訴えてくれましたが、誰も信じてはくれませんでした。

何十隻もの船が島をグルグルと回り、モリを握った人が目を凝らして海を見つめました。その時、八海坊はモリに撃たれて深い傷を負いました。後で父さんが手当てをし、命に別状はなかったのですが…、

『自分の寂しさのせいで、大切な友だちが傷ついてしまうなんて』


それからカイトは、八海坊と遊ぶことはなくなりました。

特に用がなければ、海辺に近寄ることもなくなりました。それでも、学校の行き帰りの渡し船からは、遠く近く、いつも波の間に八海坊の背中の白い斑点を見かけていました。

… … …


「君はずっと、最高の友だちだよ」

何年たっても、自分に寄り添い続けてくれているクジラに、カイトは感謝の言葉をつぶやきました。


「さあ、着きましたぞ」

低い声にむくりと起き上がると、そこは小さな港でした。

漁船が二十隻ばかり停泊していて、海岸沿いに家々がぽつぽつと建っています。そのすぐ裏手からは、黒い山裾がはじまっています。


「えーと、診療所は?」

目を凝らすと、煌々と明かりがついた公民館のような建物がありました。ヘリコプターの白い機体が見えます。

「あそこだ」

「坊ちゃま、わしはこの辺りを泳いでいます。ご用がありましたら、お呼び下さい」

「君がいてくれると思うと、何も怖いものはないよ」

なめらかな背中をそっとなで、桟橋に飛び移りました。

クジラは、ブハッーと笑い声のような大きな音を立て、海にもぐっていきました。


「さてと」

歩き始める前に、カイトはゆっくりと息を吸いました。

光の妖精の話の通り、今は夜のためか、金色の花が出すというよい香りはしませんでした。

そよぐ潮風に、かすかにゆでタマゴのような硫黄いおうの臭いが混じっているだけです。

「前に遊びにきた時と同じ臭いだ。何も変わったところはないみたいだけど、本当に、この島は噴火するのだろうか」

疑問に思いながらも、珊瑚を落とさないように気を付けて、桟橋から突堤に足を移しました。


すぐにも行き着いた建物のドアには、【臨時診療所】と書かれた札がかけられていました。

窓ガラス越しに白衣を着た父さんの姿が見えました。

『よかった、父さん。病気になっていなかったんだね』

カイトはほっと胸をなでおろしながら、ドアを開きました。




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