第4話 八海坊

夜の浜辺は、風がささやくように、サラサラと鳴っていました。

打ち寄せる波の泡が、月の光を乗せて前に後ろに伸びています。

不思議なペンダントを首にかけているため、不気味な夜の精霊たちの姿が、あちらの波間、こちらの岩陰に見えました。

でも、家に置いてくるわけにはいきません。母さんと話をするには、ペンダントが必要なのです。

砂にくつをうずめながら、カイトは黙々と歩き続けました。

砂浜が終わったところで、ごつごつした岩を登って降り、やがて、波が砕ける磯辺にたどり着きました。後ろは、黒い崖がそそり立っています。


辺りを見回して、誰もいないのを確かめてから、海に向かって叫びました。

「母さん、カイトだよ!」

声を飲み込むように、黒くうねる波が大きく跳ね上がりました。ものの一分と経たないうちに、海面が小山のように盛り上がり、ザパーンと二つに割れました。


プシューー

潮が高く吹き上げられました。

クジラです。大きさは、優に三十メートルを超えているでしょう。てらてらと光る青黒い体全体に、白い斑点が浮き上がっています。それは、クジラの中でも一番大きなシロナガスクジラでした。


「坊ちゃま、お久しぶりです」

波しぶきを立てながら、クジラが話しました。

カイトは懐かしそうに、その大きな口の先をなでました。

「やあ、八海坊はっかいぼう。元気そうだね。さっそくなんだけど、僕、母さんに相談しなければならないことがあるんだ」

「残念ですが、姫様は、南の果てで開かれている人魚会議に出席されています」

「ああ、やっぱりだ。母さんは、いつも仕事で来られないんだ」

カイトはがっくりと肩を落としました。


… … …

そう、カイトの母さんは、海に住む人魚なのです。

もう何年も前のこと、父さんが、この島の診療所にやってきてすぐの頃でした。

嵐の夜の翌日に、浜辺に打ち上げられている人魚を発見しました。


父さんは、天地がひっくり返るほどに驚きました。

まさか、本当に人魚がいるなど、思ってもいなかったのです。それにその人魚は、それまでに出会ったどの女の人よりもきれいでした。

父さんは、怪我をしている人魚の尾に添え木を当て、人気のない磯辺に運びました。島の人には内緒で、毎朝、暗いうちに出かけて手当てをしました。


人魚が、自由に泳げるくらいに回復した時、二人は愛し合うようになっていました。

そしてカイトが生まれたのです。

父さんに似たのか、カイトには人魚の尾は生えていませんでした。それで人間として、陸に住むことになったのです。


『びっくりしたのは、それだけじゃないぞ。だってな、母さんはただの人魚ではなくて、人魚の国の姫様だったんだからな』

父さんは、酒を飲んで酔うと いつも話してくれます。

『それに結婚式は恐ろしかった。父さんと母さんが八海坊の背中に乗ってな。それこそ、何千人という人魚に取り囲まれて、海中のクジラやシャチ、イルカが大波を立てながら踊ったんだ』


(カイトの父母の出会いの話は別小説「人魚姫と青年医師の愛の物語」としてあります)


… … …


「坊ちゃま、仕方ありません」

八海坊は平らに突き出ている大岩に頭を乗せました。

「姫様は、世界中の海を渡って、お仕事をなさっておいでです。相談事なら、わしが代わりにお聞きします」

「うん、そうだね」

カイトは溜息をつきながら岩に腰かけ、光の妖精から聞いた話を伝えました。


「光の妖精の飛ぶ力を奪う金色の花ですとな」

クジラが低い声でうなりました。

「ブハー、ずっと昔に噂を聞いたことがありますぞ。確かそれは、なんとも言えぬよい香りで、生きるものを 全て病気にしてしまう花だとか。ですが、実際は誰もよく知らない。なんといっても、島が噴火するほんの数日間だけ、花開くものらしいですから」


「なんだって!」

驚いて首を上げたカイトは、生え伸びた松の葉にごっそりと頭を刺しました。でも、痛がっている場合ではありません。

確かに湯吹島では、あちこちで、シューシューと湯気が吹き出ています。地下の浅い所にマグマがあるからだと、父さんが言っていました。でも、島が噴火してしまうなんて。

「八海坊、今、父さんがそこにいるんだ」

「旦那様が!それはえらいことです」

クジラは頭をすべらせ、海中に体を戻しました。

「しばらくお待ち下さい」

そのまま尾ビレで波を叩くと、海に潜っていきました。


ピシャーン、ザポーン… …

岩に砕ける波が、幾分高くなってきました。ずいぶん時間が経ったようです。

カイトは何もすることもできず、ただイライラしながら、黒く踊る波を見つめていました。


やがて再び、八海坊が顔を出しました。大きな口には珊瑚さんごの塊をくわえています。頭の先には、引っ掻いたような傷がついています。


「遅いよ、どこに行っていたんだよ」

「坊ちゃま、海の底にこいつを取りに行っていたのです」

八海坊は、岩に珊瑚を置きながら話しました。

「それは、人魚の方々が毒消しや流行り病の予防に飲まれる黒珊瑚です。金色の花が引き起こす病にも少しは効くと思います。

仲間のクジラたちには島の噴火のことを知らせました。すぐにも、南の果てにおられる 姫さまのお耳にも届くはずです。わしは、その珊瑚をもって旦那様の元に参ります。いざという時には、旦那様をこの背に乗せてお助けします」


「ありがとう」

カイトはイライラしていたことを恥ずかしく思いました。八海坊は懸命に、自分や父さんのために働いてくれているのです。

「八海坊、お願いがあるんだ。どうか僕を湯吹島まで運んでいってほしい。君が海から呼んでも、父さんには君の声が届かないかもしれない」

一抱えもある珊瑚を持ちあげながら、丁寧にお願いしました。

「確かに。ですが、坊ちゃまを危険のある島にお連れするなど…。

 ああ、しかし、親子の絆をたち切るものはどこにもないというもの…。お望みの通りにいたしましょう。一応のこととはいえ、その珊瑚を削ってお飲み下さい」

「うん」

カイトは珊瑚の端を岩に擦りつけました。そして少しできた粉をペロリとなめました。

「ううっ にがい。でも効きそう」

顔をしかめながらも、元気な声でいうと、広い背中に乗り移りました。


「それじゃ、頼んだよ」

「承知いたしました」

八海坊はザブリと向きを変え、黒い海原を突き進み始めました。

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