第11話 銀の指輪は何度見ても幸福の象徴ですのよ
伯爵家は突如降って湧いたジュリエットの婚姻に、右往左往の大騒ぎとなった。
慎ましい式にするとはいえ、一生に一度のことであるからドレスくらいはきちんとしたものをと伯爵夫婦が言ったことから、お抱えの仕立て屋は三日後の式に向けて懸命にドレスを仕立てた。
花のモチーフレースを使ったワンショルダーがポイントの優美なムードのエンパイアラインドレスは、仕立て屋が幼い頃から知るジュリエットの為にと特別に拵えたものである。
生地をはじめチュールやレースなど上質な素材が使われながらも、ナチュラルな雰囲気で慎ましやかな式にはぴったりの仕上がりであった。
「とても素敵だわ。流石ね。」
ジュリエットは昔から素敵なドレスを仕立ててくれている女性のクーチュリエに良く懐いていた。
「ジュリエットお嬢様、とてもお似合いです。急に婚姻のドレスが必要だと言われた時には驚きましたが、幼い頃からとても愛らしかったお嬢様の婚姻用ドレスを仕立てることは私にとって大変名誉なことです」
「ありがとう。お陰で私は世界一素敵な花嫁になれそうよ」
「はい。ジュリエットお嬢様、どうかお幸せに」
市井に下れば貴族のようにドレスを仕立てることなどもう出来ないだろうから、ジュリエットはこの美しいドレスが自分の最後の仕立てとなることを喜んだ。
三日後、本当にキリアンは迎えに来てくれるのかと何度も不安そうに口にしていたジュリエットだったが、その度にマーサがその背中を摩ってやって宥めたのであった。
「お嬢様、お忘れ物はございませんか?」
「大丈夫よ。それよりも、キリアン様は本当に迎えに来るのかしら……」
「心配いりませんよ。きっともうすぐいらっしゃいますよ。」
その時、家令のダグラスから声がかかった。
どうやらキリアンが邸へと来たようだ。
ジュリエットとマーサは二人連れ立ってキリアンの待つと言う玄関ホールまで歩いた。
見慣れた玄関ホールもこの廊下も、生まれ育った邸にも今日でお別れかと思えばジュリエットはいつもより新鮮な景色に見えた。
「知り合いに馬車を出してもらったからこれで教会に向かうぞ。……荷物はそれで全部か?」
「はい。着替えや当面必要なものですわ」
ジュリエットの荷物は丈夫なトランク三つにまとめられていた。
それらを豪華な装飾の施された貴族の馬車とは違って、実用的で簡素な作りの馬車に乗せる為にジュリエット達が近寄れば、御者席に座っていたジャンがさっと降り立って挨拶を行う。
「はじめまして、お嬢様。キリアンの親友のジャンと言います。これからよろしくお願いします。お荷物はそちらですね」
「ジャン様、ジュリエット・ド・メノーシェと申します。こちらこそ、不束者でございますがこれからよろしくお願いいたしますわ」
ジュリエットはキリアンの親友だというジャンに向けてお近づきの印に優雅なカーテシーで挨拶をしたのだった。
「おおー。リアルなお嬢様のお辞儀だ。くすぐったいからジャン様なんてやめて欲しいな。ジャンって呼んでよ。僕も柄にも無い話し方はやめて気楽に話すことにするからさ」
「分かりましたわ、ジャン。」
ジュリエットが了承すれば、キリアンが訝しげな顔でジャンに話しかける。
「そうだな、その方がいい。さっきから聞いていて随分気色悪いと思ってたんだ」
そう辛辣な言葉を投げかけたが、ジャンはさして気にした風でもなく細い目を益々細めてニコニコと微笑みながら荷物を積んでいく。
トランク三つはすぐに積み終わり、先にジュリエットとキリアンは教会へと向かった。
主役が先に教会に着いたらば、そこで婚姻式の支度を行うことになっている。
そしてその後から伯爵家の面々を乗せた馬車が追いかけていった。
この国の庶民の婚姻式は教会の戸口で行われる。
ジュリエットは婚姻式の為に拵えた赤みがかった紫のドレスを身に纏い、ローズピンクの長い髪は処女性を示す為に下ろされ薄いベールで覆われている。
そしてその頭の上には金銀の豪華な細工の冠などではなく、庶民らしい花冠を乗せていた。
本来、この国では新郎も新婦も派手な色合いの立派な衣装に身を包むものであった。
しかしキリアンは自分を巻き込んだ貴族たちへのちょっとした反抗心なのか、それとも単なる好みなのか普段着よりも少し仕立ての良い黒のスーツに白のシャツであった。
「キリアン様、素敵です。見目麗しい貴方には黒と白が何よりとてもよくお似合いですわ」
うっとりとキリアンを見つめるジュリエットはそのようなことは全く意に介していないようで、キリアンの方はジュリエットの花嫁姿に特に何も言うことはなかった。
そうして二人は庶民らしい式によって誓いの言葉を交わしたのである。
その後指輪の交換が行われ、飾り気のないシンプルな銀の指輪はこの婚姻式に特にこだわりの無いキリアンが、適当に選んでこいとジャンに準備させた代物であった。
それでもジュリエットは初めてキリアンから贈られた物だと何度も指輪を嵌めた左薬指を見ては喜び、その表情からは幸福感が溢れ出ていたのである。
伯爵家の面々はジュリエットの花嫁姿に涙を流し、そしてその機会を与えてくれたキリアンに感謝した。
そうしてその庶民らしい婚姻式は無事終えたのだった。
「キリアン殿、私たちの無理な願いを聞いてくださったことには感謝してもしきれないほどだ。人魚の呪いはこれでジュリエットを蝕むことはないだろう。これは約束の五千万ギル。貴殿の好きに使ってくだされば良い」
式が終わって、伯爵は約束の金をトランクに詰めてキリアンへと渡した。
キリアンはジャンと共に中身を確認し、自分たちの馬車に乗せる。
「確かに。だが本当にお嬢様には贅沢させるつもりはないぞ。最初の約束は守ってもらう。あんたは本当にそれでいいんだな?」
切れ長の黒曜石のような瞳で伯爵を睨むように見つめたキリアンに、伯爵は表情を緩めた。
「ジュリエットもそれを覚悟の上で貴方と婚姻を結んだ。私たちもあの娘が呪いから解き放たれて貴殿と暮らすことが幸せなのだと理解している。それに箱入り娘ではあるが母親に似て頑固で執念深くて、そして努力家だ。きっと大丈夫だろう」
なんの因果か貴族の娘と婚姻を結ぶことになった平民のキリアンは、これから先のことなど深くは考えていない。
とにかくこの形だけの婚姻で大金が手に入って、自分の行いに一切干渉されなければ戸籍上の妻などただのお飾りだと思っていたからだ。
集落の自分の家でただ同居し、衣食住くらいは養うだけの相手だと認識していた。
「あんたらに感謝されることなんか特にない。あのお嬢様は俺にとって単なるお飾りの妻でしかないんだからな」
そう言い切ったキリアンにも、伯爵はゆるく微笑むだけであった。
「キリアン様! お待たせいたしました! 参りましょう」
ドレスからあの日来ていた町娘のようなワンピースに着替えたジュリエットは意気揚々とジャンが操る馬車へと乗り込んだ。
庶民向けの馬車はクッションも固く乗り心地も決して良くはないだろうが、これからのキリアンとの生活を考えればジュリエットにとって全てが新しく心地良く感じたようだ。
「お父様、お母様、マルセル! 行って参ります!」
伯爵家の馬車とは比べ物にならないほど実用性に重きを置いた華美な装飾もない馬車の窓から、輝くような笑顔で家族に手を振るジュリエットを向かいの席のキリアンは無言で見つめていた。
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