第89話 始まりは『憂さ晴らし』 ~グレン視点~
一方、セシリアの正面で伸ばされた手を向けられた少年は、膝の上で人知れずギュッと両手を握り締めていた。
悔しい。
が、この女を侮っていた俺の負けだ。
グレンは今そんな風に激しく自覚させられている。
2週間ほど前の事だった、ノイに『学校の課題を手伝ってくれないか』と言われたのは。
ノイは平民だったけど、貴族の屋敷で働く使用人の娘らしい。
そのお陰で将来その家のメイドになるという前提での援助を受けて、今年から『学校』に通い始めたらしい。
「らしい」ばかりになっているのは、実際がどうかは知らないからだ。
ノイと最初にあったのは街中。
それ以降、一体何が楽しいのかは知らないが見かける度にグレンに話しかけてくるようになった。
グレンからすれば話題は無い。
が、ノイは結構お喋りだった。
今日あった事、誰かが言った事、それからあそこの景色が綺麗だとか、あそこの〇〇が美味しいとか。
食い物の話をされても腹が減るだけだ、と俺が言えば、次の時にはノイは自分のお小遣いでわざわざそれを買ってきて、二人で半分ずっこした。
別に要らないと言ったのだが、ノイがあまりに押し付けてきて最後には涙目にまでなったので、仕方がなくそれを受け取った。
そんなやりとりも、ノイが『学校』に行くようになってからは減った。
しかしそれでも休みの日には、相変わらずやってくる。
たまに見つからない時にはわざわざ家にまで押しかけてくるのだから、どれだけお喋りしたいんだという話である。
最初の方は、学校の愚痴ばかりだった。
「偉そうな人が居る」とか、「勉強が難しい」とか。
色々聞いた気がするが、結局どれも良い話じゃない。
何でそんなところにわざわざ通うのかと本気で疑問だったのだが、そんな彼女に変化があったのが、一か月を過ぎた頃である。
「学校で『貢献課題』っていうのがあってね」
そんな言葉を聞いたのは。
ノイの長ったらしい話を要約すると、どうやら「凄い人が居るらしい」という事だった。
「その人って、なんと入学式の日にみんなの前で『貴族の権力は領地と領民を守るために使うべきで、誰かを虐めるためのものじゃない』っていう演説をした人なんだよ!」
覚えてるでしょ?
と聞かれ、グレンは「確かにそんな話をしていたような気がするな」なんて思い出す。
その時彼は「よくそんな口から出まかせが言えたものだ」と鼻で笑ったが、どうやら実際にその場に居合わせたらしいノイの熱量は凄まじかった。
結局そんな口を挟む暇なんて無く、ノイはそんな彼の気持ちに気付いているのか疑わしい。
「でね、実はその時の加害者と被害者も同じグループになっちゃったの!」
「修羅場じゃねぇか」
思わず口を突いて出たその言葉は、自分だったら絶対にその場に居合わせたくないと思ったからだ。
にも関わらず、ノイは喜々としてこれを語る。
その神経がイマイチ理解出来なくて、思わず訝しげな顔になった。
が、どうやらその修羅場が見物だったらしい。
「それですっごく気まずい空気が流れちゃって。でも凄いのよ? その人ったら」
ここから話はその人が如何に凄いのかという話にシフトする。
長々と語っていたので纏めると、どうやらその人物は周りの気まずい空気を一掃しそれどころか周りの士気を高めるまでに至ったとか。
その後もちょくちょく顔を出しては「セシリア様が停滞した状況を打破した」とか「セシリア様の采配は凄い」という話を俺の所に置いて帰る。
つい先日は「王城の大人相手に圧勝だった」らしい。
どこまでが本当かは知らないが、理想を掲げ誰かに何かを説くような、高尚なようでいてその実人を見下したようなヤツである。
そんな奴に負けた相手が無能だったに違いない。
――大人を言い負かすくらい、俺だっていつもやってる。
そんな気持ちが沸き上がり、何だかモヤモヤイライラしてきた。
何故そんな風に思うのかは分からない。
が、その女が気に入らない事だけは確かである。
そう思った時だった。
ノイが言ったのだ、「セシリア様が、グレンと話をしたんだって」と。
正直言って、迷惑だった。
だから居留守を使ったのに、ノイがゴンゴンゴンゴン煩いから、結局ドアを開けてしまった。
そこに居た『セシリア様』は、見た目は良い所のお嬢さんだった。
否、実際にそうなのか。
幾ら平民の服を着ていても、すぐに育ちの良さが分かる話し方や所作。
幾ら上品さの何たるかを知らない俺でも、分かってしまう程の違いがそこにはあった。
――本当に来やがった。
最初はそう思ったが、その女の後ろでニコニコ笑うノイを見てちょっと気分が変わった。
女が俺に返した挑発とも取れる言葉から、あちらが好戦的だという事も分かった。
良いだろう。
人生で一番、モヤモヤイライラする日である。
憂さ晴らしにコイツに恥を掻かせてやる。
そんな気持ちで女たちを中に招いた。
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