第26話 Ce n'est pas bon de trop flotter.

 その日、エメは舞い上がっていた。自覚するほどに。普段は買わない高い酒を買ってしまうほどに。浮かれすぎて鼻歌を歌っていた。


 足元もスキップをしたくてうずうずしている。彼女がこれほどまでに舞い上がっているわけは数年前から行きたがっていたロンドン旅行券を手に入れたのだ。


 これでエイダンも誘えば一石二鳥だ。浮かれられずにはいられない。と、まあ浮かれた矢先だ。


「エメさん、骨折だそうでロンドン旅行にはいけないみたいです」


「そんなぁ〜! 折角のロンドン旅行がぁ!」


 病室でリオネルから告げられた残酷な言葉。今のエメの心を抉るのには十分すぎた。


「病院では、お静かに、お願いします!」


 看護師が覗き込み、注意してきた。その言葉を聞き、渋々エメは、声の大きさを小さくした。彼女の様子から、叫びたいのは山々だったのだろう。


「でも、どうするのよ。今更キャンセルなんて出来ないわよ。…エイダンと行きたかったのに」


 顔を膨らませて、ぼそりとこぼす言葉。彼女の本音だった。恋慕っている相手と、二人きりで旅行へ行きたいのは、みな、同じだろう。理解は出来るかもしれない。


 しかし、リオネル自身、恋などしたこともないから、同情は出来ないし、エメも望んではいない。


「…そうだ、リオネルが代わりに行って来れば?」


 エメがいい提案をしたというように、誇らしげに

口元に笑みを浮かべる。実のところ、エイダンとも旅行に行きたかったが、リオネルとも行きたかった。


 と、いうのもリオネルは仕事で世界各国を訪れているが、観光らしい観光はしていなかった。彼自身、観光には興味はないようだが、エメとしては何か長い人生の中で一つくらい楽しみを見つけて

欲しかった。何も残らない人生なんて寂しいではないか。


 この子供には、先の未来、楽しく生きて欲しい。ただそれだけを望んでいるのだ。


「俺が…?」


「ええ。名前はなんだったかしら…あんたと前に

任務に行ってた子」


「ジルベールですか」


 名前を出すと、エメは、手を打った。


「ああ、そうよ、ジルベール! 仲良いんでしょ、

行ってきなさいよ」


「しかし…」


 仕事が一つ立て込んでいる。まずは、それを終えなければならない。


「今やっている仕事は果たすとして、たまには、休むのもいいんじゃない?」


 エメは言外に心の休息も必要だと言った。リオネルは何も言い返せなかった。彼もそれを分かっていたから。


「…分かりました。あとでジルベールに言っておきます」


「ええ、楽しんでらっしゃいね」


 了承の言葉を返すと、エメは嬉しそうに笑った。







「旅行?」


「ああ。エメさんが行く予定だったらしいんだが、浮かれすぎて怪我をしたそうで、行けなくなったから俺が代わりにと」


「あー…それは災難なことで。俺も、そうならないようにしよ」


「ああ、そうしてくれ」


 いつもの廃墟で、資料を眺めながら伝えた。ジルベールは、一旦資料から目を離して聞いた。


「へぇ、それで俺を誘ったってわけだ」


 頬杖をついたジルベールは、心底嬉しそうだ。おまけに顔がとてつもなく緩んで、にやけている。気色が悪いと思うのは、罪にはならないだろう。


「それで、何か得られたか」


 話は脱線してしまったが、仕事の話に戻るとしよう。ジルベールは、地図を取り出し、広げた。


「知り合いの情報屋や警察達に裏で協力して貰った結果、母親の方は、リクヴィールにいるらしい。父親は多分、旅行でパリへ来るらしい。それも、名前も変えてな。全く、罪を犯した馬鹿な人間は、爪が甘いっていうかな」


 ジルベールは、呆れたように、手を上げて、首を振る。リオネルも彼と同じで何も言えない。自分達が誰かしらに恨まれていると考えないのだろうか。感じ取れないとしても、それはない。


 リオネル達が特殊なのかもしれないが、考えていて欲しい。


「で、依頼されちまったからには、殺すしかないよな」


 躊躇いは少々あるとすれば、それは不倫相手だろう。不倫してしまったとはいえ、相手を愛しているのだから、突然喪ったらどうなるのか。


悲しむのは見えている。しかし、罪は罪だ。彼等も同じく、罪を犯している。許すことはできない。自分達は人を裁くことはできない。人間みんなそうだ。


 裁くことはできなくとも、誰かの思いを晴らすことはできる。




 そして、数日後、二人は武器を持って、出立した。


「俺は、父親の方へ行く。お前は、女の方へ行け」


「りょーかい」


 父親の方は、ブローニュの森へ。母親の方は、コルマールへ。それぞれ向かった。



 ブローニュの森は、パリ中心部から西に5キロほどの位置にある森林公園だ。園内には、フランス国立民族民芸博物館、フォンダシオン・ルイ・ヴィトン、アクリマタシオン庭園の子供遊園地、バカテル庭園、シェイクスピア庭園、スタッド・ローラン・

ギャロスがある。一方でパリ内で深刻化している売春の地帯としても有名である。


 二人は、アンフェリウール湖のボートに乗る予定である。ボートからは確実に姿が見えない覆い茂った草むらに身を隠し、ライフルに弾を入れた。


 男と女は談笑しているようだ。幸い、周りにはあの二人以外誰もいない。チャンスだった。引き金をひいた。リオネルが撃った弾はものすごい速さで男の脳天を貫いた。


 頭から血が噴き出る。男の正面に座っていた女の顔に血がこべりつき、悲鳴が響く。リオネルは男を

撃った後、女に狙いを定めた。そして、そのまま同じように頭を撃った。


 女も意識がありながらも倒れた。ボートは、二人分の体重が偏り、ボートの底が空を向いた。二人の体は湖に沈んでいく。女は、溺れながらも男に手を伸ばした。


 しかし、その手が届くことはなかった。女の体の周りに血が広がり、水を汚していく。本当に愛していたんだと、リオネルは、その様子を黙って眺めていた。


風が強く吹き、草原が歌う、笑う。湖の水も波紋が広がる。着信音が鳴り響く。リオネルは携帯を取った。


「リオネル」


「ああ、終わった。すぐ行く」


 リオネルは湖に背を向けて歩き出した。






 どうやら、ジルベールの方も無事、終わったようだった。


「なぁ、殺した後だから常識を逸しているかもしれないけど、腹減ったな」


「いや、慣れた。茶だけ飲むか」


「ま、これが仕事だからな。どう伝える?」


「別に普通に伝えれば良いだろ」






「お前の両親と不倫相手は共々殺した」


「いや、ストレート過ぎない?!」


 表情を変えずに告げたリオネルにジルベールは突っ込んだ。そこはもう少し、感情を見せても良いのではないだろうか。


まあ、突然感情を見せろといわれても難しいだろうけど。


「あの!」


 リドイが、声を出した。今日、ここに来てはじめてのことだった。


「…っありがとう、ございました」


 涙ぐんで、震える声でリドイは頭を下げた。今まで泣きたかったのだろう。しかし、耐えて、耐えて、耐え続けて。漸く、復讐できて、解放されたのだ。過去から。


 どんな思いなのだろうか。リオネルはそれが聞きたかった。しかし、今聞いたところで聞ける言葉はあまりない。


 だから、いつか。自分が復讐し終えた時、彼に聞こう。その時はきっと…。











 タワーブリッジ。


「おお!」


 大英博物館。


「おお!」


 バッキンガム宮殿。


「おお!」


 ビッグベン。


「おお!!」


 パリからユーロスターで2時間半。ツアーでは

ない自由旅行。ジルベールは、有名な観光地に目を輝かせていた。かくいうリオネルも、大英博物館を見たら、思わずはしゃいでしまったが。


「ジルベール、もう少し静かにしろ。周りから見られてる」


 注意すると、ジルベールはすぐさま口を閉ざした。彼もやはり、恥ずかしいらしい。普段、あんなに騒いでいるのに、だ。ジルベールは、照れたように頬を掻いた。


「へへ、楽しいには楽しいよ。でもさ、リオネルと何の仕事もなく、来れるのなんて初めてだったから、思わずな」


 リオネルは、目を逸らした。照れたのだ。だって、嬉しかった。こうやって、自分がいることで誰かが笑ってくれることが。


 日に日に変化が起きている。今までのループでは起きなかったのに。精神が崩壊したから、だろうか。理由は定かではない。けれど、胸が温かくなったと感じた。


「さて、もうすぐ昼だし、飯食べにでも行くか」


 そう、歩き出そうとした時、聞き覚えのある女の声で、足が止まった。


「あら、リオネルじゃない」


「ペチュニアか。久しぶりだな」


 普段と違い、赤い髪をアレンジしていた。世の男なら見惚れるくらい、綺麗だ。


「うん、久しぶりね。で、そっちは…」


 レティシアはリオネルに笑いかけてから、ジルベールに目線を移す。


「ジルベール、ね。噂に聞いていたわ。リオネルに執着、傾心してる殺し屋がいるって」


 リオネルは、ジルベールにじとーっとした目を投げる。まぁ、自覚はあったもののそれほどに広まっているとは思いもよらなかった。


「ふふっ、リオネルも多少は好んでいるということね。前に顔を合わせた時は話らしい話はしていなかったわね。改めまして、私はレティシア•ペチュニアよ。宜しく」


 レティシアは、ふわりと笑いかけた。彼女は笑顔が似合う。今まで僅かしか交流したことがなかったが、ジルベールは今の彼女の笑顔を見てそう確信した。


 プロの殺し屋や暗殺者などには必要ないものなのかもしれないけれど。


「うん、宜しく。…で、なんでグレンがレティシアさんといるんだよ」


 レティシアの隣に立っていたグレンにジルベールは、いう。そう、リオネルとジルベールからすると、今まで親しくもなかった彼女達が共にいることが不思議なのだ。


「昨日、ロンドンで任務があってな。そこで偶然、ペチュニアと鉢合わせた。殺す相手が同じ対象であったから手を組んで任務を遂行して観光案内してもらっていたところだ」


「お、おう」


「なるほど」


 実のところ、他の任務でも同じ対象を殺すことなんて幾らでもある。それによって争いも起こる。任務を遂行できなければ報酬なんてもらえないし、信用も失うのだ。だから、争うことは極力避け、手を組んで任務を遂行するのだ。


 結果的にどちらも手柄を持ち帰ることが出来るのだから。


「あなたたち、任務じゃなくて旅行らしいけど宿は決まってるの?」


 レティシアの言葉にぐっと、二人は黙ってしまった。実のところ、決まっていなかった。数百万と稼いでいる二人だが、ジルベールは兎も角、リオネルはシンプルな方が好んでいるし、まず、大層な宿に泊まるという考えが無かったのが実情だ。


…結論で言うと、何も考えずに来てしまったというわけである。


「あー、その顔じゃまずもってないわね」


「任務以外になるとお前ら、頭が多少、鈍くなるからな。どうせ、何も考えずに来たんだろ」


 図星だった二人は、さきほど以上に口をかたく、

かたく閉ざした。一方は心臓の部分をぎゅっと抑えていたが。


「…馬鹿ね」


「馬鹿だな」


 二人にこんなふざけた言葉を言えるのは彼等くらいしかいないだろう。それほど、心を許しているからか。


「じゃあ、私の家に泊まれば良いわ。丁度グレンも泊まるし、男同士気楽でしょ?」


 彼女には家族がいるのではないかと遠慮する気持ちがあった。しかし、彼女は言及したことはない。する必要もないと思うが、言いたくはないのだろう。


 誰だって、話したくはないことなど多くある。ジルベールも、気になりはしたが追及はしなかった。ただ、気になることは一つあった。


「な、なぁ、レティシアさん。あんた、女の子、でしょ? 女の子の部屋に男入れて大丈夫なの?」


「あんたらならそんな外道がするようなことしないでしょ。それにあんたらは私の眼中にはない。付き合っても面倒臭そうだしね」


 レティシアは平然と言い放った。まぁ、数ヶ月だが、彼等といて僅かだが知ったのだろう。恋愛対象にしても面倒臭いと。しかし、その逆で友人としては上手くやっていけているのである。勿論、同業者としても、だが。


そういうことで、棘のある言葉を吐いたのだった。


 まさか、同世代の女に恋愛対象としても見られていないことにショックを受けた内、二人を置いてレティシアは平然といった。気にする方が負けである。


「ほら、行くわよ」


 言外に、あんたたちでもいつかきっと、そんな相手ができるさという、目をそむけたような思いを込めさせた。できたらそれこそ奇跡である。


 レティシアは、デザインスカートを翻してヒールを鳴らして歩き出した。リオネルもその半歩後ろで歩いた。


 数分後に、我に返ったジルベールとグレンも追いかけたのであった。




 三人は、レティシアの部屋の中へ足を踏み入れた。高級マンションらしく、地上から8階にある。


 レティシアの部屋はあまり派手なものはなく、しかし、整理されており、レティシアが好きであろう洒落た家具が置いてあった。


 同じように少々お高い家に住んでいるグレンは兎も角、リオネルとジルベールにとっては目を驚かせる出来事だった。高級マンションなんて遠くから見ることしかなかった。


 そもそも、興味はなかった。しかし、こんなに便利で広いのなら考えてみようかなと思いもした。


「あんたたち、早く観光してきなさいよ。あれはまだ序の口でしょ」


「あれが?」


「序の口、だと?」


ジルベールとグレンは言葉が出なく、固まって


いた。あれをどうして序の口と言えるのだ。


まぁ、英国人にしか知らない観光場所、


良い場所なんてそこらじゅうにありそうだ。


彼等にとってそこは、初心者が知っている


場所と同然なのだろう。


「ほら、メールで送っといたからそこ、


見に行きなさいよ。絶対よ」


と、言い捨てて足早にレティシアは部屋を去って


いった。何か、用事でもあったんだろう。


取り残された三人は顔を見合わせて息を吐いた。



 

ジルベールとグレンはロンドンの市街地へと


向かっていった。リオネルも誘われたりしたが、


断った。どうせ、明日も観光に向かうのだ。


そう、思い、別の方向へ向かった。


そこは、地下鉄ロンドンブリッジ駅から徒歩で


数分のカフェ、「グラインド」であった。


シンプルでありながら、お洒落な雰囲気の店は


観光客や、地元の人々にも人気だ。


今日は少し腹が減ったと感じていたので、


リオネルは、看板商品のフラット・ホワイト


を頼んだ。ラテでもカプチーノでもない、


ミルクのたっぷり入ったコーヒーだ。


まさにジャストなおいしさ。しっかりとミルクが


入ってはいるが、コーヒーが薄まった感じはなく、


香りの高い芳醇な味。甘すぎなくて良い。


マフィンも、フラットホワイトに合う甘さで


あった。


リオネルはしばらくそこで一人、ゆったりと


過ごした。



一人、レティシアの部屋へ戻ったリオネルは


ベランダで煙草を吸っていた。何も考えていない。


脳が拒否しているらしい。だから、ずっと


遠くを見つめたまま、ただぼうっとしていた。


「また、吸ってたのね」


「…レティシアか」


いつの間にか戻ってきていたのか、レティシアが


横に立っていた。アイスコーヒーを片手に


持っていた。


「別に良いだろ」


拗ねたような声を出す。二度も言われたくない


らしい。しかし、悪いのは自分なのだから、


仕方ない。だが、口が寂しい。何か口に


咥えていたい。煙草じゃなければ何が良いと


いうのだ。むすっと、誰にも分かりはしないが、


頬を少し膨らませてレティシアを睨んだ。


「私を睨んだってなんにも出てこないわよ。


なら、飴でもくわえときなさい。そうすれば


少しは禁煙できるし、寿命が延びる


んじゃない?」


と、提案されたが、リオネルは思いにふけた。


命を延ばしても何も良いことはない。


どうせ、生きられたって、寿命で死んだって


繰り返すんだから。とうの昔にリオネルは


諦めてしまった。生きることすら。元々復讐を


終えたら死ぬつもりだった。それが少し、


先延ばしになっただけだ。こんなこと言ったって


彼女にもわかりっこないだろう。


だから、言わなかった。何も答えず、煙草の


火を消して、部屋へ戻った。残るのは、


煙の残骸と、アイスコーヒーを飲みながら


景色を見つめるレティシアの姿だけだった。



部屋に入ったリオネルはぼぅっと、部屋を


見つめていた。


と、そこでピアノがあるのを見つけた。


グランドピアノではなかったが、家庭用などで


普及されているアップライトピアノがあった。


リオネルは、おもむろに近付き、鍵盤蓋を


上げた。現れた鍵盤に手を置き、指を動かして


鳴らした。高い音が響く。


「吃驚した? 私もね、時折弾いてるのよ。


弾いてると、精神が統一されるから。任務前


とか、後とかね」


氷が残ったガラスコップを鳴らしながら


レティシアも部屋に戻ってきた。机にコップを


置き、鍵盤を撫でた。優しい手つきだった。


「俺も、そうだった」


「そうだった?」


その声音は、浅くなく、けれど深くなく。


レティシアは、リオネルの過去に深く追求する


気はないのだろう。話すか、話さないかは


本人が決める。他人はただそれを黙って


甘受すれば良い。その為にいるのだ。


リオネルは、ゆっくりだが話した。


「ああ。以前、一度弾いたが、それ以来


あまり弾いていない」


この何回目かも数えられなくなったループの


中で、ジルと、マリユスの前で弾いたあの


一度きりだ。それ以降は弾いていない。


弾けなかった。その後に、何度も胸を打つ


悲痛な出来事が起こっていたから。弾く気にも


なれなかった。昔、弾いた時はただ、両親に


褒められたかったから。笑顔にしたかったから。


しかし、彼等が死んだ今、その思いは星屑の


ように砕けて散って消えてしまった。


だって、一番喜ばせたい、幸せにしたい


人達が消えてしまったのだから当然だ。


リオネルの心中を知ったのか、どちらかは


不明だが、レティシアは彼の手を握った。


冷たかった心に温かさが戻ってきた。


「一緒に弾きましょうよ。私、あなたとなら


楽しく弾けそうなのよ」


せっかくの好意だ。わざわざ伝えてくれたのに


無駄にするわけにはいかない。リオネルは


静かに椅子に座った。その隣にレティシアも


腰掛けた。二人は、サン=サーンスの


「死の舞踏」を弾くことにした。どちらとも、


楽譜を見なくても弾けるは弾ける。


連弾をする。息が合い、音が重なる。


レティシアの目を見た。喜びを感じた楽しそうな


目だ。それを見て、リオネルは、久々に


楽しさを実感した。楽しいというのは、誰と


いても感じることができる。それは、レティシア


も隣で楽しく弾いているからだろう。


だから、リオネルにも伝染した。楽しまずには


いられなかった。彼女のピアノの音色は、


軽やかで、空を舞う蝶のよう。それでいて


強かさもあった。彼女のピアノは、人も楽しませ


る、とても良い演奏だった。


弾き終わった後は、快感に近かった。


興奮が冷め、しかし、心地良かった。


何より、彼女と弾けることが。


レティシアも、そう思っていた。


「仕事で忙しくて弾けなかったけど、やっぱり


音楽って楽しいわね」


「ああ、そうだな」


多分、今まで忘れていた。このループの中で、


楽しさなど欠片もなく、ただ、殺伐とした


人生だった。けれど、このイレギュラーな


現在のループで、なぜか上手く、ことが運んで


いて、以前よりも彼等と仲が深まり、こうやって


普通に話せている。それは悪い吉兆なのか、


もしくは、良い吉兆なのかは分からない。


神のみが知ることである。


「…あんたの人生の中でも少しは、喜び、


豊かさが溢れてるんじゃない? 今まで、


子供らしいことも、普通らしく、生きて


これなかったかもしれない。けど、」


「…ペチュニア。それは、素直に受け取って


良いのか?」


「え、ええ。受け取って。私の言葉をそんな


素直に受け止める奴なんてあんたと、


ジルベールくらいしかいないでしょ」


褒められたような、罵倒されたような。


どちらつかずの言葉を彼女はいう。


「そうだな。グレンは冗談だと思って受け止め


なさそうだな」


「ええ、多分ね」


二人はひとしきり笑い合った後、息を吐いた。


呼吸を落ち着かせる為に。


多分、二人はこうやって笑うのは、とても


久しぶりで、忘れていて、最近やっとできた


のだ。それゆえに疲れた。


ピアノから離れ、二人してソファーに倒れ


込んだ。あのドイツでの任務ほどではないが、


大笑いして、表情筋が痛い。


「あんた、もっと笑いなさいよ。笑うのは


辛いかもしれない。けどさ、あんた、笑うと


良い顔してるんだから。笑ったら嫌なこと


ぜーんぶ、じゃないけど消し去ってくれる。


だから、本気で笑う。泣きたい時は泣けば良い。


けど、それ以外は少しは笑ったきなさいよ」


レティシアはいったっきり、黙って録画していた


らしいドラマを見始めた。リオネルはレティシア


の横顔を盗み見た。真剣に見る顔がなんとも


面白くて、無意識に口角を上げて彼女と


同じようにドラマに目を向けた。






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