愛可理

 愛可理は三月二十日の誕生日を過ぎ、また四月からの新しい年度を迎えて今年入社十六年目の春を迎えていた。

「岸本さん、今年リフレッシュ休暇ですよね? どこ行くんです?」

 後輩達に羨ましがられているのか、からかわれているのか判らない話題を振られ、

「う~ん、どうしよう。まだ決めてないけど、旅行に行くなら海外より国内がいいなあ」

などと話を合わせ、適当に答えていた。

 愛可理の会社では入社十年以上になると、五年毎にその年の有給に加えて、五日間のリフレッシュ休暇が貰える。五日間の夏季休暇に土日を併せ繋げると、最大十六連休の長期の休みが取れるのだ。

 五年前の入社十一年目の年には初めて貰ったその休暇で、愛可理はりんと一緒に休みを合わせ、ハワイで十日間過ごした。丁度離婚をしたばかりの年だったからだ。あの時はとても楽しく、今となっては忘れられない思い出になっている。

 しかし彼女はもういない。それに年齢も三十五歳となり、アラサーからアラフォーの仲間入りをした。そんな愛可理に、海外へ行く気力や体力はまるでなかった。

 その上、同じく長い休みが取れる同期や親しい友人などいない。離婚してからは、同僚の紹介で知り合い軽く付き合った人とも、とっくに終わっている。

 それから特別な関係を持った人は、表向きだと誰もいないことになっていた。だからそんな長い休みは、一人のんびりと温泉につかるくらいしか思いつかない。そう自分をおとしめる振りをしただけだ。

「国内なら温泉ですか? 一緒に行く相手がいないのなら、お供しますよ。僕はリフレッシュ休暇が無いので、夏季休暇分の一週間だけになりますけど」

 まだ同じ課で働いている光輝が、そう言ってからかってくる。入社五年目になり、四月三日が誕生日である彼は今年で二十七歳になった。

 学年としては九つ違うが、誕生日が三月と四月で近いため、実質的には八歳違いになる。たった一歳の差をこうして気にするのは、愛可理もおばさんになった証拠かもしれない。

「何言ってるの。あなたも一緒に行く彼女ぐらい作りなさい。もういい歳なんだから」

「岸本さんに、いい歳と言われる年では無いですけど、そちらの方はご心配なく」

 彼は昔のように、あい姉とは言わなくなった。もちろん会社では、今の様に苗字にさん付けだ。ただ二人きりの時は、互いに下の名前で呼び合うようになったのだ。

 愛可理の返しに、小生意気な口を利くようになった彼の頭をポカリと叩くと、職場にワッと笑いが起こった。これがいつもの二人のやり取りだ。

「そうよね。寺内さんには、大学で知り合った彼女がいるものね」

 光輝より二つ年上の女性事務員がそういうと、すかさず愛可理が、

「ごめんなさいね、どうせ私にはそんな遠い昔に知り合ったような彼氏なんていませんよ」

と軽く睨み、再び周囲の笑いを誘った。そこに光輝がこれまたいつものように続けた。

「だから僕が大学のOBを紹介するって、言ってるじゃないですか」

「私の歳にあったOBなんて、どうせ頭が禿げあがった人しかいないんじゃないの? 私は禿げ嫌い、デブも嫌い、チビも嫌い」

「そんなことばっかり言ってるから、……なんですよ」

「言ってるから、……って何よ!」

と二人でこんな自虐ネタばかり言い合い、職場を和ませるのが役目だった。といっても彼には、大学で知り合った彼女なんていない。春先のある日のどこかで、女性と歩いている後ろ姿を職場の人に見られ、

「あれ、誰と歩いていたの?」

 そう追及された彼は咄嗟に、大学で知り合った彼女と言った。だからいつの間にか、そういう恋人がいることになっている。だが実際の正体は、愛可理だった。ばれなくてよかったと、後に二人で冷や汗を掻いたものだ。

 誰かに見つかってはいけないからと、変装していたおかげだろう。まだ花粉が飛んでいる時期だからと、マスクをしていたことも良かった。さらにいつも長い髪を下ろしている愛可理は、あの時後ろで束ねポニーテールにしていた。

 若い光輝と一緒にいてもおかしくないよう、ファッションも普段とは変えていた。滅多に着ない、腕や足をつるりと出した服やパンツを身に着けていたからかもしれない。

 その為会社の人達には、まさか相手が愛可理だなんて思いもしなかったのだろう。彼と付き合いだしたのは、りんの三回忌が過ぎた一昨年の十二月からだった。

「今年のクリスマスは、どういう予定ですか?」

 彼に初めてそう尋ねられ、愛可理はドキリとした。恋人達または家族が揃って楽しく過ごさなければいけない、との強迫観念にかられるこの時期だ。

 ここ数年はずっと女友達と過ごすか、一人で時間を潰すことが多かったからか、久しぶりにトキメキを覚えた瞬間でもあった。

「僕と一緒に過ごしませんか?」

 以前から光輝が、自分に好意を持っていることは気づいていた。愛可理も憎からず、彼のことをずっと気にかけてきた。

 しかしまだ幼い頃から彼を見てきたせいで、異性としてみるには時間がかかった。向こうもそうだったに違いない。今一歩そうした関係になることを、なんとなく避けてきたように思う。

 だがとうとうその壁を、彼の方から乗り越えてきたのだ。年齢差というものは、年を重ねる程徐々に感じなくなる。彼と長い間一緒に過ごしてきたおかげで、それが良く理解できた。

 小学生や中学生の頃だと、学年が一つ違うだけでかなりの差を感じたものだ。しかし大人になればなるほど、そう思わなくなる。りんが一回り以上も違う上司と、不倫関係になったことからも判るだろう。

 それに世間では、十や二十の年齢差で結婚する人達だってそう珍しい事ではない。だがそれには条件がある。それは男の方が上だということだ。

 逆の場合も当然あるけれど、余りに離れていると何故か祝福する人達よりも、嫉妬や誹謗する人の方が多くなる。

 英語では年の差がある事を、メイ・ディセンバー、と呼ぶ。これは人間の一生を一年で表せば、春の盛りの五月が若い人、一年の終わりの十二月が年上の人を表すものだ。

 日本でも、年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せという言葉が確かにある。とはいっても、上だったらいくつでもいいという意味ではない。

 年上女房は自分が年上との引け目から、夫が要求することを素早く読み取り、気に入られるよう努めてきたようだ。その結果、「目走りが利く」という言い方になったらしい。

 そこから年上の女は「目ます繁盛」と言って重宝ちょうほうされたという。その為嫁として迎える為に擦り減らない「かねの草鞋」を履いて方々を探せという意味に転じた。それがさらに金の草鞋は値打ちの高い物を探す時の例えに使われていた事から、そうした言い回しが生まれたようだ。

 要するに、本来は男や家にとって便利だという意味でしかない。また海外の例でも、青春真っ盛りの若者と人生が終わりに近づいた高齢者との恋愛を、単に揶揄やゆしているだけなのだ。

 昔ほどで無いにしても、愛可理だって若い光輝との交際自体に引け目は感じる。彼は全く頓着していないが、周りからどう見られているのか、最初の頃はそればかりが気になった。

 ようやく慣れて来たのは、ここ最近の事だ。それでも社内の人達に隠していたので、恰好や出歩く場所には気を配っていた。だから有名なテーマパークや人気スポットには、なかなか行けない。もっぱら観光客もまばらな郊外の街ばかりを選び、デートを重ねてきた。

 それでも稀に知っている人が見かけたらしく、目撃情報が広まるから恐ろしい。ただ今の所は、光輝が同年代の女性と一緒にいたとの風評が主に広がっていたので、助かっている。

 二人の付き合いは順調で、恋人同士として全く遜色のない関係を保っていた。ただこれがいつまで続くのか、不安に思う気持ちは時折頭を過る。

 言い寄って来たのは、彼からだ。それに自分を好きだと思ってくれる気持ちが、とても強い。素直にそう信じられる時は良かった。それでもつい、男の人は若い子の方が良いんじゃないの、などと思う事がある。

 さらには周囲の目を気にしたり、会話の中で世代ギャップを感じたりした時など、どうせおばさんだからと自虐的になってしまう。他にも昔の癖で甘やかし過ぎたり、逆に上から目線で説教してしまったりするのだ。そこで後になって、何をやっているんだろうと反省する自分が嫌になる事もあった。

 特に将来の事を思うと、正直悩ましい。愛可理の年齢だと、どうしても結婚を意識してしまう。だがまだ付き合って一年半程度なのに、自分からそうしたプレッシャーを与えたくはない。

 彼の回りでも既に結婚した同期や友人達が、ぽつぽつと現れ始めてはいる。結婚式等に招待されることが多くなり、当初は物珍しさも手伝って、嬉々として出かけていた。だが最近は

「これだと、祝儀貧乏になっちゃうよ」

と愚痴をこぼすようになった。

 既にそうした経験を済ませている愛可理でも、今では後輩達からの招待が多くなった。よってどうしても断れない間柄でない限り、できるだけ欠席に丸を付けている。

 しかし今回の長期休暇は、もしかすると大きな転機を迎えるかもしれないとの予感があった。先程は皆の前で冗談めかしたが、本当は二人で休みを合わせ、北海道の高級ホテルに泊まる予定だからだ。

 愛可理の休暇は二週間ある為、最初の数日は家にいてゆっくり過ごし、それからホテルへと向かう。その後遅れて休みを取得する彼と合流し、一緒に五泊六日する計画だった。

 現地合流にした事や、途中から休みを合せたのも、周辺に対する警戒の為だ。さらに帰りも彼が先にホテルをチエックアウトし、愛可理はその翌日に出るという徹底ぶりだ。

 それでも彼とそれだけ長い間、共に過ごしたことは今までにない。せいぜい一泊二日の旅行しか、したことが無かった。しかも今回、長期旅行を提案してきたのは彼からだ。

 だからこそ、何かを期待してしまう自分がいた。一方で傷つきたくないとの意識も働く。決して自惚れるなと言い聞かせ、楽しい旅行ができるだけでも良いではないかと、考えるようにしていた。

 そうしていよいよ、六月の半ばからの長期休暇に入った。梅雨がない北海道は、雪が解けたこの時期なら悪くない。これが七月や八月となれば、観光客も増えてホテル代も高くなる。

 それに主に八月のお盆前後に取得していた夏季休暇も、近年になると分散して取ることを推奨されていた。その為同じ課の職員が重ねて休むなら、この頃が最も取り易かったことも要因の一つだ。

 予定通り愛可理は羽田から飛行機に乗り、二時間弱かけて女満別めまんべつ空港へ降り立った。蒸し暑くなり始めた東京と比べ、こちらは少しばかり涼しくカラッとしている。それでも長袖でないと肌寒い。

 六月中旬のこの時期は、札幌だとよさこい祭りが開催される為だろう。新千歳空港行きの便は賑わっていた。愛可理はその混雑を避けるように、比較的空いている知床しれとこを今回の旅行先に選んだ。

 何故なら六月からウニが解禁され、食べ頃は八月までと言われていたからだ。函館のイカそうめんも捨てがたかったが、光輝と相談してこちらを選択した。

 当時はまだ世界遺産にも認定されていなかった為に、函館よりも人が少ないという点も魅力的だった。今回は同じホテルに泊まり、豊かな自然を転々とし満喫しながら、のんびり過ごすことがテーマだ。

 レンタカーを借りて知床峠や知床五湖の周辺を散策し、フレッペの滝やオシンコシンの滝、カムイワッカイ湯の滝等を巡るツアーも考えていた。

 羅臼岳や知床連山の原生林など野性味溢れる自然の壮大さに身を晒せば、東京で蓄積された疲れも一気に吹き飛ぶだろう。他にもプユニ岬や、ウトロ温泉にある夕陽台からオホーツク海に沈む夕日が綺麗だというロマンチックな場所もあるからと、ここに決めたのだ。

 ホテルへ先にチエックインした愛可理は、一便後の飛行機で来るはずの光輝を、部屋で待つことにした。悪いと思いながら、用意されたウェルカムドリンクを先に飲みながら、窓の外を眺める。

 幸い天気が良く、晴れ渡っていた。目の前にはオホーツク海が広がり、恐らく国後島くなしりとうと思われる北方領土まで望むことが出来た。反対側の山のいただきには、僅かながら雪が残っている。これは長いと七月下旬でも見られるらしい。

 これからここに五泊するのだが、今日一日は外に出ない予定だ。ざっとした計画は組んでいる。だが明日以降の天候を良く調べなければならない。場合によっては、周る順番を変える必要もあるので、そうしようと話し合っていた為だ。

 それに部屋でゆっくり過ごす時間も欲しい。ホテルの中にある土産物店なども、じっくり見ておきたかった。初日に目を付けておけば、最終日に慌てることもなくそれらを買って帰ればいい。

 といって会社の同僚達に配るものは、別にする必要があった。ここで買ったお菓子などは、光輝の分だ。愛可理は彼と別れた後、仙台に寄る日程を組んでいる。そこで自分の分を購入するつもりだった。

 そこまでしなくてもいいのでは、と思った事もある。だが社内恋愛の場合、きちんと結婚が決まるまで発表しない方が、後々面倒な事にならない。これまでの長い会社生活における経験で、愛可理はそう学んでいた。

 過去には付き合って早々、周囲にばれて散々冷やかしなどを受けた挙句、別れて気まずい思いをし続けた人達がいた。またいざ結婚か、と言う直前で他の職場の女性と関係を持ってしまい、破談した例もある。

 愛可理達は同じ課に所属している為、尚更下手な動きは出来ない。さらに彼は、かなり社内の女性達から人気があった。確か短期間ではあるものの、社内の女性と付き合った過去があると聞いていた。

 その女性は別の人と結婚し、もう会社に居ない。しかし愛可理とは年齢差があることや妬み等から、交際を公にすれば女性職員達に嫌がらせを受ける可能性は、とても高いと予想される。

 そこまで考えた時、既に彼と結婚する前提で想像を膨らませている自分に驚いた。もちろんそれなりの年だし、結婚はしたい。二年前に彼から告白された時も、年上の女性を口説くのなら、責任を取る覚悟はあるのと冗談めかした程だ。

 しかし彼はある、とはっきり約束した。その気持ちに嘘が無いと信じ、付き合う事を了承したと言っても良い。年齢差を除けば、今後彼以上に条件の良い相手と巡り合える自信も無かった。

 もちろん彼の事は付き合いも長いこともあり、決して嫌いではない。躊躇していたのは互いに過去の事等を知り過ぎていて、今更恋人になどなれるのか、不安を感じていたからだ。

 けれど今は、彼からのポロポーズを心待ちにしていた。この一年半で、愛可理の心配は杞憂きゆうだったと証明されている。光輝はとても優しく、本気で自分を愛してくれ大事に想ってくれた。

 だからこそ期待してしまうのだ。さらに想像が膨らむばかりだった。自分が彼の立場だったらどうするか。おそらく大事な場面は、旅の終わりに取っておくだろう。

 何故なら万が一でも失敗すれば、その後の旅行が気まずくなるからだ。それに予定では、後半に綺麗な夕陽を眺めるスポット巡りが目白押しになっている。その辺りではないか、と愛可理は予想していた。

 もちろん天候が悪く、折角の夕陽が見えない場合もあるだろう。それでも知床五湖などは、残雪の山と共にミズバショウの群生やエゾエンゴサクなど花々の開花が見られ、最も美しい時期のようだ。

 そこ以外だと「日本の滝百選」に選ばれたオシンコシンの滝のような、四季によって変わるという優美な場所や、滝自身がお湯になっているカムイワッカ湯の滝といった珍しい観光地もある。

 雄大な景色を眺めながら、というシチュエーションを望めば、今回の旅でそうした場所は随所にあった。要するにプロポーズするのに相応しいポイントが、各所に散らばっているのだ。

 彼はその中から、どこを選ぶのだろう。それ以前に、そのような機会が訪れるだろうかと、またやきもきする。そうしている間に、時間があっという間に過ぎて行く。

 気が付くと、そろそろ彼が到着してもおかしくない時間になっていた。携帯のショートメールで羽田を出た、空港に着いたと既に連絡を受けている。

 どうしよう。ロビーまで迎えに行った方が良いだろうか。そう考えたが、彼からは部屋で待っていてと言われていた事を思い出し、止めた。

 急いで洗面所に走り、髪の毛を整えて化粧直しもした。まだ彼と会社で別れてから、数日しか経っていない。だがほぼ毎日顔を合わせていただけに、その期間がとても長く感じられた。

 これから彼との長い休暇が始まる。そう思うと心臓がドキドキとしてきた。期待に胸を膨らませる。とにかくこの旅行を楽しみたい。でもそれだけでは終わらせたくない感情も、どこかで残っていた。

 すると部屋のインターホンが、二回鳴った。彼だ。急いで駆け寄り、ドアを開ける。しかし目に飛び込んできたのは、意外なものだった。

 視界の先が赤い。それがバラの花束だと気付くまで、ほんの少し時間がかかった。だがその後ろに、満面の笑みを浮かべた光輝の姿が見えた時、愛可理の心は華やいだ。

「わあ、どうしたのこれ」

「プレゼントだよ。それより早く中へ入れてくれないかな。恥ずかしいから」

 その言葉に慌ててドアを大きく開け、彼を招き入れる。片手に持った旅行バッグを置きドアを閉めてから、五十本はあるだろう花束を受け取った。

「ありがとう。でも驚いた。こんな事、今までされたことが無かったから」

「そうだと思って用意したんだ。待たせてごめん」

「いいのよ。最初からそう言う予定だったんだから」

 けれど彼は首を横に振り、ポケットから何やら取り出しながら言った。

「そうじゃない。これも受け取ってくれるかな」

 小さな箱の蓋を開けたその中には、キラキラと光るダイヤらしき指輪が入っていたのだ。絶句している愛可理に向かって、さらに続けた。

「僕はあなたの事が大好きです。結婚してください。絶対、幸せにします」

 このタイミングでプロポーズされるとは、全く予期していなかった。その為動揺を隠せないでいたが、徐々に喜びで胸が高鳴った。天にも昇る幸せな気持ちで一杯となり、涙が溢れ出てきた。けれど思わず尋ねてしまった。

「ありがとう。でもこんな年上の私で、本当にいいの?」

 だが彼は、真剣な目をしていった。

「もちろん。年齢なんて関係ない。僕は愛可理とこれからの人生をずっと一緒に過ごしたいと思っている。世間はもちろん、世界の偉人達の名言の中にも、結婚は不幸なものと言う主張は驚くほど多い。逆に素晴らしいと説いている言葉が、想像以上に少ないのも事実だ。現に愛可理も一度経験しているから、その意味は僕より理解していると思う」

 嬉しい返答に一瞬喜んだが、その次の言葉を聞いて何を言い出すのかと首を傾げた。もちろんこれまでの付き合いの中で、あの苦い思い出については、彼に全て話してきた。

 どういう生活で何が悪くてそうなったのか等、自分が理解できている範囲で正直に伝えている。またもっと長い付き合いだった雅史との関係についても、ほぼ包み隠さず詳細を述べてきた。

 唯一隠し事があるとすれば、彼と別れ自分を見失っていた頃の不適切な関係についてだ。あの時期に係わる事だけは、いくら何でも教えるつもりは無かった。

 嫌われたくないとの心理が働いたことも事実だが、それだけではない。全てを知る事が、正しいとは思わなかったからだ。

 続きがどういう展開になるか、愛可理は冷や冷やしていた。だがそれは、無用な心配だった。彼は話を進めた。

「でも僕はそういった話を耳にしたり読んだりした時、逆に思ったんだ。結婚によって幸せになる事がそれだけ難しいのなら、一人の女性と一生添い遂げ幸福になりさえできれば、それだけで人としての人生は誇れるものになるだろうって。だから、愛可理にプロポーズしたんだよ。世の中の誰を敵に回しても君の盾となり、二人の暮らしを必ず守るんだと心に誓ったんだ」

 愛可理は強く胸を打たれ、直ぐに頭を下げて言った。

「こんな私で良ければ、お願いします」

 すると彼は、ぎゅっと抱きしめながら囁いた。

「何を言ってるの。そんな愛可理を愛しているんだから」

 そんな彼の温かい胸にもたれかかる。その間にこれまで愛可理の頭の中を巡っていた数々の不安は、溶けるように消えていった。

 その後の旅行は、どこを訪ねても充実していて楽しんだ。二人で知床の自然美に酔いしれ、感想を言い合った。時には情緒たっぷりの景色を眺めながら、手を繋いだり唇を重ねたりもした。

 またいつ結婚式を挙げるか、どういう形式で行うか、新婚旅行はどこに行くかといった話題にまで及んだ。大雑把ではあるけれど互いの意見を出し合い、方向性を決めていく。

 そうした話し合いでは、彼がほぼ全面的に愛可理の意見を取り入れてくれたからか、揉めることも全くなかった。それどころか二人の価値観が似ていた事を認識できたおかげで、将来像がより明確になり、明るいものになると確信さえできた。

 愛可理は結婚するなら、会社を辞めるつもりでいた。彼は好きな方を選べばいいと言ってくれた為、今年度一杯は働いて三月で退職することにした。

 式はその後の四月辺りに挙げるのが、いいかもしれない。着るのはやはりウエディングドレスだ。それに食事の美味しい場所が良い。これまで数多く出席してきたけれど、見た目ばかりが豪勢なだけで、祝儀をはずんだ分、がっかりさせられたことが多々あったからだ。

 といって親族や個人的な友人は、多く呼べるほどいない。会社では同じ課なので、同僚達だけでもそれなりの人数がいる。だったら彼らを中心にして、四十人程度の小さな規模でやろうと決めた。

 チャペルの付いた、レストランウェデイングにしよう。新婚旅行は、折角ならヨーロッパに行きたい。季節で考えると、イタリア辺りが良いだろう。だからと言って、余り色んな観光地を転々と移動するのは避けたかった。

 今回の旅の様に、一か所多くて二か所に絞りたい。ゆったりとしたスケジュールで周辺を観光するのが良いだろう。だからツアーではなく、自分達で計画を立てたいところだ。

 子供はどうしよう。来年は愛可理も三十六歳になる。統計や医学上だと、三十五歳以上は高齢出産と呼ぶらしい。卵子や子宮の能力が低下し、産みづらくなるようだ。

 正直、絶対に子供が欲しいとまでは考えていなかった。どちらかといえば、それ程幸せな家庭ではなかったからだろう。だから無理してまでは産みたくなかった。

 ましてや不妊治療など、するつもりもない。金銭的に負担がかかり、精神的にも体力面でも大変な思いをしている人達が、職場には多くいたからだ。

 その事を正直に話すと、彼は賛同してくれた。

「今は医学的に進歩してきたとはいえ、子供を産むことは、命に係わる大変な作業だ。それに出産は、女性しかできない。男の立場でそんな辛い思いをしてくれだなんて、身勝手な事は言えないよ。僕は君が幸せだと思えるのなら、二人きりだって良い」

 その言葉を聞いて安心したが、それでも念の為に聞いた。

「でも親に孫の顔を見せたいとは、思わない?」

 だが彼は首を振った。

「無いよ。それは親の想いであって、その為に僕らの人生がある訳じゃない。出来たら喜ぶだろうとは思うし、子供のいる生活も楽しいとは思うよ。でもそれは目的じゃない。あくまで優先されるのは、二人が楽しい結婚生活を送れるかだろう」

 断言する彼の力強い口調に勇気づけられた愛可理は、その後二度とこの話題に触れることはなかった。未来を語り合えば合うほど、二人の間には何の懸念事項が無いと確信できたからだ。

 知床の壮観なたたずまいに包まれているだけで、これまで蓄積されていた疲労や鬱憤は掻き消されていただろう。だがそれ以上に彼から受けた結婚の申し出が、今回の旅行をより充実させてくれた。こんな至福の時を過ごせるとは、思いも寄らなかった。

 その分、予定の日程を終え、彼が先にホテルを出る日を迎えた時は、別れが非常に辛く感じた。一週間後には、再び会社で顔を合わせる。それでも離れ難かった。

 仙台への旅行を取り止め、一緒に東京へと帰りたいと本気で考えた。そのまま彼の部屋に転がり込み、休みの間ずっと過ごすのも良いだろう。彼が会社に出社していく姿を見送り、帰って来るまで掃除をしたり、食事を作ったりして待つのもいいかもしれない。

 愛可理がそう告げると、彼は笑って言った。

「そう思ってくれるのは嬉しいけれど、そんなに慌てなくてもいいと思うよ。結婚すれば、ずっとそういう生活が続くのだから。折角の休みだし、一人で旅行する機会なんてそうないでしょう。だってこれからは、基本的に僕が一緒なんだから。もちろん、愛可理が行きたいと思えば、止めはしない。そんな束縛はしたくないからね」

 そんな嬉しいことを言われたら、引き下がるしかない。それに余りしつこく付きまとうような態度を取れば、嫌われてしまう。恋人から婚約者へと、関係が深まっただけで十分だ。そう思い直した。 

 これからは互いの親に会ったり、会社の上司に報告したりしなければならない。それらの段取りが済んで正式に発表するまで、引き続き二人の仲は今まで通り秘密にしておいた方が良いだろう。

 そう判断し、愛可理は身を裂かれるような思いで彼を見送り、当初のスケジュールに従って仙台へと向かった。その旅は思ったよりも十分楽しめはした。だがどうしても隣にいない彼の存在は、物足りなさと寂しさを抱かせた。

 それでも旅行を終え帰ったその日は、彼の部屋へと直行した。その後会社へ出社した愛可理達は、これまでと変わらず何食わぬ顔をして、業務にいそしんだのである。

 もちろん翌年の春に向かって、一つ一つ段階を踏んだ。互いの親や上司に報告した時は、とても驚かれたが祝福を受けた。そうして十二月末には同僚達に、愛可理が三月末を持って寿退職するとの報告をした。

 その相手が光輝だと知って、一部の女性は悲鳴を上げたほど騒ぎになった。男性陣達にとっても、意外な組み合わせに見えたのだろう。年末年始の休みを挟んだにも拘らず、年が明けた課内ではしばらくの間、この話題で持ちきりだった。

 二人が付き合っている事は、徹底的に隠してきたからかもしれない。また光輝は、別の恋人がいると騙してきた。だが一番は二人の年の差婚に、皆が衝撃を受けた為だろう。

 多少の雑音は聞こえてきた。それでも愛可理自身は結婚式に向けた準備や、退職に向けた引き継ぎがあった為、多忙を極めていた。よって下らない話に、付き合う隙など無かった事が良かったらしい。

 また光輝自身が何を言われても、堂々とした態度を貫いていたからだろう。徐々に嫉妬からくる陰口も、少なくなっていった。そうして無事愛可理が退職した翌月、二人は式を挙げることができた。

 新居は既に決まっており、会社の人達に報告した後の年明け早々に引っ越しを済ませていた。おかげで式を挙げるまでの細かい打ち合わせ等は、会社から帰った後でも十分時間が取れたのだ。

 式を挙げる前に少しだけ同棲生活を始めたおかげで、新婚旅行から帰った後の新生活はとてもスムーズだった。

 一緒に住み始めると、それまで気づかなかった嫌な部分や、生活習慣の違いが浮き彫りになり、揉めることがある。しかし二人の間で、ほとんどそうした問題は無かった。 

 多少の違いはあったものの、既に数ヶ月間一緒に暮らしていた為、微調整は済ませていたからだろう。特に愛可理が専業主婦になると決めていた為、家の中の事はほぼ全て任せてくれた点も大きい。

 もちろんこうしてくれ、ああしてくれと彼に指示し直して貰った事はいくつかある。それでもつい甘やかし、黙認した行動もあった。ただし互いに我慢せず、何事も話し合って決めるというルールを定めた。そうして、二人の本格的な夫婦生活が始まったのだ。

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